一章 騎士団での新生活①
カンカンと剣同士がぶつかり合う甲高い音が、穏やかな風とともに響き渡ってくる。
大きな洗い桶から使い古された訓練着を何枚か取り出して広げ、身長よりもわずかに高い位置にあるロープに引っかけていく。今日は風が緩やかだから、どこかへ飛んでいくことはなさそうだ。
「シェリンおねえちゃーん!」
最後の一枚を干し終えると同時に、ギュッと背中から抱きしめられる。小さな手の持ち主――レネを振り返ると、ニコニコと曇りのない笑顔が浮かんだ。
その彼女の後ろから、栗色の髪を三つ編みにした女性が、シーツの入ったカゴを手によたよたと歩いている。
シェリンは慌てて彼女に駆け寄り、大きなカゴを受け取った。
するとその下からは、大きく膨らんだお腹がぽっこりと姿を現した。
「後は私がしておくので、リンダさんはゆっくり休んでいてください」
この辺りに住む女性たちがたくましいことは知っているが、万が一転びでもしたら大変だ。もうすぐ生まれてくる赤ちゃんに何かあってはいけない。
しかし、リンダはクスクスと笑うとカゴからシーツを一枚取った。
「シェリンが来てから全部任せきりだし、少しでも手伝わないとね。レネも手伝ってくれるんですって。ね?」
「うん! レネもやりたい!」
五歳の女の子というのは、何でも手伝いたいお年頃なのだろう。
レネは大きな目をキラキラと輝かせて頷いている。
シェリンは大きな桶に水を張ってシーツを放り込むと、レネのスカートの裾を膝上までたくし上げてやった。
靴を脱ぐと水を吸ったシーツの上に飛び乗って、桶の中でぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ姿は、とても仕事を手伝いに来たようには思えない。
しかし、悪い気分ではなかった。
自分が小さいころに面倒を見てくれていた姉たちも、こんな気持ちだったのだろうかと、思わず笑みがこぼれた。
――あの日、森の小屋を離れて街へ来てから、一週間が経った。
今、シェリンは第三騎士団で住み込みのメイドとして働いている。
街へ向かう途中、ただ保護してもらうだけでは申し訳ないとハンスに相談すると、彼は「騎士団でメイドをしてみないか」と提案してくれた。
ちょうど、出産を控えて退職するリンダの後任を探していたところだったらしい。
そんな経緯もあり、シェリンは今、以前から騎士団に保護されていたレネの世話をしながら、少しずつ仕事の引き継ぎを受けている。
「シェリンが手伝ってくれてほんと助かるわ。手際もいいし、物覚えも早いから。レネもすっかり懐いて……まだここに来て一週間なんて信じられない!」
もうずっと前から一緒に働いていたように感じる、とリンダはクスクス笑う。
「……だけど、たくさん遊んでもいいのよ? シェリンはまだ子どもなんだから。森でも、ずっと一人で暮らしていたんでしょう?」
優しい笑みを浮かべたリンダに向かって、小さく首を縦に振った。
シェリンはいわゆる孤児だった。
生まれてから半分を孤児院で過ごし、それから二回に分けて引き取られた。しかし、二人目の保護者が三年前に亡くなってからは、ずっと一人で森の中で暮らしてきた。
第三騎士団の人たちと出会ったのは三年前のことだ。近くにある研究所で重大な事件が起こり、その調査をしていた彼らがシェリンの家に来た。一人で暮らすシェリンを心配して、それからは月に一度、騎士団専属医のハンスと騎士のカミルが様子を見に来てくれていた。
「騎士団もそうだけど、街の人たちもみんないい人ばかりだから。少し慣れないこともあるでしょうけど、街での生活も楽しんでね」
「はい。お気遣いありがとうございます」
この街の人たちは人間関係を大切にしているようで、突然騎士団に居候することになったシェリンにも親しくしてくれる。
リンダのように、ほとんどの人が特に詮索はせずに、シェリンを歓迎してくれているようだった。
いつの間にか剣同士がぶつかり合う音は止み、騎士たちの話し声や笑い声がかすかに聞こえてきた。
おそらく、短い休憩に入ったのだろう。
「レネさん、お手伝いありがとうございます。そろそろ――」
シーツを干しましょう、と振り返って、思わず苦笑してしまう。
リンダは呆気にとられたようにポカンと固まった。
というのも、濡れないようにとたくし上げたスカートの裾は、いつの間にか何の意味もなさないほど水を吸って色を変えていた。桶の水はほとんど地面に流れ出ており、跳ねた水でびしょ濡れになった本人は楽しそうに笑っているばかりだ。
「ちょっとやだ……レネ、あなたパンツまで濡れてるじゃない!」
「びちょびちょ!」
「レネさん、そのままじゃ風邪ひいちゃいますよ。早く拭きましょう」
ケラケラと笑うレネを抱き上げ、タオルで拭いていく。
「子どもって少し目を離すとこうなんだから……」と呆れたようにシーツを干すリンダに、深く同意した。
「シェリン、悪いんだけどレネの服を取りに行ってきてくれる? 部屋にあるはずだから。私はレネと一緒にここを片付けてから、医務室に向かうわ」
「はい、分かりました」
レネの部屋は騎士団寮の一階、シェリンの部屋のすぐ隣だ。迷う心配はない。
ついて行きたいと駄々をこねるレネをリンダに預けて、シェリンは歩き出した。
日中の騎士団寮は、人気がなくシンとしている。少し遠くから聞こえてくる訓練の掛け声と、自分の足音だけを聞きながらレネの部屋へと向かった。
曲がり角をひとつ抜けたところで、不意に勢いよく開いた扉から誰かが飛び出してきた。
「……!」
慌てて後ずさると、相手の腕が反射的に伸びてきて、よろめいた体をギュッと支えた。
「……失礼しました、あの……ありがとうございます」
「いや、こちらこそ」
勢いよく開いた扉から出てきたのは、背の高い男性だった。
少し癖毛のある黒髪に、黒い騎士服を身にまとっている。すぐに気配に気づいて手を出した無駄のない動き、鋭い眼差し。何より、その場に立っているだけで空気が引き締まるような存在感に、彼がただの騎士ではないのだろうことを悟った。
深く頭を下げて、床に散らばった紙を拾いあげる。
手書きの文字がびっしり詰まった資料の中に、見慣れた地図の断片を見つけて、ほんの一瞬だけ視線が吸い寄せられた。
(……そっか、三年前の事件ってまだ犯人捕まってないんだっけ)
そんなことを考えていると、ふっと大きな影が目の前に落ちてきて、慌てて拾った紙を差し出す。
彼は受け取ると、パラパラと紙を確認し、黙って一枚ずつ元通りに揃えていく。地図が描かれた最後の一枚を拾いながら、ほんのわずかに眉が動いたようにも見えたが、それもすぐに無表情へと戻った。
「悪かった」
短く謝罪の言葉を告げると、男は歩き去っていく。
シェリンはその背中を見送りながら、胸の奥がわずかにざわつくのを感じていた。
(なんか、怖そうな人だったな。あんまり関わらないでおこう)
ここに来てから一週間、食堂などで数多くの騎士たちを目にしたが、先ほどの彼のことはシェリンの記憶にはない。
気軽に声をかけてくれるような騎士と関わることがほとんどだったので、触れるだけで凍りつきそうなほど冷たい空気をまとう彼のような騎士がいたことに驚いた。
立ち方や歩き方からして、相当な実力の持ち主だろうし、気を引き締めなければならないかもしれない。
ふぅと小さく息をついて、急ぎ足でレネの部屋へと向かう。
「レネ、パンツぬれたー」と、先ほどの騎士が歩いていった方向から明るい声がしたのは、きっとシェリンの気のせいだ。