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一章 ロンペルディア公爵家③

 豪華な夕食会に招かれた後、結局一睡もできなかったシェリンは、日が昇るのを窓辺で眺めていた。

 ここから見ても、一切の乱れがないように庭は美しく整えられている。公爵家の庭師になるには、どれほどの力量が必要なのだろうか。きっとここにいるのは、とてつもない苦労と努力を重ねた選ばれし人々ばかりだ。


 そんな恐れ多い気持ちを和らげるようにスゥスゥと部屋に響くレネの小さな寝息には、思わず笑みがこぼれた。

 子どもはよく寝るというが、それにしても素晴らしい寝入り様だ。豪胆さで言えば、シェリンよりもレネの方が圧倒的に上だ。彼女ならどこに行っても生きていけるだろう。


(……少しだけだったら、大丈夫かな)


 シェリンは上品なデザインが施された扉に視線を向けた。


(ご丁寧に、護衛まで)


 部屋で寝る支度を始めてから今までずっと、扉の前から動かない人の気配がある。それも、シェリンたちを起こさないよう足音すら立てずに静かに。

 おかげでレネはぐっすり眠っているが、森の暮らしで人や獣の気配に敏感なシェリンは、最初は何事かと身構えてしまった。むしろ、この気配のせいでより目が冴えてしまったほどだ。


 さすがに屋敷の中で何かあるとは考えにくいが、この部屋にはレネもいるので、何かあったときのことを考えてだろうか。フュラーは世話役を用意してくれたらしい。

 公爵家に雇われている騎士だから、万が一何かあっても、実力は信用できそうだ。


 レネを起こさないように気をつけながら、持ってきたエプロンドレスに着替える。


 静かに扉を開けて外へ出ると、予想通りの位置で護衛をしてくれていた騎士がこちらを覗き込んできた。

 彼は一瞬目を丸くしたあと、「どうかなさいましたか?」とにっこり微笑んだ。


「何かお手伝いすることはありますか?」

「手伝い、でございますか?」

「はい。朝食の準備でも、掃除でも、何でも構いません」


 公爵家の使用人ともなれば、使用人という職種の中でも格別の存在。一介の、しかも平民のメイドが彼らの横に立とうなど、おこがましいのかもしれない。

 しかし、見返りがない善意ほど怖いものはないと、シェリンは知っている。何かできることはすべきだろう。形だけだったとしても騎士団のメイドという役割があるなら、なおさら。


 すると、騎士はクスクスと笑った。

 やはり平民ごときが出過ぎた真似だっただろうかと困惑していると、彼は咳払いをしてすぐさま職務中の顔つきに戻った。


「申し訳ございません。フュラーさまの仰ったとおりだなと思いまして」

「団長が?」

「はい。『きっと何か雑用でもしようとするだろうが、ゆっくりさせておけ』と。フュラーさまはみなさまをお客様としてお迎えしておられますので、ご客人に使用人の仕事をお手伝いいただくなど、滅相もないことでございます」

(なる、ほど……?)


 これには、たしかに彼は騎士団を統括する人物としてふさわしいと納得し、同時に少し背筋が凍る心地だった。

 フュラーは、シェリンが思った以上に騎士団に所属する人間をよく見ている。それはおそらく、団長としてこの上なく正しく、多くの部下にとって彼が良き上司であることの証明でもあるが、隙を見せればすぐさま狩られるということでもある。


 もちろん、シェリンは騎士団を、彼を、裏切るようなことをするつもりはない。

 けれど、同じ事件で同じように家族を亡くした遺族としてフュラーの隣に堂々と立てなくなったとき、彼はきっとシェリンに敵意を抱くだろう。いや、そんな生ぬるい感情ではないかもしれない。最悪の場合は、仇を討つという、殺意だ。


(……気をつけないと)


 これほど行動を読まれている時点で、フュラーは何かしらの疑念をシェリンに抱いていると言っていいだろう。少なくとも、子どもとしてはどこかおかしな部分があることは気づかれている。今は彼の優しさでその背景を深く探るようなことはされていないが、「変な子ども」という枠組みから一度出てしまった時点で、フュラーが味方ではなくなることは明白だ。


「もしよろしければ、屋敷内をご案内しましょうか?」


 護衛の騎士はそう言って笑った。

 何もすることがないなら、暇だしそれもいいかもしれない。

 けれど、レネが起きたら一人になってしまう。シェリンを探しに部屋の外へ出て、この広大な屋敷で迷子になる。それは言うまでもないことだった。


 しばらく考えてから首を横に振ると、彼はこちらの内心を見透かしたかのように静かに続けた。


「もうすぐ代わりの者が来ます。侍女も待機しております。心配ございませんよ」

「でも……あなたが休めないのでは」

「お気遣いありがとうございます。ですが、あまりお気になさらないでください。久しぶりのお客さまで私もうれしく思っておりますので」

「……では、お願いいたします」


 ここまで言ってくれているのに断るのは、さすがのシェリンでも気が引けた。

 彼の言うとおり、すぐに交代の護衛騎士が来て、彼は任務を引き継ぐ。シェリンも、もしレネが起きたら様子を見てもらえるように頼んでおいた。


「……さて。では行きましょうか」


 騎士に促されるまま歩き出す。


「私はフリーゲルと申します。どうぞフリーゲルとお呼びください」

「フリーゲルさん。朝早くから申し訳ありません。私のことはシェリンとお呼びください」


 フリーゲルはとても気さくな青年だった。

 シェリンがあまり自分から話さないのを見て、さまざまな話をしてくれた。廊下のオブジェのことや、公爵家直属の騎士団のこと。さらにはフュラーのことまで。

 相手が子どもだからといって、遊びや物語を話題にするのではなく、こちらの反応を見ながら興味のありそうな話を探っているようだった。


(……貴族の世界ってみんなこうなのかな)


 相手の些細な変化さえ見逃さず、目の前の人間が何を考えているかに常に気をつかう。それは彼らにとって当たり前の行動なのかもしれないが、まるで腹の内を探り合っているように感じて、なんともいえない気分だった。


 そうして屋敷の中を案内してもらっていると、廊下にかけられた一枚の肖像画が目に入り、思わず立ち止まった。


 微笑を浮かべた青年が、上品な騎士服を身にまとってこちらを見つめている。

 まだどこか幼さの残る彼の姿をシェリンが知るはずもないのに、不思議とその笑みはどこか、懐かしかった。


(これは、剣……?)


 肖像画の前には、ショーケースに丁寧に入れられた、剣のようなものが一つ。だが、鞘が無く、むき出しの剣身はところどころ歪んだり、黒くくすんでしまっている。


「正義と、忠誠の騎士……」


 ショーケースの中のプレートには、そう書かれていた。

 肖像画に描かれた人は、まさにその言葉がよく似合う雰囲気をしている。


「この人が……」

「子どもはまだ寝ている時間だろう」


 背後から静かな声がして、シェリンは振り返った。


(気配を、感じなかった)


 窓から差しこむ朝日を背負ったフュラーは、シェリンの視線の先を見ていた。

 フリーゲルは、と視線を動かすと、彼はいつの間にか廊下の隅に気配を消すようにして立っている。


 目が覚めてしまって、と謝れば、彼は「そうか」とだけ頷いた。


「……俺は、兄に似ているだろうか」


 なぜそんなことを聞くのか不思議だったが、なんとなく「似ている」とは言ってほしくなさそうな気がして、言葉を探す。


「……笑い方が、少し」


 彼はまた、「そうか」と静かに頷いた。

 そして、ショーケースに手を這わせて続ける。


「これは、兄の形見だ」

「お兄さまの……」

「三年前のあの日、遺体も何もかもが燃え尽きた中で、この剣だけは灰にならなかった。鞘が特別な素材で作られていたからな」


 それでも剣身に歪みやくすみができたということは、当時の状況がどれほど凄惨なものだったかをうかがえた。

 原型からかけ離れたこれを見つけたとき、フュラーはどんな気持ちだっただろう。


「団長は、よくお兄さまに会いにくるんですか?」


 思わず、シェリンは尋ねていた。

 フュラーは肖像画を見上げたまま、短く息をつく。


「……ああ。こうでもしなければ、兄がどんな顔をしていたか、どんなふうに剣を振るったか、俺はきっと忘れてしまうだろう」


 その声音は、淡々としているのにどこか胸に響く。


 シェリンは言葉を失った。

 忘れないために足を運ぶ――それはシェリンにとって、あまりにも自分と正反対だったから。


(……忘れたくないけど、忘れたい)


 でもきっと、それは贅沢なのだと、そう思わせられた。


「お前は……寂しくはないのか?」


 彼の横顔は真剣だった。

 問い詰めるような強さではなく、ただ、同じ痛みを背負う者として。


 真っ暗で冷たい地下室が、一瞬、頭の中によみがえる。

 そう、ちょうどこんなふうに無機質な床の上に、積み重なるようにして小さな体が――


「……シェリン?」

「あ……そう、ですね。寂しいです。でも、だから、あんまり思い出したくないです」


 それは真実でもあり、誤魔化しでもあった。

 自分でも稚拙な言葉だと分かっていた。けれど、今この場でそれ以上を語るつもりはなかった。言葉が詰まって上手く出てこないから。


(自分が思っている以上に、私は弱い)


 フュラーはしばらく黙ったまま、ショーケースの剣に目を落とす。

 長い沈黙のあと、低く落ち着いた声が響いた。


「……無理はしなくていい」


 そう言って、今度はシェリンの方に視線を向ける。その瞳は、鋭さよりも温かさの方が勝っていた。


「だが、せっかく王都に来たんだ。お前なりに『光送りの夜』を楽しめるといいな」

「……そうですね」

「ここにいる間は、休暇だと思って、少しゆっくりするといい」


 早朝から動き回ったことを、彼はあまり良く思っていないらしい。責めるような、けれど穏やかな言葉を残して、彼はゆっくりと背を向けた。

 その後ろ姿が廊下の奥に消えるまで、シェリンは動くことができなかった。

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