七章 騎士たるもの②
「俺……騎士、辞めたくない」
ぽつりとこぼれた言葉は、まるで川の水音に溶けてしまいそうなほど小さかった。
カミルは地面を見つめたまま、拳をぎゅっと握っている。
濡れた服の端から、ポタポタと雫が落ちていた。
「子どものころさ、城の警備に立ってた騎士を見て、かっこいいなって思ったんだ。剣を腰に下げて、まっすぐ前を向いて立っててさ。……すげぇ強そうで。ほんとに、かっこよかった」
語る声は、どこか遠くを見つめるようだった。
「俺、孤児院で育ってさ。孤児ってだけで、よく冷たい目で見られることも多かったんだよ。だから、誰よりも強い騎士になりたかった。誰かを守れる人間になりたかったんだ」
悔しさが喉の奥につかえてしまったように、苦しげな声がぽつりぽつりとこぼれていく。
「やっとなれたのに。やっと掴んだのにさ……今の俺じゃ、もう誰も守れない。走れない。剣も満足に振れない。あんな子ども助けるのだって――ひとりじゃ無理だった」
川のせせらぎが、カミルの言葉の合間に静かに流れた。
シェリンは何も言えなかった。
ただ隣で、「はい」とか「そうなんですね」とか、ありきたりな相槌が精一杯だった。
「分かってんだ。もう前みたいにはいかねぇってことくらい。誰よりも分かってる。……だけどよ」
ふと、カミルは空を仰いだ。
そこには、まぶしすぎるほどの青が広がっている。
きらりと光を受けた雫が、一滴、彼の頬を流れ落ちた。
「なんで俺だったんだろうなぁ……なんで、俺が諦めなきゃいけねぇんだろうなぁ……」
その声は脆くて、でも確実に彼の心の奥底を写し出していた。
しばらく沈黙が続いた。
川の流れが、まるで何事もなかったかのように音を立てている。
その中で、シェリンはぽつりと、言葉を落とした。
今までの話を聞いていて、単純に疑問に思ったこと。
「……リシャールさんを助けたこと、後悔してますか?」
その一言に、カミルの方がびくりと揺れた。
彼の顔は上がらない。代わりに、膝の上に乗せられた拳にぎゅっと力が入っていた。
「なんだよ、それ……」
低くかすれた声だった。
「いや、あの……。そんなつもりじゃなくて。ただ、もし……助けなければ、カミルさんの足は――って、思ってしまって」
シェリンは、丁寧に言葉を選ぶようにして続ける。
「……でも、カミルさんは多分、目の前で傷ついてる人がいたら、放っておけないんだろうなって、思うので。だから……どう思ってるのかなって、ちょっとだけ気になって……」
「――そんなわけ、ねぇだろ!」
カミルの声が、川辺に響いた。
顔を上げた彼の目は、赤く潤んでいる。
「目の前で、アイツが死ぬほうがよっぽど……よっぽど嫌だったんだよ! そんなの、見てられるわけねぇだろ……!」
吐き出すように言ったあと、カミルはそのまま視線を逸らし、何かを噛みしめるように口を閉ざした。
その横顔を見つめながら、シェリンはそっと目を伏せる。
(……なんだ。やっぱりカミルさんは、誰がどう見ても騎士だよ)
理由なんて、うまく言葉にできないけれど。
自分の騎士生命を失っても、他の人を救えるならいいと言える彼は、剣を持てなくたって正真正銘の騎士なんだと、そう思う。
シェリンの手が、ふとポケットに触れる。
取り出したのは、小さなハンカチだった。
「……これ」
少しぎこちなかったかもしれないが、そっと彼にハンカチを差し出した。
カミルは一瞬、呆けた顔でそれを見つめ、ふっと肩を震わせて笑った。
「……こんなところにまで持ってきてるなんて、さすがだな」
「第三騎士団のメイドなので」
静かに微笑むと、彼は「ありがとな」と小さく言って、それを受け取ってくれた。
しばらくして、彼はぽつりと呟いた。
「みっともねぇとこ見せちまったな」
そんなことはない、と首を横に振ると、カミルは恥ずかしそうに視線を逸らして笑った。
「シェリンも何か辛いことあれば、俺の胸貸してやっからいつでもこいよー?」
「……そのときは、よろしくお願いします」
ケラケラと笑ったカミルに、シェリンは苦笑しながら頷いた。
「これからどうすっかなー」
「騎士団、辞めるんですか?」
「まぁ、な……続けてぇけど、この足じゃ足手纏いになるだけだしな。団長たちも困るだろ。お、そうだ! 俺もシェリンと同じく雑用係するか!」
どこか雰囲気の変わったカミルにシェリンが戸惑っていると、そんな気持ちを見透かしたかのように、彼は小さく笑った。
「さっき言われて気がついたんだよ。助けたことを後悔してなんてない。もちろんあんなことさえ無けりゃ……って気持ちはあるけど、こうなっちまったのはもう変えられない。それに、騎士じゃなくても誰かの役に立つことはできる。俺、シェリンのおかげで踏ん切りがついた」
川のせせらぎは変わらず静かに流れ、空の青はますます澄み渡っていた。
風が、木々の葉をやさしく揺らしている。
カミルは、膝の上に置いたハンカチをそっと握りしめる。
その手はまだ震えていたが、指先には、ほんの少しだけ力が戻っているように見えた。
***
川辺からの帰り道。
シェリンたちは、行きに仕掛けた罠を確認しに来ていた。
「……ん、どうした? シェ――」
「静かに」
急に立ち止まったことに驚いて、こちらを覗き込んだカミルの口を手でぎゅっと押さえ、弓で視線の先を指す。
少し離れた木々の間の、行きに仕掛けた罠の位置。
その近くに、茶色いうさぎがぴょこぴょこと顔を出していた。
シェリンはうさぎを見つめながら、音を立てないようにそっと矢を一本取り、静かにつがえた。
ググッと右手で限界まで引っ張り、狙いを定める。
シェリンの視線の先に映るのは、もぐもぐと地面の草を食べている一羽のうさぎ。
集中力を限界まで引き上げる。
周りの音が少しずつ聞こえなくなり、やがて無音になった。
世界には、自分と獲物のうさぎだけ。
違和感に気がついたうさぎが、ピクリと耳を立てる。
――視線が、交わった。
(……逃げる)
パンッ! という音の少し後に、ドサリとうさぎが倒れる。
その眉間には、シェリンが放った矢が突き刺さっていた。
ふぅと小さく息を吐くと、隣でカミルがゴクリと唾を飲み込む音がした。
「……っすげぇ! シェリン、お前かっけぇな!」
カミルの目は、キラキラと輝いている。
(元気になってくれたみたいで、よかった)
シェリンはその場でナイフを使いながらうさぎの血抜きをして、持ってきた袋に入れる。
すると、背後から遠慮がちに声がかかった。
「……シェリン、その……俺も、弓使ってみたいんだけど……っ!」
「え……? それは、別に構いませんが、短弓なのでカミルさんには合わないかと……」
もともと体の小さいシェリンに合わせて作ってある短弓なので、騎士で体格もしっかりしている彼が持つと、まるで子どものおもちゃのようだ。
しかし、カミルはそれでもいいと言う。
「すげぇ……これが弓か……」
「使ったことないんですか?」
「俺はずっと騎士目指してたからなぁ。剣しか使ったことなくてよ。なんか新鮮だ」
カミルはニコニコと笑った。
二つ目の地点に行くと、そこでは罠にかかったうさぎがジタバタともがいていた。
シェリンが先ほど射たのと同じ種類のうさぎ、しかも一回り大きいサイズのものだった。
足が固定されているとはいえ、ジタバタと動き回っているので、初めての的にしては難しいかもしれない。
というそんな心配は、必要のないものだった。
カミルが引き手を緩めると、パァンと気持ちの良い音が空に響いた。
少し離れた先では、うさぎの頭あたりに矢が刺さっていた。
「お……俺、やった……?」
「……すごい」
「や、やったぞ! シェリンっ!!」
カミルは、太陽のように眩しい笑顔を浮かべた。
その後も順調に狩りを進め、途中で木の枝にとまっている鳥まで狩り始めたカミルを慌てて止めながら、森の中を歩いた。
彼のおかげで、袋の中はどっさりだ。
(向いているかも、とは思っていたけど……ここまでセンスがあるなんて)
カミルは普段の明るい性格に反して、訓練時には高い集中力で冷静に物事を見ているようだった。分析しながら最適解を導き出す――それができるからこそ、彼は部隊の隊長を任されているのだろうが、そんな技術は彼の才能の一部でしかなかったのかもしれない。
ふと、カミルは何かを思いついたようにぽつりと呟く。
「……シェリンはさ、弓を持った騎士ってどう思う?」
「弓を持った騎士、ですか……?」
持ち運びが大変。
近づかれたら、対抗手段がない。
そんな課題はたしかにある。しかし――
「使い方次第では、戦況がきれいにひっくり返るくらいの存在になるかも……しれないです」
「……だよな?」
現在の主な戦闘方法は、馬に乗って戦うか、地面の上で剣を交わすことがほとんどだ。
はるか昔ならば、古代魔術を使うという手もあっただろうが、今はそんなおとぎ話のような力は存在しない。
つまり、そんな接近戦中心の世界に、突然遠距離から攻撃が可能な武器が乱入すれば――どこからやって来るかも分からない攻撃に怯えながら、目の前の敵とも対峙することになる。
到底、そんな状況で集中できるはずもなく、疲弊するのも早くなる。
そうなれば、戦況は一気に傾くだろう。
それに――
「馬の上でも、背後に弓を引けたら……」
後ろからは、誰も追えなくなる。戦線離脱が、圧倒的に楽になる。
なにしろ、敵が剣を持って後ろから攻撃してくることを、気に留めなくて良いのだから。
「……弓ってさ、もしかして強いんじゃね?」
「……そんな気がします」
ぼそっとカミルが呟いた言葉に、シェリンも首を縦に振った。
そして彼はふと何かを考えるようにうつむいたあと、パッとこちらを見た。
「ありがとな、シェリン! お前のおかげで、騎士を続けられる方法が見つかったかもしれねぇ!」
「新しい騎士団、楽しみです」
少し躊躇ったあと、シェリンの手をそっと握った彼は、心の底からうれしそうな笑顔を浮かべた。
「待ってろよ団長ぉおおお!!」
カミルの声が遠ざかると、森には再び木々の葉擦れと小川の音だけが残った。
さわやかな風が、二人の足元をそっと撫でた。