七章 騎士たるもの①
今日は、レネはミアを連れてリンダの家に遊びに行っていて、いつもの賑やかさはなかった。
リンダの息子であるハフナーとはすっかり仲良しで、以前まではあんなにシェリンから離れようとしなかったのに、今ではリンダの家に遊びに行っている日が多いような気さえする。
迷惑ではないかと思っていたが、リンダからすると、ハフナーの相手をしてくれるだけでずいぶんと助かっているらしい。「家が賑やかになっていいわ」と笑っていた。
小さかったレネの成長は、うれしいような、寂しいような、そんな複雑な感情だった。
ハンスも街へ往診に出かけていて、午後は不在。
夕食まで帰ってこれないということで、医務室にはカミルとシェリンの二人だけがいた。
カミルは窓辺に腰掛け、外の空をぼんやりと眺めていた。
外から吹き込んでくる風はやや生ぬるく、今日は少し暑い日のようだった。
「なあ、シェリン」
ふいに名前を呼ばれて、シェリンは薬瓶を整理する手を止める。
「……剣、取ってきてくれないか? 俺の部屋から」
思わず眉をひそめた。
いったい、何をするつもりなのか。
「剣……ですか? どうしてです?」
カミルは肩をすくめて、少し視線を逸らす。
「ちょっと、森に出かけたいだけなんだ。動く練習も兼ねてさ」
ああ、やっぱり、とシェリンは小さく息をついた。
「でも、まだ――」
「もうすっかり動けるし、大丈夫だって。ハンスは過保護だからベッドの上から逃がしてくんないし。あいつがいない今がチャンスなんだ。なあ、頼むよ」
口調は軽いのに、目が真剣だった。
シェリンは迷った。けれど――その目に宿る切実さに、つい押し負けてしまう。
「……少しだけですよ。無理はしないって、約束してください」
「おう! 約束する! ゆっくり歩くだけにするから!」
カミルは満面の笑みを浮かべた。
その顔を久々に見た気がして、シェリンはほんの少しだけ胸があたたかくなった。
***
「おいおい、シェリン。何だそれ」
「弓です」
カミルの剣とともに持ってきた短弓を見て、彼は不思議そうな顔をした。
「なんで弓なんか……」
「カミルさんが森に行くとおっしゃったので、せっかくなら久しぶりに狩りでもしようかなって」
「まじか……シェリンって意外とたくましいとこあるよな」
「これでも、一ヶ月前までは森の中で暮らしてたので」
シェリンは罠を使って狩りをすることがほとんどだが、息の根を止めるときに獲物が暴れると血が飛び散って服が汚れてしまうので、ナイフではなく短弓で仕留めることが多いのだ。
罠の準備もしっかりしてきた。
これならウサギの一羽や二羽、捕まえることだってできるはずだ。
途中で罠を張るために寄り道しつつ二人で向かったのは、カミルのお気に入りの場所。少し森を入ったところにある、川沿いの小さな開けた場所だった。
夏らしい熱い陽光が、水面できらめいている。
その川では、街の孤児院の子どもたちが水をかけ合って遊んでいた。どうやら引率の大人たちは、少し離れたところにいるらしい。
「なんか賑やかだな」
笑うカミルに、シェリンも肩をすくめて微笑んだ。
「天気がいいですからね。冷たくて気持ちよさそうです」
「入ってきてもいいぞ?」
「いえ、結構です」
シェリンが即答すると、カミルはケラケラと笑った。
彼は持ってきた剣を鞘から抜くと、ブンっと一振りする。
踏み込んだり、走ったりできなくても、彼はその場でひたすら剣を振り続ける。
心地のいい音が、川辺に響いていた。
(……いい顔してる)
先日のハンスとの喧嘩から、笑っていてもどこか重苦しさを表情に見せていたカミルだが、今は憑き物が取れたかのようにいきいきと明るい顔をしていた。
彼はやはり、剣を振ることが好きなのだろう。
シェリンは川辺の岩に腰を下ろし、彼が素振りをしている様子をじっと眺めた。
子どもたちのはしゃぐ声と、優しい川のせせらぎ。そして、カミルの美しい素振りの音。
穏やかな時間が、ゆっくり、ゆっくりと流れていく。
しかし、その静けさは突然破られることとなった。
「きゃああっ!」
「待って! ダメっ!!」
甲高い子どもの悲鳴と、焦りの滲んだ女性の声が、穏やかな川辺に響きわたった。
振り返ると、川の中央付近、一人の子どもが流れにのまれ、もがいていた。
「マズい……!」
カミルが即座に剣を捨て、川の中へ向かおうとする。
「待ってください、ダメです!」
シェリンは腕を掴んだ。
足のことがある。無理に動いて悪化してしまったらよくない。
「私が誰か呼んでくるので――」
「このまま見てられるわけないだろ!」
カミルの目に、かつての鋭さが戻っていた。
躊躇いのない一歩が、彼を川へと近づけていく。
――止められない。
「……待ってください!」
シェリンは、狩り用に携帯していたロープを急いで取り出した。
すぐにカミルの体にそれを巻きつけ、自分の腰に端を結ぶ。
それほど長くはないが、無いよりはマシなはずだ。
「引き戻せるようにしますから、無理はしないで!」
「ありがとう、シェリン!」
カミルは一瞬だけ笑い、川の中へと飛び込んだ。
水しぶきがあがる。
沈みかけた子どもに素早く泳ぎ寄り、腕を掴む。
「つかまれ!」
カミルが叫ぶ。
彼が子どもの体を掴んだのを確認してから、ロープをしっかり握りしめ、川岸へと引き寄せる。
(……っ重い!)
水の流れと人間二人分の重さは、到底想像していたよりも重かった。
ずりずりと、シェリンの体が川の中へと引き寄せられていく。
「……っ!」
引きこまれる、そう思ったときだった。
ロープを掴む手が、支えられる。
子どもを助けに川へと入っていた女性が、ロープを一緒に引いてくれる。
他の子どもたちも、シェリンの体を支えるようにわらわらとしがみついてきた。
やがて、子どもとカミルの体がずぶ濡れになりながら、川岸に引き上げられた。
咳き込む子どもの背中を軽く叩きながら、意識を確認する。
「だ、大丈夫か? 怪我はないか?」
カミルが心配そうに子どもを覗きこむ。
シェリンは彼に向かって小さく頷いた。
「少し水を飲んだみたいですが、おそらく大丈夫だと思います。念のため、この後お医者さんのところへ行ってください」
「ありがとうございます……! 本当にありがとうございます!」
孤児院の先生と思われる女性は、目に涙を浮かべながら何度も頭を下げた。
溺れた男の子の震える小さな手が、カミルの服をぎゅっと掴む。
「助けてくれてありがとう、騎士さま!」
その一言に、カミルの顔がぐしゃっと歪んだ。
笑うでもなく、泣くでもなく、感情の名を持たない震えが、彼を包んでいるようだった。
「……騎士、だってさ」
子どもたちが去ったあと、カミルは、シェリンに向かってぽつりと呟いた。
ポタ、ポタと、髪の毛から雫が滴り落ちる。
「俺……」
少し唇を噛んで、言葉を選ぶように続けられた。
「……やっぱり、騎士辞めたくない」
すがるような弱々しい声に、シェリンは何も言えなかった。
細く、今にも消えてしまいそうな儚さ。
いつも笑顔で明るく頼れる彼は、今は寄りかかれば折れてしまいそうなほど頼りなかった。
川の水は、何事もなかったかのように、ただ静かに流れていた。
さっきまで命のやりとりがあったその場所でさえ、陽光はきらきらと輝いている。
世界は、変わらない。
たとえ自分がどれほど強く願っても、叫んでも、何も変わってくれたりはしない。
風がそっと木々を揺らす音だけが、遠くから響いていた。




