序章 真夜中の訪問者②
すりこぎを手にしたまま眠っていたシェリンは、ドンドンと激しく扉を叩く音で目を覚ました。
静かに瞼を持ち上げると、作業用の明かりとして火をつけた長い蝋燭が燃え尽きており、部屋の中は真っ暗だった。
(もう夜か……ずいぶん寝ちゃったな)
ちょうど日が昇ったころから作業を始めたので、今日一日を寝て過ごしていたことになる。
やはり慣れないことはするものではないなと苦笑した。
(それより……)
最近は夜中に人の気配を感じることが多い。おかげで眠れない夜を過ごすことが増えてしまって困ったものだ。
しかし、今日は昨日とは違って、扉を叩いてくれるお行儀の良い人間らしい。
まさか変わり者の物盗りではないだろうなと少し不安に思いながら、暖炉へと向かう。わずかに残っていた火を新しい蝋燭に移し、それを明かりにして扉まで歩いた。
「シェリン! ハンスだ! いたら返事をしてくれ……っ!」
先ほどから鳴り止まない扉を叩く音とともに、聞き慣れた声がする。
しかし、扉の外から聞こえてくる声には、普段の穏やかさはなく、代わりに焦りが滲んでいた。
シェリンの知るハンスはとても誠実な人だ。定期訪問以外で、しかもこんな真夜中に訪ねてくるなんて、それだけ重大なことが起きた証拠だった。
いったいどうしたのだろうかと不思議に思いながら扉を開けると、すぐ目の前にいた彼は目を丸くした後「よかった」と息をついた。
「こんな時間に突然ごめんね。寝てた?」
「そう、ですね……出るの遅くなってすみません」
ハンスのすぐそばと後ろには、腰から剣をぶら下げた騎士が数人いた。自衛手段を持たない医師がこんな真夜中に出かけているのだから、当然だろう。
しかし、シェリンが外に出てきても常に周囲を警戒している様子を見るに、それだけが理由ではなさそうだった。
「狭いですが、どうぞ」
ハンスや周囲の騎士たちに家へ入るように促し、暖炉に薪をくべる。そして、水を入れたままだった鍋を吊るしていると、ふっと影が差した。
「よっ、シェリン。遅い時間に悪かったな」
「カミルさん、こんばんは」
愛想の良い笑みを浮かべながら手伝いに来てくれたのは、シェリンもよく知る騎士、カミルだった。
彼は、ここから一時間ほど歩いたところにある街で、第三騎士団の一員として活躍している。ハンスはその第三騎士団の専属医師であり、彼らは森に一人で暮らすシェリンの様子を、定期訪問という形で月に一度確認しに来てくれていた。
「これ、消毒薬? 怪我したの?」
テーブルの上に作りかけのまま置かれたすり鉢を見たのか、ハンスは心配そうにこちらへ視線を向けている。
すり潰された薬草を見ただけで何を作ろうとしていたか分かるとは恐ろしい。さすがは騎士団の専属医師だ。
「いえ、これは消毒用というよりは、消臭用に。昨日運良く大きなイノシシが罠にかかって。家の前で頑張って解体したんですけど、そしたら血の臭いがこびりついちゃって」
「ああ、だからあんなに血の臭いがしてたのか」
たくさんあるのでもし良ければ持って帰りますか、なんて苦笑していると、ハンスは一度迷うように目を伏せた。それから、覚悟を決めたように顔を上げ、口を開いた。
「……シェリン。近くの家が、盗賊に襲われたんだ」
その言葉に、シェリンは手を止めた。
パチパチと火の弾ける音だけが、鮮明に聞こえる。
「昨日の夜遅く、ここから少し北に住んでる農家さんが……家の中はひどい荒れようで、住人の夫妻は亡くなってた。今日の夕方に知り合いの人が発見して騎士団に通報があったんだ」
「そう、なんですね……だから、こんな時間に……」
もしかするとシェリンも襲われているかもしれないと心配で、この真っ暗な中、馬を走らせてくれたようだった。
小屋の中に入ってきたのがハンスとカミルの二人だけなのも、シェリンをよく知る人間が彼らだからかと思っていたが、どうやら外で待機している騎士たちは、近くに潜伏しているかもしれない盗賊を警戒してくれていたらしい。
これは少し長い話になりそうだ、とテーブルの上を片付け、いつものようにティーセットを取り出す。薬草棚から乾燥させておいた茶葉を引っ張り出し、ハンスの向かいに座った。
「街に、来ない?」
真剣な面持ちで、ハンスは切り出した。
以前にも、こんな話をしたことがある。
三年前に彼らと初めて会ったときにも、街で暮らさないかと言われたが、シェリンはそれを断った。それからは、ここで暮らしたいというシェリンの気持ちを尊重してくれていたのだ。
「シェリンが、この家を大切に思ってることはもちろん分かってる。でも、やっぱり一人で暮らすのは危険だと思う。今回シェリンは運良く襲われなかったけど、次もそうとは限らないから」
ハンスの隣で、カミルが腕を組みながら頷いた。
「こんな深い森を抜けてくるとは考えづらいが、帝国の奴らが攻めてこないとも限らない。そうなったとき、助けが間に合わないかもしれないしな」
「それは、そうですね……」
シェリンが住んでいるのは、第三騎士団の本拠地がある街よりも西。この深い森で隔たれたさらに西側は、強大な軍事力を誇るシャトロワ大帝国という隣国の領地だ。戦争好きの皇帝が各国を属国にしてまわっている今、このカルベール王国もいつ攻め入られるか分からない。
もし仮にそうなったとき、おそらくここは救援が来るよりも早く蹂躙されてしまうだろう。
「だから、お願いだ。成人するまでの間、第三騎士団で保護させてほしい。……きっと、君を育ててくれた人だって、危ない目には遭ってほしくないと思うんだ」
眼鏡の奥の瞳が、緩やかに細められる。
ハンスの、シェリンの身を案じる気持ちが、痛いほど伝わってきた。
(……そろそろ潮時かな)
ここでの生活もかなり慣れてきたし、そろそろ街に移ってもいいかもしれない。何より、騎士団という後ろ盾があれば、王都に行くことも別の国へ行くことも容易くなる。
成人まで、ということは、シェリンは今十三歳なので、あと二年。それだけの期間があれば、いろいろ準備もできる。
コポコポとお湯の沸いた音が響いて、お茶をいれようとしていたことを思い出した。が、それももう必要なさそうだ。
しばらくの沈黙のあと、シェリンは小さく笑った。
「……分かりました。お世話になります」
素直に答えたことに安堵したのか、ハンスはホッとしたように笑みを浮かべ、カミルも小さく肩の力を抜いたようだった。
「荷物はすぐまとめます」
「よかった……じゃあ、準備できたらすぐ出よう。本当は明るくなってからの方がいいんだけど、盗賊がどこに潜んでるか分からないからね。騎士団まではカミルたちが護衛してくれるから、安心して」
「はい」
シェリンはこくんと頷くと、暖炉のそばに置かれた小さな木箱に歩み寄った。
普段からまとめてある生活用品を麻袋に手際よく詰めながら、視線を下げる。
木箱の下から覗く床板は他の場所と比べるとわずかに色が違うが、荷造りを手伝ってくれている二人は気づいていないようだった。
そのことに安堵しつつ、ぽつりとつぶやく。
「昨日も今日も、森の中は静かでしたよ。多分、私のところまでは来なかったんでしょうね」
「そうか。この辺りは道が入り組んでるし、そう簡単には辿り着けないからな」
帰り道も静かなことを願おうぜ、と冗談めかして笑うカミルに、ハンスも笑っていた。
(……移動中はしばらく寝てようかな)
件の盗賊に襲われることはないとシェリンは確信をもって言えるし、もし何かあっても騎士たちが守ってくれるだろう。
今日一日寝ていたにもかかわらず、連日の寝不足が祟って眠気がひどいのだ。
「街、ちょっとだけ楽しみです」
シェリンはにこりと微笑み返す。
きっと、今のシェリンは純真無垢な子どもに見えているだろう。
この小屋の床下に見せたくない物を詰めこんだように、隠すべきものは、シェリンの中に仕舞い込んでしまえばいい。
そうすれば、本当のことなんて誰にも分からないのだから。
ただ、背後の窓の外――深い森の闇の中、誰にも知られることなく小さく揺れる湖面だけが、真夜中の秘密を静かに飲みこんでいた。