六章 痛みに悶える人々②
第三騎士団が街へ戻ってから数日。
広い騎士団舎の中に、一つの噂が静かに、けれど確実に広がっていた。
「――カミルさん、もう前線には戻れないって、本当か?」
「右足がダメになったらしい。動けても、もう騎士の動きはできねえって」
「……あの呪いのせい、だろ? なあ、アイツ結局何者なんだよ」
火に油を注ぐように、囁きが重なる。
廊下の隅、訓練場の片隅、食堂の小さなテーブル――どこでも、ささやくようにその話は交わされていた。
誰も声を荒げたりはしなかった。
でも、その静けさが逆に、どこか不気味だった。
シェリンは、手にした食器をそっとトレイに戻しながら、食堂の隅で交わされるそんな会話を横耳に聞いていた。
名指しこそされていなくても、そこにあるのは間違いなくリシャールのことだった。
カミルの怪我の原因は、呪い子であるリシャールが招いた不幸のせいだと噂されていた。
そして、彼が帰還してから一度も姿を見せていないことが、その不信をさらに強めていた。
(……まあ、こうなることは、頭では分かるけど)
シェリンは、トレイを両手で抱えて席を離れた。
残された会話が背後でまだ続いている。
「……でもさ、あいつ、もう成人だろ? うちで面倒見なくてもいいんじゃないか?」
たしかに、と同調するような声が響いた。
もう聞かないようにしよう。そう思って、足早にその場を離れた。
食堂の扉を出て、廊下に出る。窓の外では、太陽の光が細く差し込んでいた。
静かな風が、重く淀んだ空気のように頬を撫でていく。
今朝外から見たところ、リシャールの部屋のカーテンは固く閉ざされ、昼なのに彼の部屋だけがまるで夜の中に沈んでいるみたいだった。
(ただの噂が、人をこんなにも簡単に斬ってしまうなんて)
扉の奥のざわめきが、遠ざかっていった。
静かな午後、シェリンはリシャールの部屋の前に立っていた。
扉は閉じられたまま、中から物音はしない。
少しだけ躊躇ってから、そっとノックした。
「リシャールさん。お昼ご飯はもう食べましたか?」
予想通り、答えはなかった。
いつものように皿をのせたトレーを扉の前に置きながら、小さく息を吐く。
「お腹空いてませんか? お昼ご飯、ここに置いておくのでもしよかったら食べてください」
思わず耳を澄ましたが、室内からは衣擦れの音すらしなかった。
シェリンはそれ以上、無理に扉を開けようとはしなかった。
静かに頭を下げて、背を向ける。
歩きながら、彼の気配が今も扉の向こうにあることだけを、確かめていた。
(……食べてはくれるんだよね)
リシャールが部屋から出てこなくなってから、シェリンは朝昼夜と彼に食事を届け続けている。
一部の騎士団員からは、そんなことまでしなくていいと言われたが、シェリンは騎士団のメイド。騎士であろうとなかろうと、第三騎士団に属する人たちの生活をサポートすることが仕事であり、給料に見合った職務をするべきだと思っている。
最初は手をつけられた形跡もなかった料理だが、さすがに食欲には勝てないのか、いつの間にか空の皿が廊下に置かれるようになった。
そのため、毎食調理場からここまで届けに来ている。
もし誰も彼を見に来なくなったら、彼はずっとこのままなんじゃないか――そんなことを、ふと思ってしまった。
そっと振り返る。
廊下に置かれたトレーは無くなっていたが、扉は静かに閉じたままだった。
彼と世界を隔てているかのように、あの扉が大きく見えた。
***
リシャールの部屋に夕食を届けに行った帰り道だった。
廊下を曲がろうとしたそのとき――聞き慣れた声が、鋭く空気を裂いた。
「……だから、もういいって言ってるだろ!」
思わず立ち止まる。
医務室の扉が半開きになっていた。そこから、ぶつかるような言葉が聞こえてくる。
驚いて身を引きかけたが、続く言葉に足が動かなくなった。
「無理なんだよ、ハンス……俺の足は、もう動かねぇ。これ以上どうしろってんだよ……!」
怒りと、そしてどこか懇願するような声だった。
扉の隙間から、シェリンはそっと中を覗いた。
机の上には散らかった医学書と薬瓶。書きかけのメモ。窓辺には、積み上がった分厚い資料の山。
その中心で、カミルとハンスが、睨み合うように向き合っていた。
「でも……まだ、可能性が消えたわけじゃ――」
「あるわけねぇだろ!」
言葉を遮るように、カミルは机を叩いた。
声が、震えていた。
「いつまでも希望ぶら下げて何になる!? お前がいくら調べたって、どうにもならないもんはどうにもならねぇんだよ!」
ハンスは、唇をかみしめるように黙り込んだ。
でも、すぐに言葉を返す。
「それでも、僕は君を見捨てたくないんだよ!」
カミルの顔がゆがむ。
「だったら黙って放っといてくれよ!」
叫ぶように言い放つその声は、怒りというよりも、泣き声に近かった。
「やめろよ……お前がそんな顔して頑張るたびに、俺は……どんどん、自分が情けなくなるんだよ……!」
それは、あまりにも痛い本音だった。
部屋の空気が、一瞬にして張り詰める。
ハンスは言葉を失ったように目を伏せた。
「俺はもう終わったんだ。現実見ろよ、ハンス。お前だけは、わかってくれると思ってたのに……」
そう呟いて、カミルは背を向けた。
だが、ハンスの声が彼の背中を追いかける。
「僕だって、悔しいんだよ!」
「……は?」
「僕があのとき、君にリシャールを任せなかったら、こんなことにはならなかった! そもそもリシャールもシェリンも、連れて行くべきじゃなかったんだ……」
カミルの肩がぴくりと揺れる。
「違うだろ! 勝手に自分を責めんなよ! そういうのが一番ムカつくんだよ!」
カミルの拳が震えていた。
歯を食いしばる音すら聞こえそうだった。
「僕は、君の『騎士』としての道を諦められない。じゃなきゃ何のために僕は騎士団の専属医になったんだ! たった一人の騎士生命さえ救えない医者なんて……! もう少し、もう少し文献をあたってみるから――」
「……っ、バカかよ」
怒鳴り声が響き、椅子が倒れる音がした。
カミルはハンスの胸ぐらを掴んでいた。
「お前も結局、騎士じゃねぇ俺には価値がないって言いてぇのかよ!」
激しい衝突だった。
シェリンは、もうこれ以上は見てはいけないと思い、そっとその場を離れた。
扉の隙間からは、二人の荒い呼吸音だけが漏れていた。
廊下の角を曲がったところで、シェリンは壁に背を預け、深く息を吐く。
胸の奥に、何かが重くのしかかっていた。
(……ずっと、限界だったんだ)
カミルも、ハンスも。
シェリンから見れば、確実に互いのことを思いあっているのに、それがぶつかってしまうほど、二人とも余裕がなくなっていた。
(ハンスさんは、カミルさんのことでずっと夜更かししてたのか)
最近のハンスは目元に隈をつくって、力なくヘニャリと笑っていたから、珍しいこともあるものだなと思っていた。
山崩れのことやリシャールの件で忙しかっただろうから、寝れていないのかな、くらいに思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
ハンスとしても、カミルの件は責任を感じているようだ。
叶うなら元に戻せる術を、と探し続けているのだろうが――
(たぶん、無理だろうな……)
シェリンが見ても感じていた。
あれほどの怪我では、たとえ傷は治ったとしても、うまく力が入らないだろう、と。
それをカミル本人はよく分かっているからこそ、もうやめてほしいと思っているのかもしれない。
(……どうすれば、いいんだろう)
何が正しいのか、どちらが間違っているのか。
答えはどこにもなかった。
誰もがあの場所で負った傷と、痛みを抱えていた。
その痛みを抱えながら、誰もが自分なりの「戦い」を続けていた。
(私は……何もできない)
下手に手を伸ばせば、全てが壊れてしまいそうだった。
だからシェリンは、今はただ、静かに見守ることしかできなかった。