六章 痛みに悶える人々①
ゴトリ、ゴトリ。
朝霧の中、車輪が硬い地面をゆっくりと叩いていく。
夜明け前に村を発った第三騎士団は、街への帰還を始めていた。
幸いと言うべきか、王都の救援部隊が予定よりも早く到着したからだ。
彼らが来てから救助はさらに進み、カミルのこともあって、第三騎士団は到着から五日にして帰還を許されることとなった。
馬車の中は静かだった。
淡い光に照らされて、カミルの額に浮いた汗がうっすらと光っている。
彼は浅い眠りの中で眉根を寄せたまま、小さく呼吸をしていた。
シェリンは彼の枕元に座り、冷たい布で額を静かに拭っていた。
窓の外には朝の光に滲む森が流れていく。どこか現実感のない、淡く白んだ世界だった。
(……しばらくはまだ、痛むだろうな)
熱が下がったとはいえ、カミルの顔色は青白い。目の下には大きな隈が浮かんでおり、あまりゆっくり休めていないことが分かる。
向かいの席では、ハンスが揺れる馬車の振動に身を預けて目を閉じていた。
眠ってはいない。時折、カミルの様子に目をやっては、何かを飲み込むように目を伏せる。
外の道を進む馬の足音が、規則正しく重なる。
その中に、一頭だけ少し離れた間隔で進む蹄の音があった。
――フュラーの馬だ。
彼は前にリシャールを抱えながら馬を走らせていた。
小さな背中に揺れる黒いローブは、どこかひどく遠くに見えた。
リシャールはまるで風の一部のように無言で、ただ朝霧を裂くように馬に揺られていた。
誰とも言葉を交わさず、誰の視線にも応えず、ひたすらに。
村を出たときも、誰も彼に言葉をかけなかった。
感謝も、責めも、同情も。誰も何も言わなかった。
ただ、その背に沈黙だけが積もっていった。
『お嬢さん。これをやろう』
帰り際、そう言って渡された赤い石のペンダントをポケットからそっと出す。
色は違えど、シェリンの持つ青いペンダントによく似たそれは、ほとんどの村人たちが身につけていたものだった。
『これは我々の先祖から伝わる、守りの石。これがあれば、呪いも近づかんだろう』
村長はリシャールを横目に、そう言って手渡してきた。
(同じペンダントでも、なんか要らないな……)
そう苦笑して、再びポケットの奥へと突っ込んだ。
カミルが微かに目を開けた。
「……おはようございます、カミルさん」
声をかけると、彼はゆっくりと瞬きをして、視線をこちらに向けた。焦点が合うまでに少し間がある。
「……シェリン、か。ありがとよ、冷たくて……気持ちいい」
小さく笑った彼の声は、ひどくかすれていた。
向かいの席で目を閉じていたハンスもスッと体を起こすと、カミルの体を静かに支えた。
シェリンは水筒の水と痛み止めの薬を彼の口に含ませる。
「今、どこ?」
「もう少しで街に着くところだと思います。帰ったらご飯、すぐに作りますね」
「……肉がいい。腹減った」
「駄目に決まってるでしょ。もっとお腹に優しいものを食べなさい」
ハンスが咎めるように言う。
喧騒に満ちた村とは違う、静かで穏やかな時間が流れていた。
だから、だろうか。
ハンスは決意したように拳を握り、そっと口を開いた。
「……少し、話をしてもいい?」
カミルが軽く頷くと、ハンスは何かを迷うように視線を落とし、それからまっすぐに彼を見据えた。
彼の固く結ばれていた唇が、静かに開かれる。
「ここ数日の、体の反応を確認していたんだけど……右足は、もう元には戻らないと思う。適切な応急処置のおかげで日常生活に支障はないだろうけど、騎士として前線に立つのは……厳しいと思う」
淡々とした言葉だった。
でもその一語一句には、重さがあった。
馬車の振動が一瞬止まったように感じる。カミルは、何も言わなかった。目だけを、天井に向けたまま。
そのまま、しばらくして――窓の外に視線をやると、静かに、ふっと笑った。
「……そっか。それは仕方ないな」
それは、無理に明るく振る舞うような笑いではなかった。
かといって、心から納得している笑いでもなかった。
ただ、自分の現実を口にするために、自然と漏れた音のようだった。
「死ななかっただけマシか……って言えば、なんかありがちだけどな。俺、けっこう本気で死ぬと思ってたんだぜ、あのとき。だからさ、助けてくれてありがとよ」
「…………」
ハンスは何も言わなかった。ただ、まっすぐカミルの目を見ていた。
シェリンは二人の様子を、言葉も感情も挟まずに見ていた。
笑うカミルの顔を見ながら、どこか遠い景色を眺めるような、静かな気持ちで。
(騎士じゃなくなるって、たぶん、とても大きなことなんだろうな)
けれど、その「とても」を、正確に想像することはできなかった。
自分の命が簡単に奪われてしまうような場所で戦って、守って、生きてきた人が、突然そのすべてを手放す。
普通なら、もっと取り乱したり、怒ったりするのかもしれない。
でもカミルは、笑っていた。
(……どうして、笑えるんだろう)
わからない。
けれど、それを訊ねるべきではないことだけは、なんとなく感じた。
朝の光が、カミルの頬を静かに照らしていた。
***
騎士団の門が見えたとき、馬車の中にようやく安堵の空気が流れた。
街はすでに朝の光に包まれていて、門の前には騎士たちが何人か集まっていた。けれど、あの元気な声は聞こえない。
(……あれ?)
シェリンは、そっと手元を見下ろす。
シェリンの膝には、使い古されてくたびれてしまったぬいぐるみ――ねこまるが座っていた。
レネが「大事にしててね!」と預けてくれたもの。
無事に戻ったら、真っ先にシェリンの預けたペンダントを抱えて走ってくるんだろうなと思っていた。
(どこにも、いない)
門の向こうに、あの小さな姿はなかった。
もしかして、具合でも悪いのか。もしくは、誰かが気を利かせて待機を止めたのか。
そんなふうに考えながら、シェリンが首をかしげていると――
その向こうから、ゆっくりと二つの影が近づいてきた。
淡いベージュのワンピースを着た女性と、隣を歩く小さな女の子。
光に滲んだ輪郭が近づくにつれて、シェリンはふと息をのんだ。
「……リンダさん」
旅立つ前は、ふっくらとしたお腹を抱えていた彼女の腕の中に――今は、別の命が抱かれていた。
小さな毛布にくるまれた赤ん坊は、ぐっすりと眠っている。
頬はつやつやとしていて、ぬくもりに満ちていた。
そして、彼女の隣にいたレネもまた、ほんの少しだけ、背が伸びたように見えた。
「おかえりなさーい!」
そう叫ぶと、レネはパッとリンダの手を離して、ぶんぶんと大きく手を振った。
けれど、いつものように勢いよく飛びついてはこない。代わりに、ちょっとだけ照れくさそうに小走りで近づいてくる。
その姿に、シェリンはゆっくりと微笑んだ。
「ただいま、レネさん。……ちゃんと持って帰ってきましたよ」
ねこまるを差し出すと、レネはぱぁっと顔を輝かせて、でもぎゅっと両手で受け取ると、すぐには抱きしめず、静かに見つめた。
そして、レネは服の下から青いペンダントを取り出すと、小さく笑った。
「……かえってきてくれて、ありがと。レネもちゃんと、まもったよ!」
その一言に、シェリンの胸がほんの少しだけ、じんわりと熱くなる。
(ああ……少し、大人になったんだ)
たった五日。けれど、その五日の中で、この子にも小さな変化があったのだ。
リンダが微笑みながら歩み寄ってくる。彼女の腕の中で赤ん坊が小さく口をもぞもぞと動かした。
「こっちは、ハフナー。生まれたばっかりの弟なの」
「……わ、赤ちゃん」
レネが誇らしげに紹介する声を聞きながら、シェリンはそっとその小さな命を覗き込んだ。
「もー、大変だったのよ? レネ預かってから二日後くらいかな? 思ってたよりも早く破水しちゃってね? 準備してなかったからそれはパニックで。レネもいるしどうしようって」
リンダはクスクスと笑う。
「でもね、そのレネが本当にたくましかったの! お医者さん呼びに行ってくれるし、この子の世話も手伝ってくれるし……最初はあんなに『おねえちゃーん』って泣いてたのにね?」
「レネももう、おねえちゃんだから」
ニヤニヤと笑うリンダを見て、レネはぷくりと頬を膨らませた。
シェリンも思わず、ふっと笑ってしまった。
たくさんの人が傷ついて、たくさんの人が亡くなった。
でもその間に、こうして新たに周囲を明るく照らす存在も生まれてきた。
なんとも言えない、不思議な気持ちだった。
ただいまと、おかえり。
幾つもの交差した時間の中で、小さな命と成長が静かに根を張っている。
シェリンは、そのぬくもりを胸の奥で、ゆっくりと受け止めていた。