五章 破滅を呼ぶ崩壊④
強い揺れが、大地を突き上げた。
悲鳴と、瓦礫の砕ける音と、木材が引きちぎられるような轟音が、耳をつんざく。
村の北側にある小さな礼拝堂――その老朽化した建物が、地鳴りとともに崩れ落ちる。そこに、二人の人影があった。
「……ッ!!」
粉塵の中から咄嗟に少年の名前を叫んだのは、カミルだった。
彼は少年を突き飛ばして、自身の体を盾にする。
崩れた瓦礫が、骨を砕くような音を立ててカミルの足に突き刺さった。
「……――っ!!」
声にならない声が、彼の口からあふれ出す。
「カミル……カミルッ!!」
悲鳴のように空気を裂いたリシャールの声に、返事はある。
だが、その声は苦悶に満ち、荒く濁っていた。
***
「……おさまったね。大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
庇うように背中に手を添えてくれていたハンスに礼を言い、シェリンは危険区域である向こう側へと目を向けた。
雷が落ちたかのような大きな地鳴りとともに、ガタガタと続いていた小さな揺れは、すぐにおさまった。
しかし、その代わりとでもいうように、北側の空は砂埃で濁っていた。
(……北の山も、崩れたんだ)
西側ほど大規模ではなかったかもしれない。
しかし、確実に今の揺れで、半壊した建物や壊れかけた建物は影響を受けたはず。
(負傷者が増えないといいけど……)
救助中の騎士たちが、安全に避難してくれているといいのだが、そうでない可能性も否定はできない。
「とにかく、すぐに戻ろうか」
表情をこわばらせて言ったハンスと、お互いに頷き合った。
診療所の扉が乱暴に開け放たれたのは、突然のことだった。
風とともに、土と血の臭いが診療所へと流れこんでくる。
「怪我人だ! 今すぐに治療を頼む!」
声の主は若い騎士だった。顔面蒼白で、背中には土埃と鮮血が混じっていた。
そのすぐ後ろから、数人の男たちが、担架に乗せられた重傷者を運んでくる。
ハンスのサポートをしていたシェリンは、彼の指示を受けて患者の様子を確認しに向かう。
「大丈夫です、か……」
毎日洗濯しているのだから忘れるはずのない、第三騎士団のマークが入った黒い騎士団服。短く切り揃えられた赤茶色の髪。
どれも、見間違えるはずがなかった。
(……カミルさんだ)
担架が床に下ろされると同時に、うめくような声が漏れた。
目はかすかに開いていたが、意識は朦朧としている。
右足が不自然な角度で曲がり、布の上からでもその腫れが分かる。破れたズボンの隙間から、赤黒い血がとめどなく流れていた。
「カミル……!」
駆け寄ってきたハンスの声は冷静だったが、目の奥には焦りが浮かんでいる。
「これは……シェリン、すぐに清潔な布と水を準備して」
「はい」
シェリンは、必要な道具や薬を順番に揃えていく。
目の前にいるのは、いつも明るくて、仲間思いで、みんなに信頼されていた騎士。
そんなカミルが、今は苦痛に顔を歪め、うめき声しか出せない状態だった。
第三騎士団のメンバーたちは、必死に彼に声をかけ続けている。
治療を進めるハンスの手も、わずかに震えている気がした。
しかし、それを見ても、胸の奥には不思議な感覚があるだけだった。悲しいでも、怖いでもない。
ただ、みんなの焦った声や、床を叩くような足音を、どこか遠くで聞いているような気がした。
(……死んじゃうかもしれないんだ)
そんな現実離れした光景を、シェリンはまるで絵本の挿絵でも眺めるように、どこか遠い意識で見ていた。
(騎士って、命懸けの仕事なんだもんね)
いつか読んだ物語の一節を、ふと思い出した。
こんなときでも、冷静に状況を把握し続ける自分の頭が、少し憎らしかった。
***
診療所は、夜になっても静けさが戻ることはなかった。
痛みにうめく声、熱でうなされた荒い息づかい。
シェリンは熱を出して再び苦しみ始めたカミルの汗を拭いていた。
「……シェリン、俺代わるっすよ」
スッと濡れた布を横から奪い取ったのは、泥で顔を黒く汚したヒューだった。
「もう子どもは寝る時間。カミル隊長は俺が見とくんで、ちょっと寝てきて?」
「ヒューさんこそ。一日中救助活動してたんですから。私は数日くらい寝なくても慣れてるので」
「え、何それ。戦場の騎士みたいな生活してません?」
ケラケラとヒューは笑う。
しかし、さすがの彼も疲れているのか、暗く重い空気をまとっていた。
「……そーいやこの間、医者じゃないみたいな話してたけど、あれ嘘っすね?」
「嘘じゃないですよ。本当です」
「はぁ? ハンスさんと同じレベルで動いといて? 聞いたっすよー? シェリンの応急処置があったおかげで、カミル隊長が生きれたって」
「誰ですか、そんな変な噂流したの」
「噂じゃないし。ハンスさんが言ってたし」
「信頼できる相手っしょ?」と笑った彼に、シェリンは本気で戸惑った。
カミルに応急処置を施した覚えなんてないからだ。あのときはそんなことをする暇もないまま、ハンスが処置にあたったはず。
(どういうこと……? ハンスさんが嘘を? なんで?)
いったいどういうことだ、と疑問に思っていると、ヒソヒソと囁きあう声が聞こえてきた。
「なあ、騎士が怪我したのって、呪い子のガキのせいなんだろ?」
「らしいな。危険区域になってた北側に逃げたアイツを追いかけて行った先で、崩落に巻き込まれたって」
「やっぱり……呪い子なんか入れるからこんなことになるんだ」
「不幸を呼ぶんだよ。昔からそうだ」
その小さな言葉一つひとつが、診療所の中で飛び交って、嘘か本当かわからないもっと大きな言葉へと変わっていく。
(人がいないところに行ったのかな)
わざと北側に行ったというよりは、人の目がない場所を探していたら、いつの間にか村の北に行き着いてしまったのではないかと思う。
リシャールは、ハンスの警告を無視するようなことはしないだろうから。
「呪いを持つ人間だったって、びっくりすよねー」
カミルの額をそっと拭いていたヒューが、ポツリと呟く。
「ほんとお人好しだよなぁ、カミル隊長も。あんな奴庇うなんてさ」
ヒューの瞳がスッと細められた。
「……まあ、でも、もう無茶はできないっすけどね。もう足、ボロボロらしくて。ハンスさんも言ってた。『もう騎士は無理かもしれない』って」
その言葉は、ただの事実のはずなのに、ひどく重く感じられた。
「カミル隊長の剣、もう受けれないとか……なんか信じらんねーっすよ」
ヒューは笑ってみせたが、その声はかすかに揺れていた。
(……騎士じゃなくなる、って。どんな感じなんだろう)
気さくでみんなから頼られるカミルは、誰よりも騎士らしい騎士でいようとしていた。困っている人がいればすぐに助けに行き、訓練着は誰よりもドロドロに汚して帰ってくる人。
そんな彼が、騎士でなくなるというのは、なんだか不思議な感覚だった。
「この一件で、アイツの居場所はますます無くなる。第三騎士団の人たちでさえ、今回の件にいい顔はしてないっすから」
「リシャールさんは、今どこに?」
「ハンスさんと団長のとこ。事故のときの状況とか聞かれてるっぽい」
保護といったところだろうか。
村人や第八騎士団の冷たい視線と悪意に満ちた空気の中にいるよりは、まだマシなのかもしれない。
緊張や疲労によるストレスの捌け口がリシャールになってしまった今、彼はどこにいても傷つけられるばかりだから。
明日からの救助活動は、どうなるのだろう。
誰も答えを口にせず、ただ時間だけが過ぎていく。
いつの間にか、うめき声も、噂をする声も聞こえなくなっていた。
疲れ果てて眠ったのか、言葉にすることすら諦めたのか。
外の世界は、ひどく静かだった。
風もなく、虫の声ひとつ聞こえない。
昼間の喧騒が嘘のように、村は音を失っていた。
まるで、すべてが壊れてしまったことを、誰かが静かに認めたかのように――。
その静けさの中で、シェリンはぼんやりと天井を見上げた。
明かりの届かない薄暗い隅には、ひっそりと横たわる人影がある。
生きているのか、そうでないのか、判別もつかないほど、夜は深く、重かった。