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五章 破滅を呼ぶ崩壊②

 着替えを済ませて簡易診療所に足を踏み入れた瞬間、シェリンは息をのんだ。


 中には所狭しと人が寝かされており、うめき声と薬草の匂い、血の臭い、湿気と緊張が入り混じった空気が充満している。

 壁沿いに積まれた薬箱と包帯、床にまで並べられた患者たち。助けを求める声が飛び交い、叫び、泣き、怒り、祈り――混乱が渦巻いていた。


 村人たちに混じって、第八騎士団員と思われる、黒い騎士服を着た人々の姿も多く見られた。


 だが、シェリンの目は冷静に動いていた。処置が済んでいる者、いまだ治療の手が届いていない者、処置中の者――。

 優先度を瞬時に見極めるため、頭の中で状況を整理する。


(混乱してる……軽傷者の中でも、すぐ手当てが必要な人と、そうでない人を分けなきゃ)


 厄介なのは、意識がはっきりしている軽傷者や、怪我人の家族たちだ。ふだんは思いやりのある人でも、これだけ切迫した雰囲気の中では冷静でいられない。

 ただでさえ人手が足りていない。焦りや怒声に飲まれてしまっては、助けられるはずの命さえ救えなくなる。


 シェリン自身は医師ではない。

 それでも、ハンスたち医師が治療に集中できるようにすることが、今の自分に求められていると感じていた。


 そう考えていたそのときだった。


「血が止まらないんです! お願いです、うちの子を診てください!」

「フードかぶってるけど、あんた医者なんだろ? この子は昨日から熱が下がらないんだ! 薬をくれ!」

「妻がずっと痛がってるんだ……何度頼んでも後回しにされて……!」


 診療所の一角で、焦りと怒りの入り混じった声が飛び交う中、リシャールが呆然と立ち尽くしていた。

 怪我人たちを前に、手元は震え、言葉も出ない様子だった。


 無理もないだろう。第三騎士団の者たちは、大きな怪我をすることがほとんどないように訓練をしていると、カミルが言っていた。

 リシャールも、これほど多くの負傷者や命に関わる傷を目にするのは初めてなのだろう。


 彼はちらりとハンスの姿を探していたが、望みは薄い。ハンスは今、奥で重傷者の治療にあたっており、こちらに来られる様子はない。


「おい、早くしろ! このままじゃ死んじまうだろ!」


 怒声がリシャールを刺すように浴びせられる。彼は包帯を持ったまま、動けなくなっていた。


 シェリンは小さく息をつき、一歩前に出る。


「……順番に確認します。落ち着いてください」


 そう告げると、リシャールに群がっていた人々は口をつぐんだ。

 どう見ても子どもに見えるシェリンに、何ができるのか――そんな視線もあったが、白衣のおかげか、反論は出なかった。


「私が症状を確認します。リシャールさん、薬や包帯の準備をお願いできますか?」

「……わ、わかった」


 ぎこちないながらも、彼の体が少しずつ動き始める。


 シェリンは一人ひとりに声をかけながら、怪我の状態を手早く確認していく。


「手を見せてください。これは縫う必要はありませんね。きれいにしてから止血します。……リシャールさん、消毒薬と包帯をお願いします」

「う、うん、すぐ渡す!」


 小さな男の子の手を優しく包みながら、リシャールも指示に従って薬を運ぶ。さっきまでの動揺が嘘のように、次第に彼の手際はよくなっていく。


「ここを少し押さえると、痛みがやわらぎます。どうですか?」

「はい……! 楽になりました!」


 転倒して手首をひねったという女性は、さっきまで強張っていた表情が少し和らぎ、そっと首元の石のペンダントから手を離した。


 過去の経験が、こんな形で役立つとは思ってもみなかった――そう、シェリンは思う。


「この痛み止めを使ってください。使い方は、リシャールさんが説明してくれます」


 彼女の横顔を見ながらそう伝えると、リシャールはすでに薬を手に持っていた。

「布に薬液を染み込ませて、こう使うんです」と説明を始める彼の姿は、もうすっかりハンスの優秀さを受け継いだ医師見習いの顔だった。


「どいてくれ! 重傷者だ! 頭を打ってる!」


 入り口から聞こえた声に振り向くと、カミルが男を背負っていた。ハンスがすぐに駆け寄っていく。


(みんな、本当にすごいな……)


 診療所全体がさらに慌ただしくなる中、彼らは自分の命をかけて必死で誰かを救おうとしていた。死なないわけでもないのに。それが、シェリンにはとても眩しく映った。



「……その、ありがと」


 患者の対応を終えたリシャールが声をかけてきた。自信を取り戻したのか、途中からは自ら診察を行い、処置までこなしていた。


 シェリンは少し混乱していた状況を整理しただけだ。

 その後のしっかりとした対応は、医師見習いとしての彼の実力によるものだ。


「リシャールさん。私たち、外に移動しましょうか。中が混みすぎて、このままだと元気な人も倒れちゃいます」

「僕もそう思ってた。僕たちでも診られる人は、外に誘導しよう。少しでもスペースを空けないと」


 重傷者の搬送が続く中、限られた人手でやれることを最大限にやる。それが、今できることだった。


 人の波に押されながらも、ふたりは確かに、前に進み始めていた。



 ***



 シェリンとリシャールは診療所の外に移り、軽傷者の対応を続けていた。


 日差しの下、石畳の上に敷かれた即席のマット。そこに横たわる人々の中には、歩いて来たのが不思議なくらい顔色の悪い者もいる。


「次の方、失礼します……」


 患者を見ながら、シェリンの視線が自然と一人の女性に留まった。顔色は土気色。汗がにじみ、呼吸は異様に浅い。


(……嫌な感じ)


 近づくと、唇は青白く、脈も弱い。腕を握ると、まるで氷のように冷たかった。


「私、ハンスさんを――」

「僕が行く!」


 リシャールが即座に答え、走り出す。その背を見送る間も、シェリンは女性の呼吸と脈を確かめながら、静かに話しかける。


「どこか痛みますか?」


 返事はない。ただ、胸に置かれた手にギュッと力がこもった。


「少し、失礼します」


 服の下を確認してみると、腕にいくつか擦り傷はあるが、大きな外傷は見当たらない。出血も少なく、この怪我で息が荒くなるほどの状態にはならないだろう。


(この状態で……何が原因?)


 水を含ませようとしても、うまく飲み込めないようで、口の端からこぼれてきてしまう。


「シェリン!」


 声に振り返ると、ハンスが駆け寄ってくる。深刻な表情のまま、すぐに隣に膝をついた。


「呼吸は浅いですが、あります。腕に切り傷はありますが、どれも軽傷です。かなり苦しんでいて、体温が異常に低いです」

「ありがとう。すぐ確認する」


 言葉少なに告げたハンスが、女性の容体を丁寧に確認していく。


 怪我が軽いのにこれほどの状態になるなど、シェリンは経験したことがなく、原因が分からない。すぐさまハンスのサポートができるよう、思いつく限りの薬と道具を準備していく。


 そのときだった。


「あっ、ご、ごめんなさい!」


 慌てた女性の声がして振り向くと、リシャールが誰かとぶつかって倒れかけていた。

 ぱさ、と風を切るような音ともに、頭を覆っていたフードがはらりと脱げ落ちた。


 その瞬間、沈黙が走る。


 太陽の光を受けて、その髪と――()()()()の瞳が、はっきりと露わになった。


「……あの子、目が……」

「誰が……誰があんな子どもを村に入れたんだ……!」

「やめて……呪わないで……っ!!」


 女性の悲鳴が診療所の外に響き、彼から距離をとった。


 次々に集まる視線。診療所の中から出てきた人々も、忌避の目で彼を見る。


 リシャールは、その場に立ち尽くしていた。

 唇を噛みしめ、拳を強く握りながら――震えていた。

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