四章 果たされなかった約束③
朝焼けはまだ淡く、空気は夜の名残をわずかに引きずっていた。
シェリンが支度を終えて厩舎へ向かうと、すでにレネがリンダと一緒に立っていた。
まだ目の腫れは引いておらず、いつもよりもずっと静かな表情をしていた。
シェリンを見つけると、顔をくしゃっと歪めて走り出し、そのままギュッとしがみついてきた。
昨日あれだけ嫌だと言ったのにどうして、とそんな気持ちがあふれ出しているように思えた。
「……レネさん」
何か言おうとして、一度言葉がつかえた。
けれど、時間は待ってくれない。
だから、シェリンはそっと手を伸ばし、自分の首元からペンダントを外した。
それは、青く輝く石で作られた小さなペンダント。シンプルで飾り気のないものだったが、それだけに、子どものころの気持ちをずっとそのまま閉じこめておけた。
昨日の夜、どうすればレネが安心できるか、ずっと考えていた。そして思い出した――このペンダントのことを。
「これは、私が一番大切にしてるものなんです」
そのままレネの手を取り、そっとペンダントを握らせる。
「……昔、風邪で寝込んで、お祭りに行けなかったときがあって。孤児院の姉たちが、私のためにこれを買ってきてくれたんです。『元気になったら一緒に行こうね』って言ってくれて。嬉しくて、ずっとお守りにしてきたんです」
レネの小さな指が、シェリンの手の中で震えていた。
「だから、これは命より大切なもの。私は絶対に――たとえ死んでも、これを取りに帰ってきます。だから……少しの間だけ、リンダさんと一緒に待っててもらえませんか?」
レネは一瞬、何かを飲み込むように目を伏せた。
そして、リンダと目を合わせると静かにコクリと頷く。
それから、胸元のポケットをゴソゴソと探り、くたびれた小さなぬいぐるみを取り出した。
「これ……わたしの、『ねこまる』。お母さんが作ってくれたやつ……ミアに似てるの……」
泣きそうな顔で、でも涙をこらえて、レネは差し出してきた。
いつも彼女が寝るときに持っている、猫のぬいぐるみだった。
「これね、レネの一番たいせつなもの。だから……これ、シェリンおねえちゃんに、まもっててほしいの……!」
シェリンは少し驚いたが、すぐに笑って受け取った。
なんともいえないじんわりとあたたかいものが、胸の奥に広がった。
シェリンがレネに大切なものをお守り代わりに渡すことは事前にリンダに伝えていたのだが、レネも大事なものを託すという選択をしてくれたことが、とてもうれしかった。
「……わかりました。『ねこまる』さん、ちゃんと無事に守って帰ってきます」
レネは、シェリンのペンダントを両手で抱えるように胸に押し当てる。
「わたしも! ちゃんと守るから……! まもって、シェリンおねえちゃんに返すの! それがわたしの、にんむなの!」
涙は今にもあふれそうに目尻に溜まっていたが、レネはぎゅっと唇をかみしめて、最後まで泣かなかった。
この「大切なものを守って返す」ミッションは、ふたりだけの特別な約束。
だから、それを破るわけにはいかない。
「ありがとう、レネさん。……絶対に、無事に返します」
小さな指が、ほんの一瞬だけ手を伸ばして、シェリンの指先に触れた。
それだけで、別れの言葉はもういらなかった。
シェリンは背を向け、足を踏み出す。
(……ありがとう、デイジー姉さん。姉さんたちが私にしてくれたことが、レネさんを安心させてくれたよ。少しだけ、レネさんと一緒にいて)
静かに息を吐き出して、昨日のどんよりとした天気が嘘のように青く晴れ上がった空を見上げる。
背中で扉が閉じる音がした。
振り返ると、レネとリンダはもういなかった。
でも胸の中には、ふたつの「大切」がしっかりと息づいていた。
***
空の東側には朝焼けがじわじわと広がり始めていたが、街はまだ静かで、騎士団本部の厩舎前にだけ、硬い音と熱が集まっていた。
団服の擦れる音、馬の鼻息、革の手綱を締め直す指の音。
誰も大声は出さず、互いに目で確認を取り合う。
それだけで、全員がこの任務の重大さを理解していると分かった。
(……今回救援に向かうのは、第一部隊と第三部隊、それから医療班。だいたい二十人くらいか)
街の防衛や治安維持という任務もあるため、今回第三騎士団として派遣されるのは、フュラーとカミルが隊長を務める部隊だけらしい。シェリンとリシャールは、医療班の一員として馬車で向かうことになっている。
シェリンはゆっくりと歩み寄り、すでに整列を始めている隊に加わった。
見慣れた顔もあれば、これから初めて言葉を交わすだろう者もいる。
けれど今は、全員が同じ志を持つ「仲間」だった。
「忘れ物ない?」
声をかけてきたのは、ハンスだった。
彼の表情には、不安と信頼が混ざっている。
その視線がシェリンの覚悟を確認するようで、自然と背筋が伸びた。
「はい。すべて揃ってます」
「……レネのこと、ありがとう。ちゃんとお留守番してくれるみたいでよかった」
ハンスはほっとしたように笑った。
「シェリンも、リシャールも。二人とも、無理はしないで。できないことはできないでいい。まずは何よりも、自分の命を大切にすること」
いつにも増して真剣なハンスの声に、ピリッと空気が張りつめる。
リシャールも、現場に行くのは初めてなのか、いつもの雰囲気は影を潜め、緊張感に満ちあふれていた。
準備が終わり、整列した団員たちの前に、フュラーがゆっくりと歩み出た。
その姿に、誰もが自然と背筋を正す。
彼は全員を見渡し、そして静かに、だがはっきりとした口調で言った。
「これから向かう災害地で何が起こるかは分からない。報告によると、いまだ建物の倒壊や新たな山崩れの危険性があるらしい。もしものことがあれば――いつも言っているが、生き延びる方法だけを考えろ。どんなことがあっても絶対に生きて帰ってくること。いいな?」
その言葉に、全員が黙って頷いた。
それは決して甘い命令ではない。
生きて帰ることは、簡単なことじゃない。
でもその言葉にこそ、この任務の真の意味が込められていた。
「出発!」
号令が飛び、騎士たちが一斉に馬を動かす。
蹄の音がまだ眠る街を叩き起こすように響き、隊列がバタバタと門を抜けていく。
シェリンは馬車の中で、リシャールとともにハンスから、現地に到着した後の流れを教えてもらい、村の地図を改めて確認した。
街の姿が少しずつ後ろに遠ざかっていく。
胸の中には、レネのくれた「ねこまる」のぬくもりが、ずっと残っていた。だが、今はそれをギュッと胸の奥へ押しこんで、小さく息を吐き出す。
(……早く終わらせて、早く帰ってこよう)
顔を上げると、朝焼けの空がすっかり青に染まり始めていた。
新しい一日が、確かに始まろうとしていた。