四章 果たされなかった約束②
「……レネさん。少しの間だけ、行ってこないといけないんです」
やわらかく言葉を選んで伝えたつもりだった。
でもその瞬間、レネの小さな手が、シェリンの袖をギュッと強く掴んだ。
「やだ……いっちゃやだ……!」
医務室の空気が一瞬で張りつめる。
目の前で涙をあふれさせる少女の姿に、シェリンはすぐに言葉を継げなかった。
無理もない。今までのような近所の買い物や、短時間の留守ではない。
今回は数日――しかも、災害救助のため、街を離れて危険な現場に向かうのだ。
それを理解したわけではないだろう。
けれど、レネの小さな身体が、何かを本能で拒絶するように震えていた。
「すぐ戻りますから、大丈夫ですよ。少しだけリンダさんのお家で――」
「うそだ……! うそだもん……!」
ぐしゃぐしゃになった顔で、レネが叫んだ。
「みんなうそつきだもん! まってたのに……ずっと、まってたのに……っ! でもだれも、こなかったの!」
「レネ……」
ハンスがレネの背中をそっとさする。彼の唇はキュッと固く結ばれていた。
彼女の言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
誰も来なかった――その言葉の奥に潜むものに気づいたとき、シェリンは初めてレネという少女のことを理解した気がした。
ここ一か月、レネと一緒に暮らしてみたが、彼女は普通の女の子だった。シェリンやリシャールのように、特殊な事情を抱えているわけでもない、明るくて人好きな女の子。
彼女が騎士団で暮らしている理由は「ちょっとした事情」と聞いていたので、護衛が必要な身の上か何かだろうと予想していたのだが、レネが抱えているものは、シェリンが思っていたよりもずっと重いものだった。
彼女のこの反応は、今ここで起きている「別れ」が原因ではない。
もっとずっと深い場所にある、記憶の裂け目からこぼれた痛みだ。
「レネさん……」
「やだ! やだ……っ! ぜったい離さないもん……っ!」
袖を握っていた手はいつの間にか腰に回り、ギュッと締めつけられる。
初めてだった。初めて、レネがシェリンに対して「怒り」を抱いていた。
(どうしよう……)
このままでは準備すらできない。
困惑しつつハンスに助けを求めると、彼は眉を下げつつ力なく笑った。
「準備は僕がするから、少しの間だけそのままにしてあげて」
今朝から降り止まない雨のように、レネの瞳からは涙がこぼれ続けていた。
***
レネが泣き疲れてシェリンにしがみついたまま寝てしまったあと、ハンスはそっと打ち明けてくれた。
「レネはね、盗賊に襲われた家族の生き残りなんだ」
簡潔な言葉だったが、そこに詰まっていた事実は重すぎた。
「シェリンが来る半年前くらいにね、第八騎士団の管轄地でレネは保護された。小さい地下室の中で、迎えを待ってたんだって。お母さんとお父さんにそう言われたから」
レネはきっと、ずっと真っ暗な場所でただ待ち続けていたのだろう。泣くことも声を出すこともせず、大好きな人との「約束」を信じて待っていた。あんなにも純粋な心で。
その時間がどれほど長く、どれほど孤独だったか、シェリンには想像もできない。
「でも、扉を開けたのは、家族じゃなかった。まったく知らない人たちだったんだ」
ハンスの声は震えていた。
自分の言葉がどれほど残酷か、分かっているからこその震えのように思えた。
「レネは家族が亡くなったことを知らない。第八騎士団の人たちが遺体を見せないように工夫して、『ただ遠いところに行ってる』って伝えたから。そのうち帰ってくるって」
「レネさんは、それを信じて待ってるんですか?」
「どうだろう……うちにはリシャールがいたから、引き取るなら第三騎士団がいいだろうってことになって、レネはうちに来たんだけど……最初は『いつ迎えにくる?』ってよく聞かれて、答えをはぐらかしてたら、いつの間にか聞かれなくなった」
ハンスの目が伏せられる。
「もしかしたら、もう迎えがないことは、気づいてるのかもしれないなって、最近思う」
「……レネさんは、そういうところに敏感な気がします」
「うん……でも、亡くなったことを伝える勇気が、僕にはない。レネの気持ちを、受け止められる自信がないんだ……医者として失格だよね、ほんと」
ハンスの気持ちも、理解できないわけではなかった。
真実を伝えることでレネが壊れてしまうなら、嘘をつき続けることをシェリンも選ぶだろう。
「それでも、レネさんの心を守ってるのは、ハンスさんのその嘘のような気がします」
今まで見てきたレネの笑顔は、決して貼りつけられた嘘の笑みではなかった。楽しいと、心からそう思って表れた表情のように思えた。
それは間違いなく、ハンスたちの努力の成果だ。
シェリン自身も、そういう嘘に守られていた時間が、確かにあったから。
「でも……だから、レネさんは『別れる』ことを怖がっているんですね」
「うん……」
あのときのレネの叫びは、わがままなんかじゃなかった。
どこにでもついて来たがることも、夜は必ず一緒に寝たいとくっついて離れないことも、ミアをこっそり飼おうとしていたことも、何もかもが彼女の悲鳴だった。
子どもが無力のまま味わわされた「喪失」と「絶望」が、あの小さな身体を通して、あふれ出ていただけだった。
その重さに、気づけなかった。
でもね、とハンスは言う。
「シェリンが来てくれてから、レネは笑顔が増えたんだ。夜うなされて泣き叫ぶこともなくなった。大好きなお姉ちゃんだからこそ、また同じことが起こるんじゃないかって不安なんだと思う」
泣き続けて真っ赤になってしまった頬をそっと撫でる。
フニャリと力が緩められた気がして、思わず笑みがこぼれた。
(どっちでもいい、なんてことなかったな。早く済ませて帰ってこないと)
この小さな手は、今、確かに自分を求めて掴んでくれている。
シェリンが帰ってこれることは確約されているとはいえ、レネをこのまま不安な気持ちにさせて出発することが正しいとは、どうしても思えなかった。
出発は明日の朝。
考えられる時間は、もうほとんどない。
こんなとき、孤児院時代、シェリンの世話をしてくれた姉たちはどうしていただろうか。
(……教えてよ、みんな)
あのころ、自分が寂しいとき、ただ手を握ってそばにいてくれた誰かのように。
今度はそれを、自分がレネにしてあげられるだろうか。
叶うことのない願いを、ぬくもりの宿る胸元のペンダントに問いかけた。