四章 果たされなかった約束①
シェリンが執務室に呼び出されたのは、昨日取り入れた洗濯物を仕分けているときのことだった。
ここ数日は雨が続き、ようやく昨日天気が回復したので外に干していたのだが、今日は再びシトシトと雨が降り注いでいた。
突然「すぐに来てほしい」とやって来たハンスについていくと、ここへ来て二度目となる執務室へと通された。
ミアの件でレネについて来たときとは異なり、ソファの前のテーブルには、いくつかのティーカップが置かれている。
シェリンが案内された席の隣には、いつものように黒いフードを被ったリシャールが腰掛けていた。
小さな身体を真っ直ぐに保ったまま、リシャールはただ黙って前を見ている。
部屋の奥で書類に目を通していたフュラーが、やがて顔を上げた。
「急に呼び出してすまない。……座ってくれ」
少し迷いながらも、シェリンは指定された席に腰を下ろす。
フュラーの表情は冷静だったが、その奥にある何かを隠しているようにも見えた。
彼はシェリンたちの前にやってくると、静かに腰を下ろす。そして、手にしていた資料をシェリンたちに渡した。
――いくつかのバツ印が特徴的な北西部の地図に、大小二種類の数字。数字が表すものは、おそらく家屋数と何らかの人の数。
それらにここ最近の天気を合わせると、ある一つの推測にたどりついた。
「……山崩れ」
「ああ、そうだ。第八騎士団の管轄地にある村で、山崩れが起きた。被害は甚大で、複数の民家が押し潰され、救援を求める要請が騎士団本部に届いている」
フュラーは硬い表情で静かに頷いた。
「本来なら、第八騎士団と近隣の治療班が対応するはずだった。だが、雨による地盤の不安定化が続いていて、二次被害が発生している。王都から緊急部隊が派遣されるらしいが、現地到着までには時間がかかる。……そこで、第三に支援の要請が来た」
第八騎士団の管轄地は、第三騎士団管轄地のちょうど北隣。しかも、今回の山崩れが起きた村は、第三騎士団の管轄地からも比較的近い位置にある。
王都から向かうよりも、格段に早く救援に行ける。
「ハンスとこの街の医師数名はすでに準備に入っている。……だが、負傷者の数を考えると、正直人手が足りない。そこで、お前たちにも同行してもらいたいと考えている」
リシャールのゴクリと息を呑む音が聞こえた。
「ただし――」
フュラーはそこで言葉を切り、真っ直ぐにこちらを見た。
「これは、命の保障ができる任務ではない。お前たちはまだ子どもだ。……行かせたくないというのが本音だが、第三騎士団としての立場上、要請を断ることも難しい」
だから「行きたくない」と言え、という心の声が、聞こえた気がした。
立場上難しくとも、子どもが嫌だと言ったのに無理やり連れて行ったとなれば、騎士団の外聞は悪くなる。
シェリンたちの口から拒否の言葉が出てしまえば、帯同させることは難しい。
たとえ救援が足りないと詰られても、フュラーはそれを受け止めるつもりなのだろうか。
「お前たちを呼んだのはその相談だ。……悪いがこちらとしても時間が惜しい。この場でどうするか決めてくれ」
シェリンとしては別にどちらでも構わなかった。
もしものことに対しての覚悟は、シェリンは持ちようがないからだ。命の危険について、特に深く考えたことはない。だからこそ、望まれたならば救援に行くことに承諾する。
しかし、フュラーやハンスがシェリンを望んでいないのに、救援に行きたいと手を挙げるほどの正義感を持ち合わせているわけでもない。
だからこそ、どちらでもいいというのが、シェリンの正直な気持ちだった。
しかし――張りつめた空気の中、考える時間を与えないという徹底ぶり。
これはやはり「行かない」と答えるのが最適解だなと思いつつ、隣に座ったリシャールの様子を横目で確認する。
彼は、膝の上で拳に力をこめたまま一言、静かに口を開いた。
「……行く。行きます」
ハンスが目を丸くしたあと、まるで「やはりそうきたか」とでも言いたげに、苦い表情を浮かべた。
フュラーも一瞬表情を揺らがせ、答えを促すようにシェリンを見た。
「……私も、準備をします」
ただそう答えると、少しの間だけ沈黙が落ちた。
「お前たち、これは『行け』という命令ではない。……分かっているな?」
「分かってます。でも、僕の力で誰か一人でも助けられるなら、行きたいです」
「……私も、同じ気持ちです」
無理をしているわけでも、強がっているわけでもなかった。
リシャールが行くと発言したのは予想外だったが、彼がそう言うのであれば、シェリンも合わせておいた方がいいだろう。
同じく薬草の知識を持ちながら、一人は救援に向かいもう一人は行かなかったとなれば、印象が悪くなるかもしれない。そうなれば、あとあと面倒だ。余計な波風は立てたくない。
フュラーはそっと目を伏せて、小さく息を吐き出した。
「……では、お前たちにも誓ってもらおう。生きることを最優先にすること。少しでも危険があれば、すぐに逃げること。それが守れないなら、連れてはいけない」
その言葉に深く頷くと、彼は続ける。
「出発は明日の朝だ。詳しいことはハンスから説明する」
フュラーが隣に視線を向けると、ハンスが頷き口を開いた。
「……二人とも、協力してくれてありがとう。第八騎士団の報告では、建物の倒壊による負傷者がたくさんいるって話だった。重傷者も多いみたい。だから、僕や医師の人たちは主に重傷者の治療に当たる予定だよ。向こうに行ってみないと分からないけど、リシャールとシェリンには軽傷者の対応をお願いしようと思ってる」
「ハンスさんのサポートじゃなくて?」
「うん。人手が足りてないらしいから、申し訳ないけど僕には付かずに二人で動いてほしい」
「……分かった」
「分かりました」
返事をするリシャールの声は、少し不服そうだ。
山崩れだけでなく、建物の倒壊もとなれば、負傷者が多くなるのも仕方がない。少しでも知識のある者が比較的軽い怪我の患者を担当することで、怪我の悪化を防ぎ、専門医は重傷者の治療に専念できる。
死者や負傷者の数を減らすために、ハンスの采配は最適だといえた。
「準備は僕も手伝うから。明日に備えて今日は早く寝てね」
リシャールは静かに頷くと、席から立ち上がる。シェリンも軽く会釈をして、すぐにそれに続いた。
執務室を出て、廊下を静かに歩いていく。
扉が閉じた瞬間に、あの場に漂っていた張り詰めた空気が、背後へと遠のいていった気がした。けれど、胸の奥に残る重さは、まだ消えない。
すると、曲がり角を過ぎたあたりで、リシャールがぴたりと足を止めた。
「僕の足、引っ張らないでよね」
雨の音が、二人の間に流れた。
ただ、それだけが聞こえる。
唐突に投げられたその言葉に、シェリンも思わず立ち止まる。
リシャールはいつもの黒いフードの陰から、ちらとこちらを見ていた。視線は鋭いようで、どこか怯えを隠すようでもある。
からかうような調子でも、威圧するような響きでもなかった。
ただ、不安の裏返し。そういうふうに聞こえた。
「はい。気をつけます」
淡々と返すと、リシャールは何も言わなかった。
返事を求めていたわけじゃないのだろう。
最初から、言葉を出さずにはいられなかっただけのように見えた。
彼はくるりと向きを変えると、スタスタと歩き去っていく。
その背中は、どこか急いていて、追いつかれまいとするようだった。
シェリンはほんの少しだけ、その背を見送ってから歩き出す。
思えば、彼がああして人前で不安を口にするのは、初めてかもしれなかった。
どんよりと重たい雲の下、まだ小雨が降り続いている。
地面に落ちた雫が、ぽたり、ぽたりと音を立てるたびに、明日向かう村の光景が、まだ見ぬまま、心の中で濁っていく気がした。