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三章 癒えることのない傷②

 王太子の他にも何人かの遺族が挨拶を述べたあと、式典が静かに終わり、参列者たちは順に慰霊碑へと向かっていた。


 整えられた石畳の上に、白と青を基調にした花々がひとつ、またひとつと捧げられてゆく。淡い香りが風に溶け、どこか祈るように空を巡った。


 シェリンもまた、小さな白い花束を手にして、レネとともに慰霊碑の前に立った。


 碑は広場の中央、少し高く設けられた場所にあり、まるで天を見上げるように立っている。


 その灰色の石に、無数の名が刻まれていた。ひとつひとつの文字が、どれだけの痛みと涙の上に彫られたのか、想像することすらためらわれるほどだ。


 シェリンは静かに膝をつき、花束を石の根元に置いた。


『僕は、ここの人たちを許せない』


 あの日、失われた命を前にして、彼はそう言った。

 むせかえるほどの血の臭いが漂う、真っ赤な海の上を歩いたことと、鼻の奥をジクジクと刺激する焦げた臭いを、シェリンが忘れることはないだろう。


 あの事件で、鳥籠の中の鳥は外に出ることができた。

 けれどそれは、飼い主が扉を開いたわけではない。

 ある日やって来た人間が、お気に入りの鳥を逃すために、別の鳥を囮にして飛び立たせたようなものなのだ。


 そのせいで、何人の罪のない命が失われただろう。


 再び、胸の奥にざらつく何かが広がる。


 ふと視線を上げたとき、刻まれた名前の中に、見覚えのあるひとつの名が目に飛び込んできた。


「……オスカー・()()()()()()()……?」


 呟いた瞬間、背後に気配が落ちた。


「それは、第三騎士団長――フュラー・ロンペルディアの実兄だ」


 低く、しかしどこか柔らかな声。


 シェリンが驚いて振り返ると、そこには先ほど壇上で追悼の辞を述べていた王太子、リヒトが立っていた。


 静かな眼差しで、彼もまた慰霊碑を見つめている。


「フュラーが第三騎士団長に任命されて、半年後のことだった。……どの騎士団よりも一番近くにいたのに、遺体も残らないほど激しい炎で兄を失った彼の気持ちは計り知れない」


 リヒトは小さく息を吐く。


「オスカーは、誰よりも研究の未来を信じていた。彼の母である公爵夫人が、研究員たちによって命を救われたことがあったから。だがその信念ごと、あの日、焼かれた」


 言葉のひとつひとつに、過去への静かな痛みが宿っていた。


 シェリンは胸元に手をあて、慰霊碑の名を見つめ直す。


(そうか……フュラー団長は……)


「君も、関係者か?」


 唐突に問われ、シェリンは少しだけ言葉に詰まったが、すぐにかぶりを振った。


「いえ……ただ、少しだけ、ここにいた人の名前を聞いたことがあっただけです」


 それ以上を尋ねるような色は、リヒトの目にはなかった。

 彼はただ静かに頷く。


「名を刻むというのは、残酷なことでもある。だが、風化させない唯一の術でもある。……僕は、そう信じている」


 リヒトは、慰霊碑にもう一度深く頭を下げると、その場を静かに離れていった。


 残されたシェリンは、風に揺れる花々の香りの中で、ひとつ深く息を吸い込む。


「……シェリンおねえちゃん、大丈夫?」

「大丈夫ですよ。みなさんのところへ戻りましょうか」


 静かに目を閉じ、もう一度だけ慰霊碑に頭を下げた。


 レネの手を引いて歩き出す。

 広場の中心から離れるにつれ、周囲の空気が少しずつ、式典の厳粛さから日常のざわめきへと変わっていく。


 王都からやってきた騎士団員たちだろうか。

 明らかに貴族出身の、煌びやかな雰囲気をした騎士たちが、木陰に集まって、軽口を交わしていた。


「それにしても、犯人はまだ見つからずか。あれだけの事件だったのに『成果ゼロ』とはなぁ」

「三年も経ってるのにな。この領の守りって、案外ガバガバだったりして」

「おいおい、あんまり言ってやるなよ。第三の連中、気にしてるんじゃないか?」

「気にしてるくらいなら、もっと本気で捜してるはずだって」

「だよなぁ。今や託児所と化してるし」


 冗談のように笑う声が、冷たい風のように耳をかすめる。


 意味を分かっているのかいないのか、レネがぴくりと肩を震わせ、そっとシェリンの袖をつまんだ。


「おねえちゃん、こわい……」


 怯えるように視線を下げるレネの隣で、シェリンはふっと微笑んだ。


「大丈夫。私がいます」


 レネが泣き出してしまえば、もっと面倒なことになる。

 早くここから離れなければ、とレネを抱きかかえると、シェリンを庇うようにして影が前を遮った。


 騎士にしては小柄な体格に、特徴的な赤髪。

 第三騎士団の団員たちでさえ、波風を立てずに済ませようとしている中、見習いの彼が出てきて大丈夫なのだろうか。


「体よりも口のほうが動くってのは本当だったんだなぁ、お貴族さまの騎士ってのは」


 ヒューはケタケタと笑いながら言い放つ。


 彼の明るい性格はカミルに似ていると思っていたが、こう見ると、気さくという表現が似合うカミルとは違って、ヒューは圧倒的に血の気が多いような気がする。


 相手が貴族であったとしても喧嘩を売りにいくような問題児に、カミルも頭を抱えていた。


「さぞぬくぬく大事に育てられてきたんだろうなぁ? 目の前で人が死ぬ経験なんて無いんだろ?」


 低く、唸るような声を漏らし、ヒューはそのまま歩み出る。


「幸せそうで羨ましいよ」


 たった一言。

 しかし、その一言には、単なる羨望以上の重さが込められているようだった。


 年上の、それも貴族の騎士たちを前にしても、真っ直ぐに睨みつけるその目には、一片の迷いもなかった。


「犯人を一番捕まえたいのは――」

「――ヒュー」


 静かに場を裂くような声が、広場に落ちた。


 一同が振り返る先には、柔らかな黒髪を風になびかせたフュラーが立っていた。


「帰るぞ」


 感情を抑えた低い声に、ヒューの肩から力が抜ける。

 瞳の奥の、人を刺すような鋭い光がパッと消え失せ、代わりにいつものような軽い調子で「はーい」と返事が飛ぶ。


 シェリンはレネを抱き上げたまま、ヒューの後ろを追いかけた。


 第三騎士団の面々もまた、沈黙のまま各々の列へと戻っていく。

 騎士としての矜持を、黙って背中で示すように。


 同じように陰口や皮肉を口にしていた他の騎士たちは、そっと視線を逸らす。


 遠く、慰霊碑の前に一輪の花が落ちたのが見えた。



 ***



「ったく、お前は……っ!」


 ゴツッという音とともに、ヒューの頭には拳骨が落ちた。


「騎士としてもっと冷静になれっていっつも言ってるだろ!」

「……すんません」


 カミルの額には青筋が浮かんでいた。

 その前には「……いって」と頭をさするヒューが立っている。


 街に帰ってくるなり、カミルはヒューを馬から引きずり下ろし、説教を始めた。


「それと敬語! お前まだ見習いだろうが! せめて言い返すなら敬語使え!」


 そういう問題じゃないと思う、とその場にいた全員が思ったことを、誰かがポツリとこぼした。


「……このままじゃ、来年お前の配属先なくなるから余計なことすんなって言ってんだ。分かってんのか」

「俺他の騎士団行きたくないし、行くとこ無くなってもカミル隊長が拾ってくれるんでしょ?」

「そういう問題じゃない!」


 カミルの怒鳴り声が響く。


「まぁまぁ」と焦ったように仲裁に入るハンスの声を背に、シェリンは少し離れた場所に座って、レネの髪をすいていた。

 レネの目はもうとろんとしていて、今日一日で相当疲れたのだろう。ピリピリとした空気感の中で、叫んだり泣いたりせず、静かによく頑張ってくれていた。


(あの事件で、いろんな人たちが傷ついた。そして今も、ずっと傷つけられてる人たちがいる)


 亡くなった人や、遺族だけではない。

 こうして、真相を追い続ける人たちもまた、あの事件をきっかけに重く暗い感情を抱えることになった。


 それを、三年経った今、初めて知った。


 自分の持つ経験や知識からでは、この気持ちを表す言葉が何も出てこなかった。そのくらい、説明できない感情が胸の底をぐるぐると渦巻いている。


「俺マジでカミル隊長に怒られるの何回目?」


 まったく反省していなさそうな声色で、ヒューはシェリンの隣にしゃがみこんだ。


「……さっきはありがとうございました。レネさんもあの空気に怯えてたので、助かりました」

「気にしなくていいっすよー。あんなこと言われて黙ってたら、死んだ人たちが報われないっしょ。何のための追悼式なんだか」


 彼の目は、どこか遠くを見ていた。


「シェリンの保護者の人が亡くなったのも、あの事件が原因かもしれないってカミルさんから聞きました」

「……はい」

「俺まだここ来て半年っすけど、ここの人たちがあの事件に対して並々ならぬ感情を抱いてるのは感じてる。特に団長は。だから、そう遠くないうちにきっと解決するっすよ」

「そう、ですね……」


 彼は静かに笑う。


(私があそこにいなければ……)


 こうして誰かが傷つくこともなかったのだろうか、という心の嘆きは、冷たく吹く風が攫っていった。

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