かえりみち
兄が浴室で首を吊って死んでいた。
第一発見者は妹の私だ。朝、シャワーを浴びようと浴室の扉を開けて真っ先に感じたのは浴室に充満していた猛烈な臭気と、その元になっている排泄物、そして目線を下げた先にあった、それらを垂れ流している兄の死体。兄の無精ひげと不摂生から生じた吹き出物だらけの顔は苦痛に歪み、私と家族を罵っていた黄ばんだ歯はだらりと伸びた舌で覆い隠されていた。
私は洗面所の脱ぎ散らかした服の山からスマホを取り出し記念に一枚。
何パターンか死に顔を撮り満足した私は、下着姿のままキッチンで朝食の準備をしていた母に聞こえるように叫んだ。
「お母さーん!兄貴が死んでるよー!」
するとパタパタと小走りで母が走り寄ってくる音が聞こえ、エプロン姿のままの母が現れる。
「まあほんと……ってあらあらバスルームが大変ねぇ……とりあえず八木さんに連絡してお葬式してもらわないと……」
「じゃあ今日学校休んでいい?」
「いいわよ、お父さんも出勤前でよかったわぁ……よし、何はともあれまずは朝食よ、着替えてすぐリビングに来なさいね」
足早に去っていく母の背中を見送って、私は小さくガッツポーズをした。今日はめんどくさい音楽の試験があったのだ、それがサボれるのはありがたい。未だ壮絶な死に顔でこちらを見ている兄の亡骸に感謝し、ワンピースに着替えて洗面所を出た。
八木さんの家は私たちの村を一望できる山の上に建っていた。日本家屋に不釣り合いな鐘楼と、ぶら下がっている真っ黒い鐘が特徴的だ。きょろきょろ周囲を見回していると、母にみっともないと頭を小突かれた、父はそんな私たちを見てほほ笑んでいる。
そうこうすると温厚そうな初老の男性、八木さんが現れて、父と社交辞令的な挨拶を交わしている。既に葬式の準備は整っているとのことで、私たちがすることは八木さんに死体を引き渡すだけでいいそうだ。
「ではよろしくお願いします」
「はい確かに」
”黒山羊様奉納”と赤いマジックで書かれたブルーシートで包んだ兄の死体と、封筒に入れたお布施、そして何かが書かれたメモを八木さんに引き渡した私たち家族は、深々と八木さんに頭を下げる。すると彼は照れたようにはにかんで、父の手を握った。
「この度はおめでとうございます、さあ」
――――おかえりなさい。
八木さんの家からお暇して数十分後、既に太陽は西に沈み、夜になっていた。私たちはカエルの声を遠くに聞きながら、頼りない月の光に照らされた田んぼ道をゆっくり進んでいた。葬式の帰りはゆっくりと歩いて帰らないといけない、これも葬式の工程の一つなんだと先を行く父は語っているが、朝昼に比べてマシとはいえ夏の夜道は暑い。私はハンディファン、母は扇子で涼をとろうとしてはいるが、限界が近づいてきていた。
「ねえ父さーん、タクシー使おうよぉ!行きみたいにさぁ!」
「だから駄目だって、帰り道が分からなくなるだろ、それにほら、もう少しだ」
あぜ道に座り込んだ私を父は呆れたように諫めつつ、遠く山の上、八木さんの家の方を指さし言った。いつのまにか夜空は雲に覆い隠されていて、八木さんの家も、あの鐘楼も山と同化しておぼろげにしか見えない。ここから見た山は夜闇に沈み、まるで大きな黒い化け物のようにも見える。佇む化け物の姿を想像し背筋の凍った私は、母の服の裾をつかんだ。
その瞬間。
鐘の音が、歪な鐘の音が村中に響き渡った。
いつしかカエルの声は止んでいて、今聞こえるのは鐘の音だけ。一定のリズムを刻むその音色は、恐ろしくもあり、何処か安心感も覚えた。そうか、これは心音に似ている。でも、何の?不安げな私の表情から問いを察した父は、恍惚とした面持ちで答える。
「黒山羊様だよ」
父のその言葉と同時に、鐘の音は一層高らかに響き渡り、ぴたりとその音色は打ち止まった。
自身の名が出されて喜んだのか、それとも葬式が終わったのか。前者は私には計り知れないが、向こうから歩いてくる人影によって、後者は正解だと思い知らされた。父も母も、その人影を見るなり、涙を流している。雲の切れ間から差し込む月の光、照らされた人影。
それは今朝死んだはずの”兄”だった。
兄は、生前一度も見せたことのないような笑みを浮かべ、こちらに駆け寄ってくる。近くで見る兄の顔は、よく見れば無精ひげも吹き出物もないし、なんなら少し顔立ちが整ってみえる。母は涙を流したまま、走り寄ってきた兄を抱きしめ、感極まったように言った。
「おかえりなさい」
兄は、照れくさそうに答える。
「ただいま母さん、みんな」
少し先を行く母と兄、そしてその後ろを着いていく父と私、私たち家族は帰路についていた。
葬式が滞りなく終了したからだ。
和やかに会話し足取り軽やかに進んでいく前の二人を見ながら、私は横でタバコを吹かしている父に、耳打ちする。
「ねえ父さん、兄さんってあんなだっけ?」
「いいや、でも今日からはあれがお前の兄さんだ、それとも前の方がよかったか?」
タバコの煙をくゆらせ、そう私に問うた。
私は治りかけている父の額の切り傷を、青あざだらけの右腕で撫でながら笑顔で答える。
「ううん、全然!」
家族四人、笑顔で帰る帰り道。昨日までは絶対にありえなかった幸せな光景。
私はこの幸せを与えてくださった偉大なる”黒山羊様”に心からの感謝と祈りを捧げた。
「いあ、いあ……」
生ぬるい風が頬を撫で、私たちの間を通り抜ける。
気づけば私以外の家族の背中は遠ざかっており、追い付こうと足に力を入れる、が、その前に折角のエモい光景だ、写真に残そうとスマホを取り出し、一枚。
よし、いい写真が撮れたな、と、画像フォルダーに移動した写真を確認する。
さっき撮った写真、そして、その横には今朝撮った兄の死に顔数枚。
そして。
その横には、今私が着ているワンピースを着た、前の私の死に顔が保存されていた。