中編
それはもうすぐクリスマスになる頃の出来事だった。運命の分かれ道。思い出したくもない出来事。だが、忘れてはいけないひとときだった。
覚と葵は寄り添うように寒い道を歩いていた。駅へと向かって。二人とも黙ったままだった。それまでにさんざ言葉を交わし、この運命をどうにかできるのではないかと思った覚だったのだが、彼女の決心は固かった。
「あ…」
葵が空を見上げる。覚も同じく顔を上げ、暗い空から降ってくる雪を見る。
「一緒にクリスマス迎えたかったな」
覚が雪を見詰めながら呟く。それに「ごめん」と一言だけ呟く葵。そんな彼女を慰めるかのように、いや自分自身を慰めるように絡めた指にギュッと力を入れる。握り返してくれる彼女の手は本当に温かく、二度と放したくないとまで思ってしまう。
彼女は遠くの故郷に帰ることになったのだ。彼女の母親が突然亡くなり、父親が一人残された。その父親は目が不自由で一人で生きていくことはできなかった。おまけに最近では身体も悪くしていてほとんど寝たきりなのだそうだ。親戚もまったくいない親と子だけになってしまったので、葵は故郷に帰らなくてはならなくなった。
最初は、その話を聞いた時に、覚も夢を諦め、無難な職業について彼女と一緒になろうかとまでも思ったものだった。だが、彼女がそれを許さなかった。
「私、あなたの歌が好きなの。あなたには才能があるわ。絶対に夢は諦めないでほしいの。私なんかのために夢を諦めちゃダメよ」
覚は、歌は都会じゃなくてもできる、君と一緒になってからでもできるはずだと言ったのだが、彼女は無理だと答えた。
「ダメよ。そんな中途半端な気持ちで音楽やっちゃ。あなたは音楽のことだけを考えなくちゃダメ。今はとにかく一番大切な時だと思うの。音楽のことしか考えちゃダメよ。それだけを考えて、夢に真っ直ぐ進んでいかなくちゃ」
彼は不満だった。両方何とかできるという気持ちもないわけではなかった。第一、自分のやる気は彼女がいてこそ、彼女の笑顔があってこそ生まれてくると思い込んでいたのだ。彼女なしではまた荒れ放題の生活になりそうだと。
「お願い。私のためを思うなら、私を本当に愛してくれるって言うなら、お願いだから、音楽で成功させることが一番の愛だと思ってちょうだい。私はそれを望んでいるわ。あなたの成功だけを」
正直どうしても納得はできなかった。だから、彼女が故郷に帰る時も、彼女と寄り添いながら歩いていて、やはりまだ帰したくないとまでも思っていたのだ。どうにかして帰さなくてすむことはできないのか、と。だが、彼女の考えを曲げる事はどうしてもできなかった。
駅につく。構内に入り、ホームへと出る。そこでもハラハラと雪は降ってくる。
「君がいなくなったら一人で夢を追う気力がなくなりそうだ…」
ポツリと彼は呟く。
「夢から逃げてしまいそうだ」
突然、彼女が泣き出した。
「あなたはわかってない」
しゃくりあげながら彼女は言う。物静かで、自分の思いをなかなか吐き出すことのできなかった彼女が、ぶつけるように喋りだす。
「あなたはこんなところで終わってしまう人なんかじゃない。私にはわかるの。あなたはもっともっとすごいところまで行く人だって。あなたに初めて口付けられた時、初めて抱かれた時、私にはなぜかあなたのことがわかったの。私だってあなたの傍にいたいわ。けれど、私は父を見捨てる事はできない。ずっと母に父を押し付けていたようなものなんだもの。今度は私が親孝行しなくちゃ。でも、これは私だけの問題。あなたはあなたのやらなくてはならないことをやるだけよ」
「でも…」
「あなたは私の笑顔で救われたって言ったわ」
彼女は涙を流しながら無理に笑おうとしていた。
「でもね、私もまたあなたの笑顔で、あなたの歌で救われたのよ。そりゃ確かにあなたを私だけの物にしたいって思ったこともあるわ。でも、あなたの笑顔や歌声で救われる人がいるかもしれないのに、それを独り占めしてしまっていいんだろうかって。それを考えたら怖くなったの。もしかしたら、今現在も何かに苦しんで今にも死んでしまおうとしている人がいるかもしれない。そんな時にあなたの歌声が聞こえてきたら? その歌声でもう一度生きてみようって思ったとしたら? ねえ、覚…」
葵は彼の目をじっと見詰め一言一言区切るように言葉を続けた。
「あなたの歌にはそんな力があるのよ。私にはわかるの。だから、あなたは夢を叶えなくちゃいけないの。多くの人を救う為に」
「………」
覚は何も言えなくなってしまった。彼女の犠牲的なその思いに心打たれてしまったようだった。彼は自分のことしか考えていない自分を恥ずかしく思ってしまった。
「愛してるわ、覚。そして、私もあなたにそこまで愛されてとても幸せだと思うわ。でも、私たちは一緒に歩けない運命だったのよ」
彼女は覚の手を握った。
「お願い。私を本当に愛してくれると言うのなら、夢を叶えて。私のためにも。そして、遠くにいる私の所まで、あなたの歌声が届くようにしてちょうだい。私はずっと待ってるから」
そして、彼女は飛び切りの笑顔を見せて、去っていった。