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この夜が終わる前に  作者: 谷兼天慈
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前編

「あ…」

 真っ暗になった空を見上げたゲクトの顔に何か冷たいものが落ちてきた。それは雪だった。初雪だった。時間はすでに真夜中。新しい楽曲作りのためにと気分転換に夜の街を散歩していた時のことだった。

「もうそんな季節になったのか」

 彼は立ち止まって月も星も見えないどんよりとした厚い雲に覆われた夜空を見詰める。

「遠く離れても忘れない」

 思わずついて出るメロディ。彼の脳裏に浮かぶ優しい笑顔の女性。その笑顔が泣き顔に変わる。痛む心。

「俺は諦めなかったよ。お前の涙に誓ったんだから」

 顔を上げたまま、彼は目を閉じる。

「お前は今頃どうしてる? お前のいる場所にも雪は降ったかな。今の俺のようにこんなふうに雪を見詰めて、少しは俺のこと思い出してくれてるかな」


 あの時代は本当に苦しい時代だった──彼は思い出す。


 高校を卒業して音楽で食っていくと決めてから、いろいろオーディションを受けたはいいが、ことごとく空振りで、結婚しようとしていた女とも別れてしまい、自暴自棄になっていた。とにかく、地元にはいたくないと都会へと単身飛び出していった。もちろん、都会に出たからといって、すぐに音楽をやっていくことはできなかった。バイトでその日を食い繋ぐ日々、さらに荒れていく自分の生活。あの時は本当に最低だった。いつもケンカしているようなそんな思い出したくもない時代。そんな時に彼女に出逢った。


「大丈夫ですか?」

 バイトの帰りに大学生の男二人に笑われたような気がしてケンカを吹っかけ、見事に殴り倒された彼は、冷たくて汚い歩道の上に転がっていた。まだ寒くなる前の晩秋だった。そんな彼に手を差し伸べるほっそりとした手。覚はうつろな視線をその手の主に向ける。

 心配そうな目をこちらに向けている。それほど美人というわけじゃないが、好感の持てる顔立ちだった。彼は手を伸ばし、彼女の手を借りて立ち上がる。まだ少しふらついていたが、何とか立てた。

「すまない。ありがとう」

「いいえ、そんなすごいケガってわけじゃなくてよかった」

 そう言うと彼女はニッコリ笑った。

「………」

 覚は驚いた。笑うとびっくりするほど印象が変わったからだ。何だろう、彼女の笑顔はまるで自分に生きる気力を与えてくれると思った。

 この時、覚本人は気づいてはいないようだったが、彼は彼女に一目惚れしてしまったようだった。

「あっ、何を…」

 突然、覚は彼女を抱き寄せると唇を重ねていた。彼女は弱々しく抵抗したが、覚の力は強く、そんな彼女の動きを封じ込める。

 彼女の身体は温かく、凍えた胸を溶かしていくように覚には思えた。そして、絶対に放すものかと、益々抱く手に力を入れていった。


「くすくす…」

「何だよ」

 二人がそんな出逢いをした時から随分と経っていた。覚のアパートで彼女、葵が突然笑い出したので、彼女の身体を抱きしめていた覚が不審な顔をした。

「変な奴だな。何笑ってんだよ」

 覚がそう言うと、彼女は彼の腕の中で顔が見えるように身じろいだ。

「うん。覚と初めて逢ったときのこと思い出したの」

「あーあれ…」

 覚はバツが悪そうに目をそらした。

「いきなりキスしてくるんだものね。普通、初めて逢ってあんなことされたらどうなるか想像つくだろうと思うのに」

「だよなあ。お前も思いっきりひっぱたいてくれたもんな」

「言わないでよー」

「笑ったお返し」

「もー」

「でも今はキスし放題だもんなー」

 覚はそう言うと、葵を抱きしめ口付けをしてきた。しばし流れる恋人達の時間。

「それより、今日はオーディションじゃなかったっけ?」

 それからしばらくして、服を身に着けながら葵が言った。同じく身支度をしつつ、覚は答える。

「うん。これからいく。今度こそ受かるよう祈ってて」

「いってらっしゃい」

 彼女はやさしく彼にキスをすると、その恋人を送り出す。玄関から見える空はもうすぐそこに冬が来ていることを教えてくれていた。

 だが、やはり今度のオーディションも駄目だった。もう自分には音楽は駄目なのだろうかと、彼はそう思ってしまった。

「頑張って。あなたには絶対才能があるから。諦めちゃダメ」

「葵…」

 彼女が笑ってくれる。それだけで頑張ろうと思う。笑顔って本当にいいなあと思える瞬間だった。


 あの時代は暗黒時代だったとゲクトは思う。最初は別の女と夢に向かって歩いていた。そして別れて一人で夢を追い、その夢がまた潰えようとしていた時に、まるで救世主のように葵が舞い降りてきた。彼女の笑顔を見るたびに「頑張ろう」と思い、彼女の笑顔があれば、彼女が傍に居さえすれば、きっと夢は叶うと、そう思い込むようになっていったものだった。そうじゃないのにと思うこともなかったし、彼女の存在さえが全てだと、これを無くしてしまったらもう駄目なんだと、生きていく意味も価値もなくなってしまいそうにさえ思うようになっていった。

「だが、別れなんて簡単にやってくるものだ。愛し合っていてもどうしても一緒に歩いていくことはできない。それは美弥子の時にさんざ苦しめられたことでもあったのに。また同じような苦しみを味わうなんて。神はいないのかとまで思ったものだったよな」

 彼は真っ暗な空を見上げた。あの夜もこんな夜だった。

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