5.ハンナとエドは屋敷を飛び出す
柔らかい朝の光にくすぐられ私は目が覚めた。ここ最近だるくて朝は起きられなかったけれどびっくりするほどすっきりして体が軽い。うーんっと伸びをすると何かがベッドの上に落ちる。紫色の髪飾りだった。
「アマーリエ様、本当に来たんだ……」
思わずでた独り言の声がかすれていない。元気な時の自分の声だった。私は自分自身の変化が理解できない。ずっと鈍くて重い頭全体を縄で締め付けられるような痛みがあったけれどそれもなくなった。ぐうと音を立てたのはおなかだった。ずっと何も食べたくなくて柔らかいオートミールを無理してすするくらいだったのに朝ごはんが待ち遠しい。空腹を感じるなんていつぶりだろう? 自分の身体の健全な反応に戸惑いしかないけれど、とりあえず着替えよう。
……アマーリエ様はあの後、時間切れだって言いながら消えてしまった。私が命を狙われている? 誰に? 正直、全く心当たりはない。誰かに恨まれるようなことはしてこなかった。でも……。私の心に陰がさす。本当に私は誰の恨みも買っていないんだろうか? アマーリエ様は私のことを恨んでいなかったけれど、でも私は何にも気づかないまま、誰かのことを無神経に傷つけたりしていないだろうか? 怖い。窓越しの日差しは暖かいのに私はぶるっと震えてしまった。私は自分の身体を抱きしめながら必死に記憶を探る。知らない誰かに命を狙われるほど恨まれる。アマーリエ様が嘘をつくとは思えないし、実際アマーリエ様からもらった髪飾りを身につけたまま眠ったらびっくりするくらい身体が回復している。もし私が本当に命を狙われているなら、いったい誰が何のためになんだろう。呪いをかけられているってことなのかな? 思い出そうとしても何も心当たりがないことが怖くて、自分の鈍感さと無神経さが悲しかった。
「……ハンナっ!!」
「きゃあ?!」
荒々しい足音が廊下の遠くから聞こえ、あっという間に足音は私の部屋の前に来て乱暴に扉をあけ放たれた。怒鳴りつけるように呼ばれた自分の名前に私はびくっと竦む。
「私だっ! 無事なのか?!」
「エド……?」
私はとっさに目をつぶって頭をかばって身をかがめていたけれど、駆け寄って私に触れた手の感触と声にようやく相手が誰だか分かった。それでも信じきれなくてそろそろと目を開けて確認する。エドだ。どこから走って来たのか分からないけど髪の毛がぺったり張り付くくらい汗びっしょりで頬や髪に泥がついてる。服もしっかりと外套を着ていた。部屋着じゃない。……どこへ行ってきたんだろう? あちこちほつれていたり、かぎ裂きがあったりもう乾いた泥がついていたりしている。きちんと舗装されたところでなく荒れ地とか山の中でもさまよったような汚れ方にざわざわと心が騒ぐ。こんな朝早くになんで? 夜にどこかに出てきたんだろうか?
「ああ」
エドは短く答えると私をきつく、きつく抱きしめた。私の腕ごと抱きしめられたから私はされるがままで何もできないし、もし腕が自由になっても私はエドを抱きしめかえす気になれなかった。エドが小刻みに震えていることが分かったけれど、アマーリエ様を追い詰めた共犯者で未だに反省どころかそもそも自分がしでかしたことを気づいていない相手に私はどうしたらいいんだろうか?
私はずっとエドを愛してきたし、多分今も愛している。でももし私とアマーリエ様が逆の立場だったらと思うとエドの性格が怖くなった。身内や自分の内側に居る存在には優しくても、一度敵に認定した外側に対してはあっさりと切り捨ててしまう残酷さがある。アマーリエ様への態度がそうだったように。怖い。いつかエドが心変わりして私を外側に追いやったら? アマーリエ様にしたように邪険にするようになったら?
……まさか命を狙っているってエドなの?
降ってわいた疑問に心が凍る。そんなわけない。ありえない。理由がない。ずっと一緒に居て誰かに出会うチャンスなんてなかったし、心変わりする暇なんてないはず。即座に自分の馬鹿な思い付きを否定する。……でも分からない。私が寝込んでいる間は? その間に誰かに出会ってその誰かに心変わりしていたら? 想像はどんどん悪い方へとふくらんでいくから私は必死で来るかもしれない恐ろしい未来を否定する言葉を探す。
……今エドから抱きしめられているし、私はきっとエドから愛されている。エドがいままでどこに行ってきたかは分からない。……ただ泥がついているし外へ出かけたことは確か。きっと家に戻って真っすぐ私のところへ来たんだと思う。私のことを何か心配してきてくれた。じゃあやっぱりエドのことは信じられるんだよね? ……信じていいんだよね? 信じたいけれど怖い。ぐちゃぐちゃになっていく心は私の始末に負えるものではなくて、私はエドが何も話しかけてこないことをいいことにただ自分の気持ちを落ち着かせることだけを考えていた。
「……ハンナ、一緒に魔術師を探しに行ってくれないか?」
「……え?」
足がしびれてくるくらいずっとしゃがみこんだまま抱きしめられていた。二人ともずっと無言だった。その沈黙を破ったのはエドだった。
「魔術師ってアマーリエ様がお会いしたという魔術師のこと?」
「ああその男だ」
あっ失敗した! とっさに私は思った。エドは、アマーリエ様の名前を出すことすら嫌う。だから絶対に何か言われると思って身構えたのに何も言われなかった。それはそれで何だか怖い。エドが何を考えているのかわからない。私のお母さんが乳母だったから私とエドは文字通りほとんど産まれた時からほぼずっと一緒に育ってきたし、お互いに何でも知っていると思っていた。だからこそ今、エドの気持ちが分からないことが怖い。
「行こう」
エドは立ち上がると私に手を差し伸べてくれた。私は少し迷ってその手に自分の手を重ねた。立たせてもらいながらいつもと変わらないエドの態度にほっとする。大丈夫、いつものエドだよ。ちょっと私がナーバスになっているだけ。
「おなかペコペコだね!」
私はわざと明るい声を出した。食堂に行って早くご飯を食べたい。温かいスープでも食べればきっと気分が明るくなって馬鹿なことを考えないはず。エドとつないだままの手が何となくぎこちない。エドからぎゅっと握られているけれど私は握り返すことが出来ないでいる。
「ああ途中で何か買おう」
「は、はい?」
どこか上の空なエドの言葉が理解できなかった。買う? 食堂でなく?
「え?! それってまさかこのまま出かけるってこと?!」
私はその場にびたっと止まった。ちょっと待って欲しい。エドがつないだ手を軽く引っ張って私に歩くように促すけれど私は強引に振り払った。
「待って! 私、出かけられる準備なんて何もしてない! ちゃんと説明して!」
さすがに寝間着ではないけれどそれに近いゆったりした部屋着だし当然外套も着てない。おなかも空いている。話を聞くまで動かないつもりで私は足を踏んばって腰に両手を当ててエドを睨んだ。
「悪い。ハンナ途中で説明するから」
能面みたいに表情が無いエドはそれだけ呟くとひょいっと私を荷物みたいに抱え上げた。そのまま有無を言わさず、大股で歩き出す。
「エド! どうしちゃったの?! 何で?!」
私は手や足をバタバタとさせて暴れてエドから逃れようとしたけれどエドはびくともしなかった。私が何を叫んでも口を固く結んだまま返事もしないで足早に玄関へと向かっていく。
……この人は本当に私が愛しているエドなの? 私の中で恐ろしい疑惑が浮かんだ。自分の言葉が届かない。何をされるのか、何をしてきたのか分からない。エドを信じたくても信じきれない。
「エド! 待つんだ!」
大旦那様だ。執事とメイドを引き連れて本邸から小走りにこっちへ向かってくる。エドのお父さんの声に私はほっと体のこわばりが解けた。助かった。大旦那様が来たなら止めてくるはず。エドもちゃんと説明してくれるはず。私は自分が愛しているはずの人から離れたくてしかたなかった。でもエドは私のことをさらに強くぎゅっと抱え込むと足を速めた。なんで? おかしい。明らかにおかしい。
「エド? 大旦那様が呼んでるけど?」
小さく私はエドに訴える。聞こえていないはずは、ない。エドは私の声にも応えない。
「ねぇエド!」
そのまま庭のトネリコの木につないであった馬に私を荷物みたいにどさっと乗せると自分も鐙に足をかけて飛び乗った。馬上の主の意図を組んで馬は滑らかに駆け始める。エドが左手で支えてくれてはいるけれど私も私で馬のたてがみにしがみつく。ちゃんと座れていないから不安定で今にも振り落とされそうだった。私の気持ちも大旦那様も屋敷も全てがあっという間に遠くなる。
「エド! もう無駄だ!」
耳元で通り過ぎる風に切れ切れになって大旦那様の叫びが届く。蹄鉄の奏でる三拍子が邪魔をしてよく聞こえない。
「ハンナ! エドを止めるんだ!」
大旦那様が全く話を聞く気のないエドから私に焦点を変えた。無茶を言わないでほしい。私だって止められるならこの状況を何とかしたい。
「ふざけるな!!」
エドが突然上半身を大きくひねって大旦那様にむかって怒鳴った。私はその怒りっぷりに、私の中に居るアマーリエ様と対峙した時を思い出す。
エドは馬を急停止させて大旦那様へと向き直る。私はこのすきを逃したくなくて、私は力を入れすぎて強張った指を無理やり引きはがして馬に跨り直した。馬で揺れたせいでアマーリエ様からもらっかた髪飾りが今にも落ちそうだった。慌てて私はもう一度つけようとしたけれど指がうまく言うことを聞かない。焦れば焦るほど、うまく結ぶことが出来ない。無くしてはダメだと言われたから諦めてポケットに突っ込む。怖い。
エドが何について怒っているのか私には分からない。大旦那様はエドが止まったことにほっとしたように肩が下がったのが遠くからも見えた。私も釣られて少しだけ息をついた。とにかくいったん家に帰りたい。熱いお茶が飲みたい。落ち着きたい。こんなの私の知っているエドじゃない。怖い。
「ハンナは絶対に死なせないからな! 俺達はもう戻らない!」
い ま 何 て 言 っ た ? エドはそれだけ旦那様にむかって吐き捨てると馬をまた回して、屋敷と大旦那様に背を向けた。そのまま全力疾走で馬を駆け始める。ちゃんと乗り直したから私はさっきよりは安定して走ること自体は怖くない。
怖いのは、エドがどこに行こうとしているのか。何を知っていて何をしようとしているのかだった。