3.ハンナは過去を悔いる
エドの柔らかくて湿った唇の感触がくすぐったい。エドの両手が私の頬をとらえる。エドにこもる熱が私にも伝わってきて私の中に少しだけ火をともした。さっきまで止まりそうなほど弱弱しかったはずの心臓が自己主張し始めて私は頭の靄が晴れる。
……私達、小さいころからよくこうやってふざけあってキスをしたのよね。
私はやんちゃだったエドからおもちゃを盗られたりおやつを横取りされてよく泣かされた。仲直りのキスはいつもエドからで、額に最初にキスをしてそれからエドは私の右のまぶたにキスをすると、左の目じりにまだ残っていた涙を唇をつけて吸い取った。
あれ? 私、何で泣いていたんだろう?
鼻がすんと熱くなっていて頬にこぼれた涙の感触がして私は確かに泣いていたみたいだけど、記憶にない。そもそも何で寝ているのか分からなくて私は驚いた。それでもいつもの触れ合いにほっと安心してエドの腕の中に居れば私は幸せだっていうシンプルな事実に満足した。
満足しているはずのに、心のどこかで胸騒ぎがする。一つの椅子に無理やり二人が座ろうとしているような居心地の悪さで心臓がどきどきと音をたてる。
誰かが私の中に居る? ただの勘なのにそれが正解だという奇妙な確信がある。
……こんなのってないわよ……
耳を澄ませると、か細い力のないようなつぶやきが聞こえた。泣き出したいのをこらえるような、もう泣きすぎ抜け殻のようになってしまったかのような、聞く人の小さなとげをさす悲しい声だった。
初めて聞く声なのに、私はその声が誰だかわかった気がした。
アマーリエ様ですか? 私は目をつぶり心の中に向かって恐々話しかける。誰かがびくっとした気配がした。
……ハンナなの?
さっきよりもずっと小さくて迷子になって途方に暮れてしまった幼い子みたいな不安な声だった。
「ハンナ、目を覚ましてくれ! 水を飲みたいのか?」
私のなかで起きているこの不思議な状況に私本人ですら理解が出来ないのに、エドがわかるはずもない。エドは見当違いなことを言ってきた。私は多分病気かケガをしたのかわからないけどベッドで寝かされてるし、また眠られるとエドは心配なんだと思う。ちょっと間が悪いけど。アマーリエ様の声はまた聞こえなくなってしまった。
それでも私も水を飲めばのどが潤って声が出るかもしれないと無理やり前向きに考え、瞳を少し上下させて肯定を示すと、エドはベッド脇にサイドテーブルに用意されていた病人用の口の細い吸い飲みを私の唇に優しくあてて少しずつ水を飲ませてくれた。
私の身体は大至急水が必要だったみたいでびっくりするほど甘くておいしく感じた。もっと水が飲みたくて勢いよく吸い口を唇で傾けたら予想外に水がのどに流れ込んで私はケホケホとむせた。むせると背中に鈍い痛みが走って随分長い間寝ていたような気がした。
「ゆっくり飲め。無理をするな」
エドが私が呼吸をしやすいように動けない私の背中を起こしてくれてクッションを重ねて調整してくれた。力強い男の人の腕にエドも大きくなったなぁという感傷と昔から変わらないぶっきらぼうだけど優しい心遣いにつかの間ほんわか心が温かくなる。
「ごめんなさい旦那様」
私は「ありがとうエド」と話しかけようとしたけど、口をついて出たのは違った。
確かに私の口から出た言葉だったのに私が言おうとした言葉ではない。アマーリエ様だ。私もエドもぎこちなく固まる。
アマーリエ様は少し迷いながら、でもしっかりと話し出した。
「私はこんなことは望んではいなかったのです……本当にごめんなさい旦那様も……ハンナも。せめてそれだけは信じて欲しいのです」
「……アマーリエなのか?」
掠れた声は私から紡がれていくけれど、私じゃ、ない。さっき晴れかけた心にまた暗雲が湧き出てきて胸が締め付けられるような苦しさがあふれる。私の身体なのに勝手に使われてるし、怖い。
最初はただ怪訝な顔をしたエドだったけど、だんだんと顔色と変えていく。
……エドは何か私の知らないことを知っているの?
「貴様、まだ死に切れていないのか」
私を見つめる柔らかいエドの目ががらりと変わって憎しみに底光りした。無意識だろうけど、エドがシーツを握りしめた。怒りで体を強張らせてる。エドの人を射殺せそうなくらい強い視線に私は貫かれる。むき出しの敵意が怖い。こんなエド私は知らない。……アマーリエ様にこんな目をむけていたの?
……ここまでではなかったわ。本当に怒らせてしまったみたいね。いつもはただただ無関心だったわ。敵意でもいいから私に向けて私を見て欲しいと思ってしまったこともあったけれど。
心の中で私の声に答えるようにアマーリエ様がつぶやいたけれど最後は独り言だった。寂しげに一人佇んで自虐的な笑いを浮かべるアマーリエ様が幻影が私の頭をよぎった。
「もうすぐ逝くわ。ごめんなさい」
アマーリエ様の心と私の心リンクして鋭い剣で突かれたような痛みが走るけれど、私の口は自制の聞いた落ち着いた声で話し続ける。
「疾くと死ね。ハンナを開放しろ」
ぐっとアマーリエ様が息を飲んだ。アマーリエ様がバラバラになりそうな心を必死にかき集めているのが私には分かる。
アマーリエ様が何したっていうの? ただ一回だけ愛してくれるように願っただけじゃない。そんなひどいこと言わないで。
この時。確かに私はハンナだけれどアマーリエ様でもあった。お互いの心が自分の心の中みたいに全部わかって、だからこそアマーリエ様がずっと辛い思いをしてきたことを私は初めて知った。
甘やかされた高位の貴族のお嬢様がエドに一目ぼれして無理やり結婚を迫ったって聞いてたし、今も莫大なお金を要求され続けていることも聞いてた。お金もむしり取っていくし、私の恋人も奪ったしなんてひどい女なんだろうとって思ってた。
でも違った。
アマーリエ様自身は全然浪費なんてしてないことも知らなかったし、みんなから無視されていることも知らなかった。私にはしょっちゅうドレスやアクセサリーを贈ってくれるエドがアマーリエ様には一度も贈っていない事も知らなかった。
「本当にごめんなさい。悪気はなかったのです」
「はあ? ハンナを殺そうとして悪気が無いとは本当に性悪な女だな」
真摯に謝るアマーリエ様に、憎しみに凝り固まって聞く耳も持たないエドが吠える。胸の痛くなる会話の応酬に私はそっと目を伏せる。まだひどく身体もだるいし、そのまま心を閉ざして眠りに落ちたいと思ったのに、だめよ、と私をやんわりといさめるアマーリエ様の声がした。
もし今また私のように眠ってしまったらあなたも死んでしまうかもしれないわ? せめて私があなたの中から出ていくまで待って欲しいのです。
アマーリエ様は心底私のことを心配していて、どうなるか分からないこの状況で最善の方法をとろうとしていて、……私のことを憎んでいないことすら全て伝わってきた。
かつて妬ましい、うらやましいと思った心ですらアマーリエ様の中にはもう残っていなくて私はそれがとても悲しかった。本当にごめんなさい。知ろうとしなかったこと、もう遅いのに。
私とアマーリエ様のそれぞれの後悔と謝罪が重なる。
ハンナごめんなさい。もう遅いのは分かっていたわ。あなた達の間に入り込む余地がないのだってわかっていたのだけれど……でも私も幸せになりたかったの。政略結婚だって、愛人がいるのだって貴族なら普通ことなんだしそれなりに幸せにやっていくことだってできたと思うの。私もただ誰かに愛されたかったし愛したかった、それだけだったの。
アマーリエ様を蝕んでいったのは誰とも心を通じ合わせることのできない独りぼっちの悲しみだった。それにつけこんだあの魔術師は誰だったのだろう? 何のために? アマーリエ様はもう気にしていないけれど私はぞっとする暗い悪意を感じ取った。でも問題はそこじゃなくて、そんな風に怪しい相手にすがってしまうほどアマーリエ様を追い詰めてしまったことだ。
……ごめんなさい私達のせいです。本当にごめんなさい。
もう遅いのに私は謝らずにはいられなかった。私の後悔をよそに、エドの罵りとアマーリエ様のやり取りは続いていて、エドに詰問されるたびに答えるアマーリエ様は嘘をついた。
「旦那様は私が無理やり結婚を迫ったと思われておりますが両家の意向で私の意志など関係ありませんでしたから」
嘘。アマーリエ様は本当は素敵な人だと思ってこの人と結婚できることが嬉しかった。
「確かに魔術師に頼んで呪いをかけましたわ」
嘘。呪いじゃなくて幸せになる魔法だって聞いたから。アマーリエ様はただ愛されたくて、いっそ私と交換できたらいいのにと願ってしまった。
「旦那様のことは本当に全く愛しておりませんから。私せいせいしましたわ」
少しだけ震える声でアマーリエ様は最後の嘘をついた。
本当は大好きだったくせに。アマーリエ様は、エドの思う通りの悪女を演じきって消えていくつもりみたいでそれが私には切なかった。
ずっとずっと少しでも愛して欲しい一緒に居たいと願っていたのに全部諦めて自分すら失ってしまうなんて、アマーリエ様が何をしたというんだろう? 望んだものを何一つ得られず死んで消えていくだけなんて、悲しすぎる。
私はみんなから大切に守られてただ春の日のような温かい幸せな毎日を送っていたかげでずっと傷ついて一人泣いていたなんて知らなかった。私とエドはなんてひどいことをしたんだろう? なんでもっとアマーリエ様のことを考えてあげられなかったんだろう?
……私は上手に嘘をつけたかしら? アマーリエ様が急に私に話しかけてきたから私はびくっとした。私が考え込んでいる間にエドとの話は終わったらしい。目の前にエドが居ない。エドってこんな子供っぽい男だっけ。私は急速に気持ちが覚めていくのを感じつつ、首をこくこくと上下させて肯定した。
私は、貴族のご令嬢で甘やかされたお嬢様だろうと思い込んでいたアマーリエ様が実はただ寂しがりやで愛に飢えた年下の女の子だった事実に打ちのめされた。
ハンナ、巻き込んでしまってごめんなさいね。私はもう逝きます。
アマーリエ様はもう一度だけすまなそうに謝った。私の身体からアマーリエ様の気配が徐々に抜けていって、すっかり一つになった心がのこぎりでゆっくり切り裂かれていき、私に治りにくそうな傷を残していく。
アマーリエ様が来世こそは幸せになれますように。
私は愛されることを誰よりも望んでいたのに得られなかった幸薄いアマーリエ様のために、祈った。
読んでいただいてありがとうございました。
他にこんな小説書いてました。こちらは完全にラブコメのハッピーエンドです(近々番外編あげます)
『農村の幼馴染がイケメン貴族になって私を迎えに来た件』
https://ncode.syosetu.com/n8895gk/
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