2.アマーリエとハンナは入れ替わる
次に目を開けたら憔悴して目の下に濃いクマのある旦那様が私の枕元に座ってうたた寝していた。私はこんな至近距離で旦那様がいることに驚いて目を見開いた。いつもは隙もなくきっちりとセットしてある髪が乱れていたし、枕元に旦那様が座っているなんてことは普段なら全くあり得ない、というより初めての経験だった。部屋は別だし、白い結婚で夜を過ごしたことは今までなかった。
心配してくれているんだ……かあっと嬉しさと恥ずかしさがこみあげてきて旦那様にそばにいてくれたことのお礼を言いたいのに、頭にはもやがかかってうまく言葉を結ぶことが出来ない。身体がまるで砂袋にでもなったかのように重くて指先の一つも動かない。他人の体みたいだし、私はなんだか消えそうになっている。
「ハンナ。目が覚めたのか」
私の視線に気づいたのか旦那様が薄目を開ける。
……違うわ……私はハンナじゃない。アマーリエなのに名前を間違えるなんて。身体は動かないくせに涙はにじんでくるのね。寝ぼけていても看病してくれていたならそばにいてくれてたなら私の名前、間違えないで。
「泣くな。泣かれるとどうしたらいいかわからなくなる」
旦那様は少し震える指先でそっと涙をぬぐってくれた。眉を少ししかめて不安に揺れる目が私を見つめる。私は旦那様が名前を間違うから、と言いたくて、でもそれを言ってこの幸せな時間を壊すのはもったいなさ過ぎて口をきゅっと閉じた。こんな辛そうな顔はもうさせたくないのにと思ったけれど
……あら? それはいつだったのかしら?
具合がひどく悪いせいもあるけれどうまく考えがまとめられず散漫になってしまう。私達仮面夫婦だったわよね? 私の前で旦那様が素の表情を見せたことなんて……そうね。私には一度もなかったわ。気持ちが一気に白けてしまった。
ああそうね。私、失敗したみたいだわ。私はもう死んでしまったのかしら?
あの日。春の嵐の前の日、私をお父様の使いだという魔術師が訪ねてきた。そして私の話を聞いてくれて私の力になってくれると言ってくれた。今となってはあの魔術師が本当にお父様の使いだったのか、それとも何か別のものだったのか分からない。
魔術師に言われれるまま、私は旦那様が私を少しでも愛してくれて私を見てくれることを願った。具体的に願えと言われて、私はハンナみたいになりたいと答えた。まさかそれが私の精神がハンナの肉体に乗り移ることだなんて思いもしなかった。
私の身体はどうなったのかしら……私の身体にハンナが居るのかしら? 何となく自分の身体がもう無くなってしまったような喪失感があって胸騒ぎがする。
「ハンナ。もう大丈夫だ。大丈夫だからあの女は死んだから安心して元気になってくれ」
旦那様はだらんと麻痺して私の意志ではぴくりとも動かせない私の腕をさすって中腰になって立ち上がると私の額にキスをした。
私にはしたことのない愛情あふれるキス。ハンナはこんなにも大切にされているのね。恋人同士の甘いひとときを盗み見をするような気まずさとハンナへの羨ましさと旦那様からキスをもらえたことのうれしさに涙がぽろぽろとこぼれていく。どこで間違えてしまったの? なんであのあからさまに怪しい魔術師の言うことなんて信じてしまったんだろう。後悔してもしきれないし、いるだけのお飾りの私を標的にしたのか私にはわからなかった。
……死んでしまったあの女ってまさか私のことかしら?
私にはわかるのはどうやら私の身体は死んでしまったということだけで、それならいつまでもハンナの肉体に宿るのは虚しい。いくら私が愛されているように錯覚したところで私ではなくてハンナの名前を呼んでハンナのことだけを愛しているなら今までと一体何が違うというのだろう? 間近でそれを見させられ続けるのはただ辛いだけだし、私はそこまで落ちぶれたくなかった。だから悲しいけれど、死んでしまった以上私のすることは決まっていてハンナの肉体から出ていくだけだった。正直にいえば魔術師は私にとって最後の希望になっていた。怪しい魔術師ではあったけれどそれでもすがりたくなったのは、もしかしたら旦那様は私のことを少しでも振り向いてくれるかもしれないと淡い希望を抱いたからだった。その希望が潰えた今、私はもう何も望まないし疲れてきってしまった。貴族として女としてのプライドもあったから自分で死を選ぶことはしたくかったけれど、ずっとずっと苦しかった。だからこれはある意味救いになった。もう終わらせられる。苦しまなくてもいい。
ただ最後にわがままを言えば、私は……本当は私のままで愛されたかったけれど。