1.アマーリエは愛が欲しい(本編)
旦那様が私をお嫌いなのは分かっていた。それでも私は一目見て恋に落ちてしまったから、私のことを愛してくれなくてもどうしても一緒になりたかったし、だんだん欲が出てきて少しでもいいから振り向いて欲しくなった。
……だから罰が当たったんだと思う。
あれは庭園のバラが咲き始めた5月の初めころだった。前日の夜は雨がひどくて眠れなかったけれど、朝の身支度をして回廊を抜けるとき窓から外を見上げれば雲一つない青空で、朝の少し冷たい風が開き始めたバラの甘い香りを私のところまで届けてくれた。
「いい匂いね」
思わず嬉しくなってすぐ後ろにいた侍女を振り返って声をかけたけれど、侍女は硬い表情をしたまま軽くうなづいただけだった。
私はここでは嫌われてる。覚悟してきたことだけどやっぱり辛い。
私は侯爵家の令嬢だった。古くは王女様が降嫁されたこともあるくらい由緒あるお家柄だったけれど代々の浪費で借金まみれで、成り上がりの男爵家に寄宿学校の卒業を待たずに売られた。
ううん、売られたと言ったらちょっと言いすぎかもしれない。
侯爵家を再興する潤沢な資金を得るため、男爵家は成り上がり貴族の汚名をそそいでいくためにお互いの目的が一致した政略結婚で貴族では普通のことだしよくある話だった。
だけど誤算だったことが2つあった。
私が旦那様……エドゥアルト様を初めて見て恋に落ちてしまったこと。
旦那様には心に決めた女性がすでに居たことだった。
両家の思惑はぴったり一致しても当人同士の気持ちはすれ違ったままの結婚がうまくいくはずがなくて旦那様は愛人の居る別宅に入りびたりだったし、旦那様がそんな態度で私も大人しい性格だったせいか使用人からも私は疎んじられていた。
愛人の名前はハンナ。ハンナは旦那様の乳母の娘で旦那様とずっと一緒に育ってきてそれはもう良い子で周りからも好かれていて旦那様とも仲睦まじくて見るからに相思相愛だったから、私はよそから強引に乗り込んできた二人を引き裂く邪魔者でしかなかった。
私は16歳になったばかりで、旦那様とハンナは19歳。
今思えばみんな若すぎてお互いを思いやることなんて出来なかったのかもしれない。
それでも私は仮にも正妻なのだからもっと尊重されたかったし愛されたかった。少しでいいから私と一緒に過ごす時間を作って欲しかった。
でも旦那様は自分の最愛の人と身分差で結ばれることが出来なかったことを悔いたし、この結婚自体を恥じて私と顔を合わせることを徹底的に避けた。
いっそひどく虐められたら諦めもついたかもしれないけれど、私を待っていたのは旦那様の無関心と無視だった。旦那様は私が権力にものを言わせて自分と結婚したがったのだと思っていた。確かに旦那様は神秘的な紫色の切れ長の目に艶やかな黒髪の似合いイケメンだったから、とてもよくおモテになったらしい。
私はそういううわさ話に詳しくはなかったけれど、その私の耳にすら入ってきたことは相当の美男子だと正直期待していたことは認める。だって私はもっとかなりご年配の貴族へと嫁がされる可能性もあったから、旦那様だと決まったときは密かに喜んだのも内緒だけど本当のことだった。
一目惚れして恋なんて初めてでどうしていいかわからないまま、流されるように結婚したけれど、うまくいくはずもなかった。期待した私が間違っていたし、恋人同士の邪魔をした罰が当たったのだと思った。身分差で結ばれない恋人を引き裂く悪役令嬢みたいな役割を突然ふられても、私はそんなガラではなくて、がつがつと愛人を排除することも出来なくて、だからと言って色仕掛けで旦那様を夢中にさせれるような技もなくて、ただただ傷ついて、それでも小さなプライドだけは手放したくなくて何でもないようにふるまい続けた。
心はじゅくじゅくと血を流し続けていたのだけれど。
正直ハンナが妬ましかった。悔しかった。私が愛されたかった。せめて半分でもいいから分けて欲しかった。だって私のせいじゃない。私だって被害者で結婚を強いられた。腐ってもお嬢様育ちの私には何もできなかった。
きっと意地悪をするんじゃないかとがっちり周りから大切に守られていて、私はハンナと会うこともなかった。無条件に愛されるハンナが羨ましい。
私は正妻としてそれなりに丁寧に扱われていたけれど、誰もかれも他人行儀で孤独だった。私は長年の淑女教育の賜物というか呪いというかずっと他人に遠慮する癖がついてしまった。もう周知の事実なのだけれどそれでも困窮しているとは思われたくなくてお金が無いことを悟られないように、ただ女の子らしいアクセサリーやドレス興味がないだけのようにふるまっているうちに流行を知らなくなったし、つまらない子、と誰からも誘われなくなった。
あの日あの後。何か侍女に話しかけようとしてそのまま私は突然倒れたらしい。そこから意識がなくて次に目覚めたときはベッドから起きれなくなっていた。サイドテーブルに生けられた満開のバラから華やかな香りがただよっていて、私はどのくらい寝ていたんだろうとぼんやり考えた。なんだか頭がはっきりとしないし身体が重い。ずっと寝ていたせいだというけれどはっきりと何日寝ていたかもわからない。ずっと何か夢を見ていたような気がするけれどそれも思い出せない。
私、どうしたのかしら? あの日何があったのか。いいえ、もっと前、何かとても大切なことを忘れているような気がしてカリカリと子猫が爪を立てるような痛みが胸に走る。
「目覚めたと聞いたが」
「あ、旦那様……」
ベッドの天蓋のレースを左手で少し開けて旦那様がのぞきこんできた。怜悧な美貌は人形のようで表情がない。私は何とか体を起こそうとしたけれど、旦那様はそれを手で制した。
「寝ていろ」
短く鋭い言葉には優しさは感じられないけれど私は寝込んでいたせいでもともとほとんどない体力が落ちてしまって動けそうもなかったからそのまま体を起こすことを諦めた。ただ何となく顎を引いて少しだけ貴婦人らしく見えるようにおすました。こんな状況でも少しでも綺麗に見せたい女心だった。
私はハンナの前だけでとろけるように幸せな笑顔を浮かべて甘く睦言を囁くのを知っている気がした。
あら変ね? 私はどこでそれを見たのかしら。
せっかく旦那様が私のところに来てくれたのだからもっと起きてたわいのないお話をしていたいのに、知らず知らずのうちに瞼が閉じていく。
「アマーリエ、……」
いや眠りたくない……せっかく旦那様が話しかけてくれたのに何て言ったのか分からないしもっと一緒に過ごしたいのに……
そのまま私はくらい、くらい水の底に沈みこんでいくように深く眠りについた。そして気づけば旦那様の本宅のかつて一度だけ入ったことのある書斎にいて来客用の応接ソファの裏に子供の頃みたいにぺたりと座り込んでいた。
なんでこんなところにいるのかしら? ふわふわとして身体が軽いし、さっき身を起こせないほど衰弱していた私が自由に動けているのはどうして? それに私大人になってからこんな風に座り込んだら絶対に叱られるのに。
とりとめのない疑問は浮かんでは消えていくけれど現実感がないからこれは夢なのかもしれない。夢なら普段は来ることのできないこの場所を楽しみましょう。
私は珍しく気分がはしゃいだ。旦那様のがっしりとして高級なマホガニーの書斎机の周りをうろちょろして、旦那様の愛用している羽ペンや見事な彫刻のペーパーナイフをじっくりと鑑賞していく。
よほど集中していたようでガチャリとドアの開く音がして旦那様が書斎の入り口に立っていた時私はただ驚いて固まって動けなくなってしまった。目があったような気がしたのだけれど、旦那様は私を無視して一歩中に入ってから誰かを通した。見覚えのある人物は私を診断してくれた男爵家の主治医だった。
私はさすがにじわっと涙がこぼれそうになった。そのまま立ち尽くしてうつむく。妻が自分の書斎にいるのになぜ何も話しかけてはくれないの? そこまで私のことはどうでもいいの? 主治医の先生ですら私を存在していないかのようにちらりとも見なかった。
私を放置したまま、主治医の先生と旦那様は応接のソファに座って話し始めた。
「……間違いないかと」
あまりのショックにぼんやりとしていたからかもしれない。最初の会話を聞き逃してしまったけれど途中からどうやらこれは自分のことかも、と私は気づいて耳をそばだてた。
「眠り込まれる時間が日に日に長くなっておりますから、かなり進行しておられます」
「……アマーリエが、なぜ」
人前ではあまり表情の崩さない旦那様が顔をしかめて頭をがしがしと右手で掻きむしった。
私のことを旦那様が心配しているの? 私重い病気なのかしら? 今普通に動けているから、全く自分のことのように感じないから、旦那様が私のことを気にかけているという事実が単純に嬉しかった。でもなら無視しているの? と考えて、あぁそうかこれは夢だったはずよね、と思い出した。
……では旦那様が心配しているのも都合のいい夢なのかしら? 痛めつけられた心の防御反応で期待しすぎないように心とは裏腹の自虐が浮かんだ。
……こんな自分が本当に嫌。胸が痛いし苦しい。旦那様のことが好きなのに辛い。初めての恋なのに決して報われない思いにいつまで私は耐え続けなければいいのかしら? 恋になんて落ちなければ良かった。旦那様と出会わなければよかった。愛する気持ちはどうしたら止められるのかしら?
足元からひたひたと這い上がってくる不安に体が震え出して、私はぎゅっと目をつぶると真っ暗になって私はまた眠りに落ちていった。