『文学』の一元的基準
中山元の「アレント」入門は非常に良い本だ。この本から色々、考える所があったので述べてみたい。
まず、自分は子供の頃からずっと世の中とか社会、大人の世界に疑問を持ってきた。どうも嘘らしいという感じを持ってきた。そこから、色々自分で本を読んだり考えたりしてきたのだが、どうもこの「嘘くささ」というのは、トクヴィルが感じ、ゾンバルトもウェーバーも感じていたもの、ニーチェもドストエフスキーも、オルテガ、キルケゴールなども感じてきたもの、そういう巨大なもの、つまり二十世紀全般を覆ってきた大衆ーー物質社会ではないかという気がしている。
社会全般で言うと話しが大きくなるので、小さくして話す。自分は小説書きなので、小説ーー純文学ーー芥川賞のラインで話す。
自分は、自分の関係上、他の「作家志望」の人と話す機会がよくあった。彼らは良い人が多く、悪い人は少ないように見えた。もちろん、それは良い事だ。
それで、彼らは自分と同じように「文学」が好きなのだと思って、古典文学の話を振ってみたが、どうもそれほど食いついてこない。どういうことだろうと思っていると、彼らが一番興味深く感じているのは、「芥川賞」などにまつわる話である。知り合いの誰それが賞を取ったとか、そういう話は非常に盛り上がる。
ここに一つの仲間グループがあるとして、その一人が新人賞を取るとする。そして、芥川賞にノミネートされるとする。芥川賞を取るとする。すると、このグループは当然「よくやった!」「おめでとう!」となるし、心ひそかに「よし、自分も賞を取ろう!」となるかもしれない。いい事尽くしである。
こういう場面で、僕のような人間がもしこう言ったらどうなるだろう。「芥川賞受賞おめでとうございます。ただ、僕はあなたの作品は決して良いとは思いませんでした。無名でもあなたより良い作品を作っている人はいます。その根拠も意味も、自分なりに示す事ができます。しかしまあーーとりあえずのところ、おめでとうございます」
こう言うと、「空気が読めない、白けたやつ」という事になるだろう。それは確かにそうだ。しかしながら、「仲間が芥川賞を取る」というような事態を我々は、「親戚の子が東大に受かる」と全く同じような、完全なる善の事態として捉えている。そこにおいて「疑う」というのは基本的には許されない。疑えば「嫉妬してるんだろ。悔しかった賞を取れ」と言われる。ここでも、思考の一元的な方向性が見える。
現代はネットなどでも『多様性』などと言われたりする。ここでは『芥川賞』という一元的な価値観に至るプロセスは無限である。つまり、『多様』だ。しかし、その多様性は『芥川賞』という一元的な価値観に集約されなければ意味がなく、この価値観を疑う者は、「文学仲間」からも排除される。
過去の偉大な芸術家を見れば、死ぬまで無名だったとか、老年になってようやく評価された芸術家というのは沢山いる。彼らは、それぞれに己の基準を貫いたのだと自分には思われる。その事は、現在においてどう処理されるのか。フォークナーやカフカも、新人賞を順番に昇って来るだろうか? 彼らの存在は我々の基準に取り込めるだろうか?
ここで、問題になっているのは、ある種のイデオロギー統一であって、そのイデオロギーは、既に絶対的なものとして我々の心にまですっかり根を下ろしてしまっている為に、それに「逆らう」意味すら理解されないものではないかと思う。自分が子供の頃から絶えず感じていた『抑圧』とはこれではないかと思っている。つまり、この領域においては
「純文学とは芥川賞を取る為の手段」
という事であり、これに関してははじめから、『絶対』であるという話だ。
おそらく、こう言うと「それの何がいけないの?」という人が多くいるだろう。まさにそのような善良かつ利巧な人々がこの社会の価値観を決定し、強化している。それに関して答えようとするのは疲れるので、次の言葉で答える事とする。
「自分が文学というものを信頼できるのは、過去にいる少数の古典を作った人のおかげだ。彼らは、世界におもねる事なく、自分の基準、自分の世界観を貫き、それによって世界によって描かれる作品ではなく、世界の価値観に従属するのではなく、むしろそれらを(批判的に)描き出すような作品を作った。それゆえに、僕は彼らの道を信じ、彼らの生き様を信じる。だが、これは、芥川賞・新人賞というシステムと一致するとは限らない。そのようなシステムと、芸術における価値判断が一致するとは信じられない。だから、自分は、そのようなシステムにおいて生きる自分とは『別に』、文学者としての自分を考える。そこで僕は孤独であり、孤独であると共に、過去の文学者に対する賛嘆と信仰の念を持って、『孤独ではなく』生きていく事ができる。そういう風に感じる」
自分はそんな風に思っている。ここにおいて、芸術家の良心というのは、システムとは違うものとしてありうると思っている。例えば法や社会が許しても、自分が自分に許さない良心というものが存在するように、システムが許し、大衆が称賛する作品でも、自分で自分を許せない作品というものもあるだろう。その孤独の葛藤の中にしか、芸術はないように思う。そういう芸術というものを、システムは後からやってきて、評価する。最初からシステムに囚われた作者はそういう作品を作る。つまり、彼らは孤独でないが故に自由ではなく、『本当は』時代の中で熱狂しているだけの孤立者である。




