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6. 曙光



 見ることならできる。


 そう、見ることならできるのだ。



 だってこうして目の前に在るのだ。解説の章部分にて、こう見事に、磐・座・家! の三文字が確かめられる。


 あとは説明文に目を通すだけだ。ここさえ読めれば……



 読めれば……っ!!




 更に吸い寄せられるように前へ進んだナツメは躊躇ちゅうちょの一つもなくガラスにべたりと両手を着いた。整わないままの息が正面を白く曇らせる。


 ここは歴史ある美術品を主とする資料館。言うまでもないが、こんな這いつくばる姿勢などご法度だ。如何なる理由があっても展示品の前を指紋やら息やらで汚すなどあってはならないことだ。行儀が悪いことこの上ない。



 しかしナツメはどうにも諦めがつかないのだ。こうせずにはいられない。と、いうのも……



「顕微鏡に縋り付き過ぎたか……ううっ……!」



 いくら眼鏡を介していても、至近距離でないと細かな文字など確かめられない。この近眼が憎い。


 八年間取り憑かれたようにワーカーホリック生活を貫いてきた己が……憎い……っ!!



 もうどれくらい目が充血しただろうといったところでナツメは力なく崩れ落ちる。


 これ以上はドライアイまっしぐら。地図……は必須であったが、情報よりもなによりも目薬を持参してくるべきだったのではないかと悔やんだところでもう遅い。



 この状態を知らぬ者が見たなら何事かと目を見張ることであろう。しかし、そんなことも気に留めていられぬこの脱力感。



 ここまで辿り着いたというのに……






 世界各国のシャーマンたちの絵画に見下ろされながらしばらくはそうしていた。いい加減痺れ始めていた横座りの脚をさすったりなどしていた、そのとき。



――お嬢様。



 音程で言うならテノール程の心地良い音色……いや、声を頭上から受けた。ナツメは赤く滲んだ目で見上げる。


「おぉ……」


 逆光のせいなのか疲れ目のせいなのか、よく顔の伺えぬ老紳士と思しき者の謎の呻きを受けて、今度は眉間にしわを刻む。



 ただの一言も返せないうちに空気の変わる気配を感じた。柔らかく包み込む陽だまりのような、これは……微笑みの気配、だろうか。



「そんな顔をしないで下さいませ。今ここを開けて差し上げます」


「えっ……」



 じゃらりと金属の音を連れて老紳士が片隅へと歩き出した。ガラス張りの中に続いているのであろう扉を今まさに解錠しようとしている。


「あの……」


「あっ、そうそう、これを着けて下さいませ」


 やっと切り出そうとした矢先に“管理者”と記された腕章を手渡された。やっと慣れてきた目で確認することのできた。素顔の瞳と片眼鏡越しの瞳、両方を細めた老紳士の微笑みが言わんとするところならわかる。



 これさえ着けていれば私も関係者の仲間入り……


 って、いやいや!



「待って下さい! その……っ、本当にいいのですか?」



 ついさっきまで項垂れていた本人が言うのも滑稽な話かも知れぬが、慌てるのもまた無理の無いことと言えよう?


 私が可哀想に見えたからか? それとも女に甘いのか? こういう管理をザルというのだぞと、親切にしてもらっている立場でありながら説教したい気分にさえなってくる。



 しかし足音を潜めて引き返して来た老紳士の方はどうだろうか。



「こういうのを“えこひいき”と言うのですかね。私の知るあるお方の面影をお嬢様に感じてしまったのですよ」



 そっと口元に手を添えて私の耳元で囁いたりなどする。顔を上げた老紳士のさっぱりと短い白髪と年季を感じさせる長い顎髭あごひげは、風もないのになびいているように見えた。



「いや、申し訳ありません。自己紹介がまだでしたね。私はこのやかたの管理人を務めている……」



 だからそういう問題ではなく!



 ……いや?


 管理人、だと?




 瞬きを一つしたナツメに向かって白髪の彼が深々と頭を下げる。



「磐座という者でございます。初めまして、お嬢様」



 …………



 …………だろうな。




 名乗る前に察しがついてしまったとは言え、これは予期せぬ事態だ。磐座家の血族、更に言うなら冬樹さんの親族がこの場に居るだなんて。



「失礼ながらお嬢様のお名前は?」


「え……」



 これを言っていいものなのだろうか。こんな全て見透かすような目をしたシャーマンの血縁者に……



 しかし、もしかしたら、扉を開けるのではないか。


 ガラス張りの奥の更に奥。あの匣に封じ込められた神秘の糸口に、触れられる、やも、知れぬ。



 予感ともなんともつかぬ感覚のまま意を決したナツメが口を開く。



「秋瀬……」


「おぉおぉぉぉう!!!」



「!?」



 思いがけない大音量に飛び上がった頃にはすでに両手を強く握り締められていた。


 更にそれだけではない。ふるふると危うげに震えた老紳士は幾つものしわに埋もれた茶の瞳を潤ませたりなどして。



「もしかして夏南呼ななこお嬢様の?」



 そう、きたか。



 呆気にとられるナツメもやがては思考を巡らせた。その結果がこれだ。


「孫、です」


 とりあえずは乗っておくのが有利であろう。もし辻褄が合わないなどのことがあれば、そのときは……天界よ、今だけでいい。お力を貸してはくれまいか。



「そうでしたか、そうでしたか~! あれ……しかし私の記憶が正しければ、お孫さんはもう少し若……」


「老け顔なのだ」



「あぁぁ! 申し訳ございません!! どうかお気を悪くなさらないで下さいませぇ! 決して悪い意味ではございませんし、老いぼれの勘違いかも知れませんゆえ……」



 何を慌てているのだ、老紳士よ。そんなことなど気にしていない。私はこの場を乗り切れさえすればそれで良いのだ。



 少しばかり綻んだナツメを見て安堵したのか、老紳士のほっと息を吐きながら肩を落ち着かせた。それからまた感慨深げな眼差しへと戻っていく。


「私の叔母……いえ、叔父が可愛がっていた夏南呼お嬢様のお孫さんに会えるなんて……久しぶりにここへ来た甲斐がありました」



 叔母、と言いかけて、叔父。



 みことさんか!



 うんうん、と頷くナツメの中でも感慨深い思い……いや、カナタの気配が目覚めていく。



 ということは樹さんあたりの息子なのか? どのような経緯か見届けることは出来なかったが、そうか、我が娘・ナナコのことも可愛がってくれたというあの命さんの甥っ子が……


 こんな立派な紳士になったんじゃのう……!!




 この状況を知らぬ者が見たなら何事かと目を見張ることであろう。


 祖父と孫といったふうにも見えない歳幅の離れた二人が、共に目を潤ませて何を熱く語り合っているのだ、と思うであろう。



 確かに歳幅は離れている。しかし中身がこんなになっているとはきっと誰も想像できぬであろう?



 これだから人生は……滑稽おもしろいんだ。






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