4. 逢引
指先で弾いたが最後、がくりと全身の力が抜けた。己のやらかしたことに愕然としたのは実に八年ぶりに訪れたあの世界の、あの街の、こじんまりとしたアパートの一室でのことだ。
「あ……う……っ」
為す術もなく火照っていく身体を両腕で抱き締めるようにしてうずくまる。何故こうなったのかはもうわかっている。約束と違うことをしたからだ。
待ってくれ、待ってくれ、天よ。
今決めるからもう少しだけ……!
涙目になりながら壮大なる彼方へと訴えるナツメはもうわかっている。何故このように判断を誤ったのか?その答えもまた明白だ。
ただ一目……と、眺めるだけで終わらせるはずだったノートパソコンの画面上に
“春日雪之丞”
君の名を見付けてしまったからだ。そこにあると知っていたはずなのにこうも容易く支配されてしまうとは何と脆い理性なのか。
「ユキ……」
引き返さねば。今なら間に合う。そう思っているのに絶えず溢れてくる感情がそれを許さない。
「冬樹、さん……っ」
君を失った日からもう八年も経っているというのに、どうしようもなく昇りつめる熱は貴方に再び抱かれることを願っているとしか思えない。つくづくはしたない女だと自分でも嫌気がさしてしまう程にだ。
もう二度と叶いはしないと言うのに。
――逢いたいよ。
「逢いたいよ、ユキ……!」
額を手で覆ったままベッドに身を投げ出した。年甲斐もなくやけに甘ったるい声色を漏れてくるのだが止めることも出来ず、ただ疼く胸元を抱いて身悶えるばかりの私はこの日ついに決意してしまった。
幽体世界へ戻ってから何年と過ごしてきた私が、一体なんの目的で再び横浜の地へ訪れたのか、如何にしてこの事態へと到達したのか。随分と取り乱したところを見せてしまったが、まずは順を追って話さねばならぬな。
率直に言うなら、この度の私の目的は磐座家の持つ逢引転生の信憑性を確かめること。そして我々がまだ辿り着けていないかも知れぬ真相へと迫ることだ。
この件に関する研究は確かに続いていた。しかし滞ってもいた。あくまでも物質世界の血族である磐座家の謎の解明を幽体世界のみで行うなどさすがに限界を感じていたのだ。
いや……
この際正直に打ち明けよう。逃げていた、とも言える。
なんと言ったって古傷をこじ開けるような取り組みだ。私の心の傷を配慮してか、こちらが指示を出さずとも今や副班長であるブランチが部下の者たちに短期滞在で情報を集めるよう動かしてきた。
その結果、得た情報の中で最も大きかったのは“逢引転生の発端”である。
かつて貴族家系であった磐座の娘と貧しい商人の青年との身分違いの恋があったそうだ。二人は生まれ変わった先で再び出逢い必ず一緒になろうと誓いの契りを交わした後に心中をした。
信憑性と言えるのはそれから約五十年後。
磐座の跡取り息子は見合いで出会った女性とすぐに打ち解けたのだが、やがて二人の首筋に生まれつき同じ形状の傷痕が存在することがわかった。先祖の娘と青年が心中の際に刺し違えたまさにその場所。まぁ当然の如く、磐座の親族たちは縁起が悪いと婚約破棄を推し進めようとしたのだが、対する二人ときたら……
――もう二度と離れない!――
と、図ってもいないのに口を揃えて半ば強引に想いを遂げる運びとなった訳だ。
これも十分に興味深い収穫と言える。そして動いてくれた部下たちには心から感謝している。もちろんだ。
しかしその先からまるで遮られるように有益な情報が得られなくなってしまった。
あのワダツミとやらに再会出来たなら話は違ったのかも知れぬが、残念なことにあれ以来、伝達人としての彼女に会うこともできていない。正体を知っている私を避けているのか、その真意はわからずじまいだが……
ともかく私は疲れてしまったのだ。
いずれにしたって私に出来ることなどもう無いのかも知れぬ。頑張ってせいぜい転生後のユキの幸せと、もう彼と恋に落ちずに済むことを全力で祈るくらい。それだって天が何処まで受け入れてくれるのかわかりはしない……そのように目を背けていたこともまた、事実だ。
しかし私の決意はまた形を変えることとなった。それは他でもない、先日若きツインレイの二人が見せてくれたなりふり構わぬ姿勢。
魅せてくれた。思い出させてくれた。あの荒削りかつ無鉄砲な愛の示した方だ。
私に出来ることは本当にこれで終わりなのか?
磐座の血族である冬樹さんと直接関わった私が向かえばなんらかの導きがあるかも知れぬ。見つけられるかも知れぬ。ユキの魂を限りなく救いへ導く術と、悲劇を繰り返さない為の方法が……!
こうしてついに覚悟を決めた私は星幽神殿に申請を出し、再びここへ降り立つこととなったのだ。滞在期間は短期で申し出た。
ところがまさかの事態が数日後の現在になって訪れてしまった。
いつか冬樹さんが一緒に観に行こうと言ってくれたあの舞台をインターネット上で見付けた時点で、天界はすでにこうなることを見抜いていたのやも知れぬ。
意識が朦朧とし始めたときにはもう購入をクリックしてしまっていた、一ヶ月半以上先となる公演チケット。
予定通りに短期で帰還すれば無かったことにできるのだ。しかし私の中で必死にかぶりを振る気配があった。
抗っても抗っても漲ってくるその波長は私の理性を容赦もなく押し退けて、実に単純かつ身勝手な本能を解き放つ。
――ユキに逢いたいんじゃよぉぉ!!――
カナタ……お前か。
呆気に取られたのも束の間、短期滞在者向けに強化されていたナツメの幽体はみるみるうちにその効力を失って、肉体への拒絶反応から起きる熱に浮かされていくことに。
(こんなのはもうこりごりだったのに)
だがもう遅い。悔しいが私は未だこの内なる波長に勝てやしないのだ。純粋と言えば聞こえが良いが……
「単純は……最大なる、凶器、か……!」
落武者の如く唸りを上げて降伏を余儀なくされた瞬間だった。
後日フラフラと定まらぬ足取りでなんとか幽体世界へ戻り、滞在期間切り替えの申請を郵便にて送った。念の為長めの休暇を貰っていた研究所の方もまた計画を立て直さねばならぬ訳だが、正直頭を使う余力も残ってはいないとすぐさま物質世界に引き返した私は、来る日も来る日も、愛しいあの名を呼びながら悶える夜を繰り返した。
――ナツメ――
貴方に抱かれる幻の夜に涙した。
ようやく熱が落ち着いた頃に少しずつ近所へと出かけてみることにした。
最初はアパートの周りを一周だけ、その次は一番近いコンビニまで。こうなればもう食料も自分で調達出来る。いつも配達に来てくれる青年はどうやら私を重病人と思っているようだからな、これ以上心配をかけずに済むのは良いことだ。
ついには海辺まで足を伸ばせるようになった。
さすがに二十歳と同じとはいかないが、髪にも肌にもいくらか艶が戻ってきた。ひらり流れてくる紅葉を追いかけるこの漆黒の瞳にも輝きが戻ったに違いない。
こうなればもうこっちのもの!
約一ヶ月半の時を経て借りの肉体を我が物にしたナツメは、水平線に向かって胸を張り、晴天を貫くように高らかに言ってのける。
「いよいよ本題に取りかかる。待たせてすまないな、ユキ」
そう、繰り返しになるが私が再びここへやってきたのは舞台鑑賞の為ではない。あくまでも研究だ。愛しい者の残像と逢引をする為などではない、断じて。
「諦めるなんて……できんよ」
そう、ただそれだけの、目的。
気付けばすでに神無月。この急な長期滞在変更に関してもベクルックス所長は豪快に笑って承諾してくれた。柏原事件(仮)を全力でフォローしてくれたのだからまぁ良い、多めに見よう、などという私でさえそれで良いのかと言いたくなるような理屈であった。
副班長のブランチには大目玉を食らったがな。無理もない。今回最も被害を被っているのは彼であると容易にわかるだけにつくづく頭が上がらないところだが、しかし! 決めてしまったからには必ず手にして帰ってみせるよ。
ユキの魂を救う糸口を。
悲劇を繰り返さない為の知恵を。
尊く危うい後世に伝えていく術を。
そして秋瀬夏呼が原作者である物語。娘の夏南呼が初の脚本を務めたというあの舞台からも何か鍵となるものが……
いや、正直に言おう。
単純に楽しみにしているのだがな。認めるのは悔しいがカナタだけではなくこの私だって、本当は……君に逢いたいんだ。残像だとしても、ほんのいっときだとしても。
ブランチには言えぬここだけの本音だ。




