3. 囀
嗚呼、今もはっきりと思い出せるよ。
幼いカナタをひょいと持ち上げて高みの世界を見せてくれた大きな肩。腹の底から繰り出される豪快な笑い声は年老いてなお健在であったこと。
どんな困難にぶつかろうとも……
――この柏原の人生に一片の悔いなし!!――
が、決め台詞であった。最期の瞬間まで私をしかと抱き締めてくれた勇ましき海の男よ。
――迅さんよ。
「どうしたもんか、迅さんよぉぉ……」
明け方の研究室内のデスクにて一人頭を抱えるナツメは意図せず漏れた情けない声色でその名を呼んだ。
人生とは実に予測不能。まさかここに来て柏原二世の面倒を見る羽目になるとは思わなかった。いや、正確には二世などではない。血の繋がりなど無い。しかし如何に願いを託そうと思うようにならないものだとしまいには、くっ、くっ、と悶えるような苦笑まで漏れてしまう。
世界の異なる相手と恋に落ちたというだけでも十分に己と重なる現象だったのだが、魅惑の迷宮がもたらした縁はそこで終わることもなかったのだ。
どういうことかって?
「幽体離脱、か」
こういうことだ。
蜂蜜色の月夜の下で野太い男泣きに出くわしたあの日から更に一年後、なんと柏原(仮)が恋をしたという少女の幽体がこの世界に訪れたのだ。
何日か森を彷徨っていたとのことで、研究所に保護されたときにはすでに前世の姿……やつれてはいたもののなんとも可憐な妖精となっていた。
原因を探っていくうちにわかったことだ。少女は奇しくも冬樹さんと同じような経緯を辿ってしまったらしい。
それを知った時点でなんとなく察しはついたのだが……
妖精となった少女もまた磐座家の子孫だというのだから……尚更困ったものだよ。
少女の波長の変動に目を光らせる日々を送っていたナツメの中で決意が確かになっていった。
もう単に己と重ね合わせているだけという訳にもいくまいと身体の奥に芯のようなものを覚えるなり、不穏な予感が脳天から降りてその芯を導線とするかの如く走り抜ける。
――ユキ、ユキ……!――
――嫌じゃ……ぁ……ッ!!――
遠い記憶だからなのか、今となっては何処か自分の声とも思えない悲痛な叫びが蘇って胸が激しく締め上げられる。もうあんなことを繰り返してはなるまいと、拳を強く握ったりなどして。
この立場になって初めてわかったことがあるのだ。
かつて周囲を振り回して申し訳ないなどと自責の念に苛まれていた私はやはり何もわかってなどいなかったのだと思う。
迷惑というのはその行為自体よりも、己を労れぬくらい自暴自棄になり、誰の声も届かぬというくらい殻に閉じ籠り、頼り方さえわからないからと早々に諦めて、ついには存在そのものを消そうとさえする。
極限まで視野が狭まり愛に耳を貸すことさえ出来ない、そんなになるまで強いふりをしてこじさせた者こそが招く事態と言えるのだ。
星々が静かに瞬く夜、置き手紙一枚が残された空っぽの部屋を目の前にして私はいよいよ実感を得た。
何が起きたか? 単刀直入に言おう。
柏原(仮)と少女が駆け落ちをした。
このまま居続けたら周囲の迷惑になる、もう自分たちにはお互いしか居場所が無いから……などと哀しいことを抜かして。
(そういう問題ではなかろう!)
あえて繰り返すがこの立場になって初めてわかった。それはやり場の無い憤りと己の無力さに対する落胆。みっともない男泣きを聞かせてくれていた方がまだ良かった。
いや、それは筋違いというものか?
なんといったって若い二人なのだ。私の力量不足だったのではあるまいか? これで全力を尽くしたと言えるのか? 己と重ね合わせてしまったばかりに戸惑いが勝っていたようにも思える。彼らは彼らであって私とユキではないと言うのに。
二人を追いかけようと慌てふためいたり中には泣く者も居た。こんなときだからこそとギリギリまで平静を保っていたナツメも、皆の姿が消える頃には力なくよろめいて、ついには壁に身体を叩きつけるようにして崩れた。言葉に出来ない感情が獰猛な生き物のように腹の奥から蠢いて全身をガクガクと揺さぶる。
駆け落ちだけならまだ良い。心中でもされた日には……
「馬鹿……ッ!!」
己の魂を粗末に扱うことが如何に罪であるか知っているがゆえの焦燥、そして耐え難い恐怖。
それでも何が本当に正しいのか結論が出せぬ自分に苛立っては頭を抱える実に虚しい繰り返しであった。
それからまた事態は動き出していた。人間の脆さや浅ましさならそれなりに知っているつもりだ。予想が全く出来ていなかった訳でもない。しかし……
実際に耳にしてしまうとやはり悲しいと言わざるを得ないな。大正時代からの記憶を持っていたってなかなか慣れるものではないよ。
行く先々で眉をひそめたりなんかしたのは、硬派なことで知られる柏原二世の起こした思いがけないスキャンダルを得てここぞとばかりに面白可笑しく噂を撒き散らす連中が居たからだ。
実に不愉快だ。まだ二十一歳の彼を兄貴などと呼んでは散々甘えてきたくせに。
ひとまずは内心にのみ留めておくつもりだった煮え切らない感情は、ふつふつと泡を立てる熱湯のように私の中を熱して目覚めへと導いていく。
ピーチクパーチクとよくもまぁ飽きもせず。
……ずばろーしいのう。
実にけしからん。何がって三十路曲がり角の私の眉間にこれ程深い皺を刻ませてくれたことだよ。跡が残ったらどうしてくれると詰め寄ってやりたいそんな輩には
「よく聞きなさい、若人たちよ!」
ついに長らくの眠りから目を覚ましたカナタが小鳥のように目を丸くして立ち尽くす一同に説教なんかを始めてしまった。ナツメの皺を増やすな……もとい、デカい口を叩けるほどお前たちは立派な人間なのかと。
理解されぬ苦痛を知っているがゆえについついしゃしゃり出てしまう。この調子だと私は年々お節介になっていきそうだ。
ペットは飼い主に似るという。子は親に、恋人はお互いに。その理屈で言うならば信頼の厚い上司と部下も例外ではないのかも知れぬな。
前世でも今世でも無茶ばかりをしてきた私に続いて、表向きのみ硬派な彼までもが心配をかけたことをまずはお詫びしたい。そしてここからはどうかご安心頂きたいところだ。
幸いなことに青くさい事件は最悪の事態を免れることが出来た。妖精の幽体を持つ少女と柏原(仮)……いや、この呼び名はもう要らぬか。
――レイ――
――愛してるわ、ずっと――
少女の残した言葉だ。若き二人は確かな約束を交わしてそれぞれ在るべき場所へと戻ることとなった。
つまりは別れか。
いいや、それが違うのだよ。
事件を解決と呼べるところまで導いたのは私にとっても覚えのある、何処ぞで聞いたあの言葉だったのだ。
“双子の光”
あの二人もそう呼ばれる間柄だったらしい。我々の世界なら当然のように知っている者も多いのだが、うむ、少々説明が要るかも知れぬな。
ツインレイ……それは元が一つであった魂。絶対的な唯一無二の存在。運命の中の運命と言っても過言ではない。
それを知った二人も自信を得たようなのだ。何処に行っても、何度生まれ変わっても、むしろ避けようとしたってまた巡り合うのだと。
そう、私は確かに聞いたはずだ。
――双子の光と見定めた其方たちだからこそ……――
やはりユキのことなのか?
もう出逢ってはならない、追いかけない。そんな決意さえ叶わない間柄であると……?
――目覚めたなら新月の宵に……――
のう、ワダツミよ。
「今なら目覚められそうだ」
ひと段落を得たばかりの現在。もうじき二度目の雪之丞と冬樹さんが儚く散った季節が巡って来る。長月は間近。
時にやかましくさえ感じた若人たちの囀は私を確かに導いていた。切なく鳴き出した秋蜩の声へ連なるように歯車が再び回り出す。
気が付くと夕暮れどきにも関わらず踏み出していた。私の爪先が示すは神秘なる申請を受諾するあの方角であった。
カサ、と軽く響かせる秋の音に総毛立つ感覚こそあれど、哀しい軋みの音ではなかった気がするよ。




