6. 藍染
あの夕暮れの下で冷たい疾風を受けてなお、夜の冷え込みに備えようなどとは考えなかった。考える余裕さえ、無かった。
この世界で君と三度目の再会を果たした日に似ている。優しく時に残酷な大海原を彷彿とさせる草原を一人歩み行く、深夜十一時を過ぎた頃。
また一つ、伝い落ちるかも知れぬ寸前で自らの頬を強く叩いた。落ち込んでいる場合ではなかろう。
「私に……っ、嘆く資格など無いッ!!」
君がいつか思い知らせてやるとばかりに乱暴に掻き乱した長い黒髪を今度は己の手で。痛みを知れと、彼らの苦痛は他でもない己が招いたのだと、容赦もなく刻み付けていく。
そう、この程度の痛みでは済まなかったはずなのだ、彼は。そしてあの人は。
研究所に戻ってくるなり誰もが異変に気付いたようだった。心配そうに見守る面々の中から見つけたブランチには、とりわけ丁重に、繰り返し繰り返し頼み込んだ。今だけは二人にしてくれと。
息も絶え絶え、おぼつかない足取りのユキを自室になんとか招き入れた。有無を言わせずベッドに横たえ、落ち着くまではとずっと黙して手を握り続けた。
「ごめん……ナツメ」
弱々しく届いたところでかぶりを振る。ひとまずは彼が何を言おうと受け入れる覚悟を決めた、つもりだった。
「僕はもう君を抱けない」
「ああ、それでもいい」
「君を愛してるから」
「……それで十分だよ」
全ての見通しはつかなくても、先程かろうじて耳にしたことを覚えている。
――君を穢してしまうから……!!――
――僕は君を裏切った上に、僕は……――
「もう自分を責めないでくれ、ユキ。何があったのかはわからないが、急がなくても話せるときが来たら」
「ううん、話すよ。話さなきゃいけない。きっと君を傷付けてしまうけど」
「じゃけぇ……っ、君の痛みなら私は共に背負う。見捨てたりなどせん! 水くさいことを言いよんな……ぁ……ッ!」
握った君の手に額を寄せるとどうしようもなく震えてしまう。前に流れた黒髪を梳いて、撫でて、ほんのわずかの笑みを見せた君が紡ぐ。
「僕が磐座冬樹になった理由がわかったんだ。ねぇ秋瀬。命さんの話……覚えてる?」
実に懐かしい。久しく耳にしていなかった名を受けると、自身の中央へ何かが這いずって集まる感覚がした。きっと予感だったのだろう。
「磐座家の人間になる為に、強行手段があるって言ってたの」
それか。
集まりかけの記憶の断片は更に加速して形成を目指す。命さんには結局ぼかされてしまったあれがどう関係すると言うのか。
きっとユキは何度もためらった。
それでもやがては口にした。
「命さんはね、生存者の一人だったんだ。君を助けられなかったと、面目無いと、僕に泣きながら詫びた。そして教えてくれたんだ」
――確証は無い。だけどこれが最も確実だと言い伝えられている――
――無力な巫女である俺が、唯一お前らにしてやれることだ――
「なんだかわかる?」
なんともじれったいが不思議と苛立ちはしない。ユキはそれだけ怯えているのだ。促しが必要なのだ。ただそれだけ察したナツメは一回首を横に振って見せる。
「聞かせて」
囁くようにして一雫の魔法をかける。
「最低なんだよ、僕は。あの人の優しさに甘えた。君に逢いたいという我儘な想い一つで、男として生きようとしていたあの人の信念を踏みにじったんだ」
「ユキ、それはどういう……」
魔法は確実に紐解いていく。きっと君にとっては強烈な薬物のように。
絶えず流れる涙と静寂の間に似つかわしくない、そんな笑みまで浮かばせて。
「命さんを抱いたんだよ」
夏というにはあまりに合わない、似つかわしくない。真冬みたいな静寂の中へ流れ込む君の声色は優しく哀しい。
瞬きさえ忘れたナツメが感じ取ったのはただ、それくらいのもので。
――カナタ。
助けてくれ、カナタ……!
かすかに唇を戦慄かせたナツメが藁にも縋る想いを内で響かせると、すかさず両手を伸ばしたカナタが震えるユキを一気に胸まで引き寄せる。
「それが強行手段か? そうすればまた私に逢えると信じて……?」
「ごめん……ごめん、ね。だから秋瀬、僕に触っちゃ駄目だって。僕は君を裏切った上にあの人を女扱いして辱めた。好きでもない男に抱かれるなんて、どれ程……っ、つら……」
「もうええんじゃ、ユキ! ええんじゃよ。そうか、辛かったのう。私のせいで君も命さんも」
柔らかい癖毛の髪は撫でれば撫でるほど纏わり付く。例え誰がなんと言っても、私だけはこれを振り払いはしないともう決めている。
「ユキ。確かにナツメは冬樹さんが初めてじゃったが、カナタは違う。君も気付いとったんじゃろ? 私かて夏呼と」
――ううん。
小さな呟きと共に首を横に振るユキ。
「まさか秋瀬はそれを過ちだと思ってるの? 違うよ。君たちは本当に愛し合っていたじゃない。僕のとは……やっぱり、違う」
伏せて閉ざした垂れ下がりの瞼に、行き場を失くして伝うしかないいかにも塩辛そうな雫に、私はまた一つ気付かされる。違う、違う、なんて続けてみせたそれだって本当は悪足搔きだと知っていた。
それから私は衰弱したユキを半ば強引に寝かしつけた。何か温かいものを持ってくる、などと言ったが、実際のところ求めていたのは冷たさだ。
実におめでたかった、この頭を覚まさせるくらいの冷感が……今、欲しい。
程よい温度で足首を撫でる豊かな草原だって今は荒野にしか感じられない。偽りに浸食されて哀しく軋みを立てる夜空の下。
これで良かったのだ。
「良かったのだ」
道標の如くうわ言を落としていくナツメは頭だけで天を仰ぐ。己に言い聞かせる。
――ねぇ、秋瀬――
ユキは確かにそう呼んだ。それはカナタに受け入れてほしかったからだ。カナタの出番だったのだ。だから、これで。
「よかっ……」
…………
…………っ。
「いい訳がなかろう!!」
甘く包む偽りの天を振り払うようにこうべを垂れたナツメは、力いっぱいの叫びの後に大きく身を翻す。
君を残してきた部屋という名の牢獄から漏れる、あまりに柔らかい光を受け止めるなり幾つもの透明な破片が宙を舞った。無我夢中で走り出すまでいくらもかからなかった。
本当はわかっていたのに全力で目を背けた。逃げてしまった、己を恥じて。
“秋瀬”
君がいくらそう呼んだって。
「ごめん……ごめん、なさい……っ」
私はもう知っている。
ユキはあれで強かなのだ。静寂の色でありながら触れたものを容易に溶かす青い炎を秘めている。
黙す力に長けている。秘密はきっと墓場まで、特に愛する者には見せまいとただ一人で抱え込む。
最愛の為なら悪にだってなる。
そしてそれを許さない者が居る。ヒナ兄か? ブランチか? いいや、違う。それどころじゃない。それは彼にとっては最も近い存在。
「冬樹さん……!!」
彼しか居ないではないか。誠実過ぎるがゆえに要領が悪く、嘘の一つもつけやしない。
こんなの駄目だと。間違っていると。全て話せ、例え軽蔑されてでも、偽りの自分を続けるよりかはよほどいいとユキを諭したのは貴方ではないのか?
カナタだけではない。
私に受け入れてほしかったからではないのか……!
気が付けば辿り着いていた研究所前。今まさに玄関扉を開け放とうと手をかけるも、それは力を込める前に自然とこちらへと傾いでくる。
「ナツメ?」
思いがけず鉢合わせたブランチの胸に勢いよく飛び込む形になった。
「おい、お前」
訊いてくることなら容易に想像がつく。言わせる手間ならこちらから省いてやると、ナツメは濡れたままの顔を上げて。
「ユキが思い出したんだ。冬樹さんとして生まれ変わった理由……これが関係しているのかも知れない。だから彼は二度も同じ世界に、生まれ……」
呆然としたように見下ろしていたブランチの二つの琥珀が鈍く光る。きっと彼は彼で何か手繰り寄せていったのだ。
「……二つ目の罪」
「罪などではない! ユキは悪くないッ!!」
これ程声を大にして張り上げることになろうとは自分でも思いもしなかった。次に出来たことと言ったら、ただ力なく震えた問いを投げかけるくらいで。
「のう、ブランチはユキが嫌いか? これを罪と思うのか? 私を同性愛に目覚めさせた上に他の人と関係を持ったから、私を裏切ったと、そう思っているのか?」
「ナツメ、それは」
「私は思うのだ。生まれながらの罪人などただの一人も居ないはずだと。ましてやユキなど、優しくて、凄く優しくて。人を傷付けることを何より嫌っていたはずなんだ」
ならば人は如何にして罪に染まる?
それはきっと、越えてはならぬ一線のその先へと誘導する脅威。
「罪に貶めるだけの更なる罪悪が存在するということではないか。この、私のような……っ!」
ナツメ! と咎める声の主は逞しい筋力を駆使して抗う私の両腕を強く、強く、押さえ込む。それでも止まる気はない。止まりたくてももう……止まれはしない。
「すまない、すまないなブランチ。散々迷惑をかけたな。君の操縦士生命を絶ってしまった上に、今度は恋愛沙汰になど巻き込んで。噂にまで巻き込んで。それでも見捨てないでいてくれた君には本当に感謝しているよ」
だけどな。
「私はもうユキのものだ。身も心も、全部……彼の存在なくしては成り立たない」
「…………!」
「こんなにも無知で無力な私の我儘などに、ブランチ……優しい君を巻き込みたくないのだよ。本当にすまない、もういつ見捨ててくれたって構わないから」
哀しく微笑んだが最後、呪いが解けるかのようにすっと自然に放たれた。
在りもしない疾風に後押しされている気がした。ただ一人の君を目指して駆け出したばかりの頃に。
「出来るわけねぇだろ、馬鹿……っ!!」
胸を締め上げる哀しい響きを背に受けても。
少なくとも今宵の道のりは定まっているよ。君が罪と言われるのなら、私も共に罪となる。




