十. 夢幻泡影
もう泣かせはしまいなんてどれだけ誓ってみても、遠く離れた君にはきっと無意味だったであろう。
逢いたいと願い続けたそれだって私の身勝手な想いにすぎない。君が辛いのなら受け止めなくたっていい。ただもう一度、その困り顔のような笑みを遠目からでも見届けられればそれでいい、なんて、思い始めていた頃に。
勿忘草が引き寄せた。
「……ん」
薄く瞼を開いてから、背にしている部分がやけに柔らかいと気付くまでに結構な時間を要した。
ぱた、と頬を打つ霙のような滴りが、夏の蟬時雨とは異なる温度であることも。
「秋……瀬……」
「ユキ……?」
ようやく理解した。崖上から滑落した私が生きているのか死んでいるのかはわからなかったが、ただ一つだけは、はっきりと。
「ユキ? ユキ、なのか?」
傷付いた私の身体を膝に寝そべられたまま、次から次へと溢れる雫を絶えずこちらへ落としながら、君が口にしたものが
「秋瀬」
その名が、どちらの私であるのかを。
「ずっと逢いたかった。ずっと、探してた……!」
溢れる透明の欠片を撒き散らし、せきをきったように君が叫ぶ。上体を起こしてみてやっと右の足が動かないと知った。それでも何とか見上げることが出来た、潤んだ具合が懐かしい垂れ目がちな茶の瞳。
「私を思い出してくれたのか?」
ゆっくりなぞるよう頬を撫でると、唇を震わせたユキが頷く。これまで以上の懐かしさを覚えた夏南汰に微笑みが満ちていく。
「不思議なんじゃよ。あんな遠く離れていたのに、私は何故か、君に辿り着いた気がする。あのときもこうして、君の腕の中に」
「うん、だって秋瀬は帰ってきてくれたもの」
うっ、と一度喉を詰まらせた。瞼を固くつぶってうつむいたユキが絞り出す。
「指先一つ程度の……っ、骨になっていたけれど……!」
ああ、やはりそうだったか。私はやはり、君を泣かせてしまっていたのか。
懐かしいという感覚に合点がいった。あの日、嵐の大西洋で死した私の肉体は浸食の著しい海中にて朽ちたのだろう。
横浜の地へ帰ってきたと感じたのも、抱き締める君のぬくもりを懐かしく思うのも、きっと私の残留思念が感じ取ったがゆえのこと。
想いをつのらせていく夏南汰は湿った大気を深く取り入れる。ひったくるように強く抱きすくめた君が叫びを上げる、その前に。
「私も逢いたかった! 好きじゃよ、ユキ。大好きじゃ。ずっと、ずっと、私は……っ」
「秋瀬、僕……」
どちらからともなく手を這わせ、互いの頬をまさぐる最中で。
「私は……! わかったんじゃよ、遠回りしてしまったけど、こういうのはやはり君じゃなきゃいけんのじゃ。時代は変わったって、この想いだけはもう変われない、変わりたくない! 君を愛しとるけぇ、雪之丞……!!」
垂れ下がった君の瞳がいっぱいに満ちると、己の喉からもどうしようもない嗚咽が溢れてくる。すまん、すまんのう、と。あまりに遅すぎる懺悔が後に続く。
「夏呼を傷付けてしまったんじゃよ。そして君の心も、こっぴどく。私は何もわかってなかった。君の言うとおりじゃったけぇ、こんな私など……私、など……」
――――っ。
再び強く引き寄せられた小さな身体は、もはや軋みを立てながらへし折れてしまいそうだ。君もそうだ。大きな身体を震わせ、喉を震わせ、ひしゃげた声色でかぶりまで振って。
「何言ってるの。どれだけ君のことばかり考えていたと思ってるの。嫌いになんて、なれる訳っ、ないでしょう……ッ!!」
思えばいつだってそうだった気がする。大きすぎる方と小さすぎる方。儚げな冷感と、迸る熱気。
本来なら交わることのない、冬と夏。相反する私たち。
君と交わし合う想いにはどうしたって痛みが伴った。大切なのに傷付けて、笑わせたいのに泣かせてばかりだった、お互いに。
それなのに、何故だろう。
駆け抜ける静電気に呻き、締め上げる痛みに悶えると知りながら、それでも私たちは近付くのだ。
月明かりを纏った天使の雫たちが舞う。背後の闇色と、深緑と、白い欠片に彩られた幻想的なユキへと夏南汰は唇を重ねる。
互いに濡れている為によく滑る。啄ばんで、啄ばんでも、すり抜けていくような切なさに、追い求める動きは意図せず加速してしまう。
互いに熱い吐息を漏らし、見つめ合う途中で夏南汰の方が濡れて艶めいた唇を開く。おのずとものにした上目遣いで。
「夏、なのに、ぶちさびいんじゃけ。のう、ユキ……」
薄く笑んで、震えて。一つ願いを口にする。
「抱いて、くれるか」
恐る恐るといった具合に背中を這う大きな手がやがて力を込めて締め付ける。恐る恐る、怯えたような目をしたユキが訊く。
「こう?」
「うん、そうじゃよ」
「……次は?」
一つ一つ。願っては聞いて、叶えてはまた訊く。
「キッス、かな。もう一度」
重なり合った君へもう一度。
「もっと」
息が切れるまで続けても、また。
「まだ、足りんよ……どうしよう、ユキ……もっと欲しいよ、もっと」
耐え切れないとばかりに頭を抱え込んだユキの舌が隙間を割る。奥からみなぎり全身へ迸る熱さに悶えながらもやめられはしない。
「好き……」
「大好き」
「ユキ」
「……秋瀬、愛してる」
夢に現れる君は私の恐れを通して“母”になったけれど。痛みは目覚めさせていったのだ。気付かなかったのは君の気持ち以上に己の気持ちであったのだと。
下る滝の如く私たちは地に倒れた。耳を、首筋を、弱々しくも熱い息遣いで撫でていくユキの下で、天を仰ぐ夏南汰は新たな暗雲の訪れを知る。
「ユキ、嵐が来るね。君も弱っとるんじゃろう?」
「うん……ごめん。君を助けたい、のに」
「このまま抱いていてくれるか」
頷いた君と指を絡ませ、強く握って覚悟した。
騒ぐ木々、舞い散る闇色の葉の間を縫うように幾つもの稲光が駆け抜ける。頂上近くのこんな場所に居る私たちも、いずれあれに貫かれてしまうかも知れない。欲を言うならそうなる前に、君の想いに深く貫かれたいのだが。
君も私も為す術もなく力尽きていくのがわかる。それでもいいと内なる微笑みを保った。けたたましい轟音、それから垂直に降りてくる光を迎えながら。
君と共に逝けるのなら。




