三. 愛及屋烏
舞い踊る天使たちが向かう先を変えているのに気が付いた。地から天へと舞い上がる遡りの雪。いつから転じていたのだろう。
上空と思しきところを追って手を伸ばす。遠い揺らぎを確かめた夏南汰は目を見張った。
あぁ……
理解した。これは遡りでもなければ雪でもない。ましてや空など在りはしない。
凍てつく暗黒の底へ
私が落ちているのだ。
君と私の絆を閉じ込めた栞を、括り付けた紐を、指に絡ませたまま。
「……戻らねぇな」
重く腫れ上がった瞼を開く頃、真っ先に届いたのはまだ記憶に新しい太い声色と黒の角刈り頭だ。
ベッドに寝そべったままの私を見下ろす険しい表情の主は紛れもなく。
「ヒナ兄」
その人なのだが。兄の背後に広がるのっぺりとした白い壁面といい、当たり前のように空間を占めている薬品の匂いといい、取り囲む全てがまるで合っていない。そう、これは本来ナツメが目にするはずのものなのだ。
「お前、まだ俺が陽南汰に見えるのか」
問いに対してこくりと頷くと、ヒナ兄はいよいよ参ったと言った風に額を押さえる。
「だよな。俺もお前が夏南汰に見える」
「どういう……ことじゃ?」
「夏南汰の波長がナツメの波長を覆い尽くしてるんだ。だから本来の幽体の形がナツメであってもそうは見えねぇ。おめぇも夏南汰の目で見ているから、俺らの前世の波長しか感じ取れねぇ……って、なんだこれ、言ってて意味がわかんなくなってくるな」
口調からしておそらく、ここに居るのはブランチなのだろう。だがまさに彼の言った通りだ。呆然と見上げる夏南汰には、やはりあの口煩い兄としか感じられない。
「多分だが、春日の波長と共鳴しているせいだろう」
「…………!」
そこで一つ思い立つ。目を大きく見開き身を乗り出す夏南汰に反して、陽南汰は訝しげな顔を奥に引く。まるで“しまった”とでも言った風に。
「ユキは」
「駄目だ」
「ユキにもこの姿が見えるということじゃろう!?」
「そんな刺激の強すぎることが出来るか! 発狂しちまうぞ、アイツ」
…………。
…………。
「おぼいだじでほしいんじゃよぉぉ! ユキぃぃ~~ッ!!(思い出してほしいんじゃよ! ユキ~~!!)」
「あぁぁぁ! 泣くなッ、うずろーしい!!」
くずくずと顔を濡らす私にヒナ兄らしい野太い喝が降り注ぐ。きっとナツメならこんなことはあるまい。わかってはいてもここまで夏南汰に支配されてしまってはもうどうしようもないといった具合だった。
――夏南汰、様。
そんなときだった。
また覚えのある声が一つ。両手でせわしなく滴りを拭った夏南汰は出処と思しき方へ向くなり小さく息を飲む。
「夏南汰様……っ!」
そう、それは紛れもなく。
「夏呼!!」
正確に言うならヤナギだ。だけど真っ直ぐこちらへ向かい来る彼女からもどうしようもなく溢れている。口調はほぼ今世のものを保っているブランチに対して彼女のそれはまた違う。
震える心は彼女を迎え入れるべく両手を大きく広げさせた。
波長が共鳴すると言うのなら、ここに共鳴が起こらないはずもない。
「夏呼、夏呼……っ、心配かけて、すまんのう」
「あぁ、夏南汰様。再びこのお姿に逢えるなんて……!」
いつまでもいつまでもそうしていられそうなくらい。いつかみたいに一つに溶け込みそうなくらい、共鳴する二つの魂は人目もはばからず寄り添い続けたのだ。
ヤナギが夏呼の生まれ変わりであることはすでに知っている。ナツメとして生まれ変わった私がこの研究所にやってきてほんの数週間後のある日だ。
――女性……でも……――
たどたどしい声が自分に向かっていると気が付いた。ほとんど口を利かぬ娘だと思っていた彼女が出処だと知り、驚いて見下ろしたのも束の間。
――好き……ナツメ――
たったそれだけだ。それだけで十分だった。後はただありがとうと言って抱き締めたくらい。それだけで、触れ合う二つの魂は“貴方”と“君”を感じ取ることが出来たのだ。
「しかし、実に驚いた」
泣きじゃくったままの夏呼が同じ班の者に付き添われ医務室を去った後、唯一私の傍に残ったヒナ兄を見上げて口を開いた。
「まさかヒナ兄が夏呼と面識があったとはな」
「あ、あぁ……、お前が居なくなった後、だが」
何故か落ち着きなく鼻の下をこすったりなんかしている兄の姿を不思議に思って首を傾げた。貫かれる一言が続くなど思いもせず。
「元、嫁……じゃけんのう」
…………
なっ……?
「なんじゃてーーーー!?」
もはや天井に頭を打ち付けるくらいの勢いで飛び上がったのも無理はない。いや、だって無理もないだろ!
「ヒナ兄っ、アンタ……っ、私の居ない間に夏呼を寝取っ、娶っていたのか!!」
「おい。今、聞き捨てならねぇ言い間違いしただろ」
「……っ、いや、言い間違いでもない! 私が出発する前に夏呼は恋人が出来たと言っていたんじゃぞ。よりによってヒナ兄なんかに横取りされるとは」
「なんかとはなんじゃ!! その頃には……そう、恋人とは既に別れとったけぇ、寝取るような真似など儂は断じてしとらん!!」
あぁ……
掴みかからんばかりに詰め寄っていた夏南汰はいよいよ自責の念に苛まれる。
覚えがあるのだ。まず一つは物質世界でナツメが見たあの舞台のポスター。
“原作:秋瀬夏呼”
秋瀬邸の夏呼という意味ではなかったのか。
そしてもう一つ蘇ったのは、これよりもっと遠い記憶だ。
――いけません――
――それが夏南汰様の悪い癖です――
きっとここだ。夏呼の覚悟はここから始まっていたのだ。形を成していく確信の渦は頭を抱える私に瞬きさえもを忘れさせる。
「私のせいじゃ。夏呼はきっと、私を忘れようとするあまりろくでもない男にひっかかって捨てられて、更にろくでもない兄に……」
「妄想もたいがいにせぇ! “元彼”がガタガタ抜かすな、ほんっま女々しいのう!!」
いや、女か、と思い出したように付け足すヒナ兄に対して夏南汰の喉からは、なっ! といった素っ頓狂な声が突き上がる。
それからすぐさま紡ぎ出す。
「何を言っとるんじゃ。私と夏呼は……」
それは弁解に他ならなかったのだが。
――そう、なんじゃろ?
息が詰まる。
「寝取られたと思ったのはお前じゃな」
「じゃけぇ、それは……」
抉るような鋭い視線。容赦の無い問いに奥深くまで貫かれる感覚。
そして何よりわからない。何故に今それを訊く? 何故にこうまで確信を持っているのだ、この兄は。
「そうじゃない、けど。そうなんじゃろ?」
――のう、夏南汰。
速度を緩めて抉られると、弱々しい呼吸はついに行き場を無くしてしまうのだ。




