一. 天上天下
この世界に生きる者は皆、ある共通した定めを持っている。
前世の記憶を得るのだ。多少の例外はあるのだが、大半は十五歳前後で思い出す。もちろんいきなりではない。徐々に、徐々に、受け入れられる速度で取り戻していく。
そう考えると私は例外に近いかも知れぬな。十六になるまで一片たりとも思い出せなかった。それをたったの一晩で、神無月の嵐にも劣らぬ勢いで得てしまったのだから。
そして何より例外だったのは。
「女……か」
あの頃よりも更に細く、小ぶりな両手を見下ろして、今更ながらに呟く。
触れてみると全体的に柔らかい。瘦せ型と言ってもしっかりと脂肪で覆われている女性特有の身体だ。膨らんだ胸に絞られた腰上。前世の顔でも違和感はなかったのだろうが。
「ほんま、どう接していいのか困ったわ。性別は魂に深く刻み込まれとる。転じて生まれ変わるなんて珍しいことじゃけ」
「そうじゃな」
肉体を必要とせず幽体のみで存在する我々にとっては常識とも言えることだった。私のこれは、そう滅多に起こりはしない稀少な現象なのだ。
春日雪之丞と過ごしたのも、磐座冬樹と出逢ったのも、肉体無しでは生きられない“物質世界”。
私は天界から肉体を借りて秋瀬ナツメを名乗ったのだ。今世の本名に“秋瀬”なんて付かないし、幽体のみの状態で物質世界に存在することは出来ない。
准教授と生徒。
それ以上に許されなかったのは、何よりも世界の隔たりだった。冬樹さんに知る術は無い。私だけが知っていたこと。
「のう、夏南汰」
満月がじんわりと滲む夜空の下、未だ木陰に腰を下ろして私を膝に抱えているブランチ……もとい、ヒナ兄は。
「いつも除け者にして、すまんかった」
鼻声でこんなことを言う。こんな優しい兄など、はっきり言って気持ち悪いのだが。
腕の中で少しだけ振り返ってみると、やはり下向き加減の角刈り頭が目に映る。歳の頃は二十代半ばくらいに見えるがこれでももっと上なのか? 何せ六つも上なのだからな。
秋瀬の実家を出て以来顔を合わせてはいなかったものの、確かに兄だとわかる面影がしかと残っている。
物質世界では超能力の類に入るのかも知れぬな。しかし我々にとっては珍しくもない。魂の奥から溢れ出る、時に変動して現在の姿さえ変えて見せる。我々はこれを“波長”と呼んでいる。
「一緒に居るうちに、これはいけんと思ったんじゃ。遠ざけねばならんと」
「何故じゃ?」
首を傾げて見上げると何故だか目を泳がせる。包む腕が熱を帯びていく。どうした、ヒナ兄。
「おめぇ、どんどん母親に似てきて……」
「ヒナ兄?」
「綺麗に……」
…………。
「?」
「……っ! なんでもねぇよ、見るなッ!!」
やたら大音量で言い放つと何処ぞへ顔をそむけてしまう。ぽかんと見入っていた夏南汰の眉間に皺が走る。
(勝手に話しておいて見るなとは、実に腑に落ちぬ)
「まぁしかし、なんだ、そういう感情はとっくに吹っ切っとる。安心せぇ」
(何の話をしているのだ、この男は)
この理不尽と不可解さ。やっぱりヒナ兄だ、と。内心で毒付いていた。
そうは言ってもこの有り様だ。私は未だ、懐かしい兄の匂いに身を預けている。こんなの、なんだか、認めたくはないが。
「もう独りじゃねぇぞ」
もはや気持ち悪いを通り越しておぞましい優しさのヒナ兄が促す。
「眠ってええから。こんな干からびた状態じゃあ思考もろくに回りはせんじゃろ。落ち着いてまた考えよう。一緒にじゃ」
確実に力を失いつつあるこの指先を大きく包み込んで。
「楽にしんさい」
そうして私は落ちていったのだ。安らかな微睡みの中へ。
遠い遠い、過去へ。
彼方へ。




