其ノ肆~日陰の願いと日向の想い~
二十四の歳を迎えたあの方が遥か遠くの地へ旅立ってから移り変わること二ヶ月。
晴天と潮風が戯れる初夏から、湿った緑が一層鮮やかな青梅雨へと運ぶ中で、主の居ない屋敷を守る私の元へ幾つかの文が届きました。
“夏呼へ”から始まる愛しき書体は、私を遠くへ、貴方様の元へと誘ってくれました。訳あってお見送りも出来なかった私に、こうして変わらず語りかけて下さるのです。なんとありがたいこと。
『今日は宿ではなく再会した現地の友人の家に泊まっている。箸も匙も無いところさ。夏呼の小さな手の器では一体どれ程の時間を要するだろうね。神聖と呼ばれるこの方式の理由がわかってきたよ。命を繋ぐ指先の食物から確かな体温が伝わってくるんだ。こうして生命は連鎖しているのだと。現在もなお守られている尊い文化さ。彼らは知っているのだよ』
『だいぶ遠くまで足を伸ばしたよ。そちらは梅雨時ではないか。踏み締めれば膝まで埋まる冷たい道中を我々はやっと乗り切ってきたところだ。迅さんなんて鼻を真っ赤に染めてるものだから、一面の雪景色と相俟ってかのサンタクロースみたいさ。命さんと私の髪も触ったらカチンコチンで、揃いも揃って慌ててしまった。強く掴んだりなんかしたら粉々になって共に頭を丸めてしまうぞ、なんて言ってね』
細めたこの目で辿っていくと、ふふ、と小さな笑みまで溢れてしまいました。これ程遠く離れているのです。当然とわかってはいても、もたらされる景色は目まぐるしい程に入れ替わり、移り変わり、よく知る春夏秋冬の並びがいとも容易く転じるのです。
時と世界を行ったり来たり。まるで無邪気に時空を飛び越え、戯れているような貴方は、それでも確かに
――夏呼へ。
目的へと歩を進めていらっしゃいました。
『今日は人里離れた小さな村へやって来たよ。ある夫婦が我々を快く家へと迎え入れてくれた。二人の名はジョンとロナルド。心も身体も共に男性だけど互いを深く想い合っているんだ。他にも居る。心と身体の性が異なる者。同じ性を愛する者。どちらであろうが関係ないと言う者。この集落にはそんな人々が集まっている。いつか最愛の者同士、手を繋いで大市場を歩いてみたいと、夜空を見上げるロナルドが呟いていたよ』
「夏南汰様……」
やがて駆け抜ける春夏秋冬が制止しました。辿る私の指先と共に。
『ユキは』
改行したその始まりに、その名の始まりに、不自然な歪みが、ためらいが見えたのです。
『元気にしているか。二人とも。身体を壊してはいないか。よもや結核になどかかってはいないだろうね」
私なら大丈夫です。そしてあの方も。そう伝えるくらいしか出来ませんでした。
事実を申し上げますと、確信など己のものくらいでした。文が届けばそれを包み直してあの方に送っておりました。やや遅れがちにお返事を下さるのです。
『夏呼さん、いつもありがとう』
そう締め括られたか細い文字と、夏南汰様の大きな文字の文が寄り添った状態で納められ、私の元に戻ります。
そう。実際のところ、あの方と顔を合わせてはいないのです。
「……意気地なし」
一人きりの私はついに溢してしまいました。
距離の問題ではないでしょう。絶えず移動を続けている夏南汰様にお届けすることは出来なくても、貴方はここで待てば良いでしょう。
届いたその瞬間に、最愛の人の香りに逢いに来れば宜しいでしょう。
状況もわかりはしないのに、そんな身勝手を思っては強く拳を握ったものです。
しかしついに訪れました。いえ、訪れてしまった。
「夏呼さん……!」
雪肌どころかまるで実りたての青梅みたいに、硬く。息を切らし、咳を交えて、駆け付けたあの方も
「春日……様……っ」
「夏呼さん、しっかりして」
お腹を抱えおぼつかない足取りで出迎えた私も、こんな形での再会など、望んではいなかったはずです。
七の月を迎えたばかりでした。屋敷に届いた文は、これまでとは全く異なるもの。電報だったのでございます。
アキセイッコウ
タイセイヨウニテ
ショウソクタツ
「どうしてこんなことに……」
机の上で痩せ細った手を組んでおられました。何時間も、いつまでも、乾いたうわの空を続けていた春日様に、私は。
「やっぱり止めるべきだった。僕のせいだ。僕が目的を見失ったせいで……」
「春日様」
「守ることが最優先だったのに。こんなことになるくらいなら、僕なんて、嫌われれば良かったんだ……!」
同じようにうつむいて雫を落とし続けるだけの私に、一体何が出来たと言うのでしょう。
両の目も赤いまますぐさま関係者に確認を取ると、消息を絶ったのはすでに一ヶ月程前とのこと。次の訪問先を伝える連絡に誤りがあった為に、事態を知るのが遅れたそうです。
旅先からの文も然り。海を越えて来るが故にだいぶ遅れて届きます。私が最後の文を受け取る頃、最愛のあのお方はもう、この由々しき事態に巻き込まれていた……なんという、ことでしょう。
新たな訪れがあったのは同じ月のことです。
天の恋人の再会も、また一つ大人になった私自身も、とても祝う気になどなれなかった。七日から二日後の朝は呼び鈴によって我に返りました。
動く気力さえ失くした春日様も共にいらっしゃった。その日が再会となったのです。
「お前が家政婦の夏呼か」
「貴方様は?」
角刈りの頭が実に馴染んでいらっしゃる、逆三角形の大きな身体が玄関にそびえ立っておりました。逆光と高さで表情も伺えはしませんでしたが……
「春日診療所の息子か」
「えっ……」
遅れて着いて来た春日様を捉えたときばかりは、高い位置にあるその目がどんな形を成したか、わかった気がしたのです。
「まずは礼を言う。弟がいつも世話になっていたようだからな」
呆気に取られている私たちにその方は名乗りました。深く深く、こうべを垂れて。
「秋瀬陽南汰じゃ」
いつか話には聞いておりましたが、お目にかかるのは初めてでした。納得がいきました。似ても似つかない兄弟、まさしく……と。
「夏南汰を連れて帰ってきた。勝手な弟ですまねぇが、迎えてくれるか?」
…………!!
続いたその言葉に、私たちはきっと、揃って息を飲みました。そして再び動き出すまで相当な時間を要したのです。
「ほら、夏南汰」
太い声色に細かな振動を感じました。
おずおずと伸びていった、春日様の指先が震えておりました。
夏なのに。全てが真冬みたく、凍えているような、時間。
「夏南汰、様」
ぽつりと落としたのは粉雪の一欠片の如く、小さな呟きだけ。
彼方に遠のいてなお、ずっとずっと想い続けた愛しい人は相変わらずの美しさでございました。呼吸も忘れるくらいの透き通る白さが儚くて、哀しくて、私は魅入っていたのです。
やがて無我夢中で抱き締めたあの方が
――夏南汰……ぁ……ッ!!――
初めてその響きを口にするまでの過程に魅入っていたのです。
いえ。本当は、やっと明るみに出たというだけで、初めてなどではなかったのでしょう。
昭和六年七月九日
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「まさかあんな形で再会するとは思いませんでした」
橙の明るみの中に異なる色合いが混じり出したのに気付いていました。一方、未だ神妙な面持ちでいらっしゃるこの方は。
「ああ、まさか女になってるなんてな」
向いてねぇだろ、あいつには、と。苦笑を溢すブランチさんは、どうやら気付いていないご様子です。
これはブランチさんが訪ねて来たあの夜の続きではございません。この場に限って状況は似ておりますが。
相反する季節の名を持つお二人が天の恋人にも劣らぬ情熱的な契りを交わした日から、もうすでに二週間とちょっと。八の月も間近でございます。
さすがの私も耳を疑いました。
『春日雪之丞』
そう名乗る殿方がこの世界に現れたと言うのです。しかもかつての夏南汰様、現在で言うところのナツメは、間違いなく彼だと言い切っている。
これはまさに異例の事態。決して喜ばしいとも言えない奇跡としか思えません。
更にかつての陽南汰様、現在で言うところのブランチさんは。
「冷てぇのかな、俺は」
春日様を恨んでいらっしゃいます。
なんとか寸前のところで抑えて、まずは泣きながら出て行ったナツメを追いかけたと。お互いに兄弟の波長に戻って、最後の一雫を流し切るまで寄り添い続けたと仰っていました。ナツメは夏南汰様の波長のまま、気を失うように眠りへと落ちていったそうです。
カーテンの隙間から生まれたての光が射し込んで来ました。ここでようやく気付いたブランチさんが慌て出します。
「わりぃ! こんな時間まで付き合わせちまって。ヤナギ、お前今日休みだっけ?」
「はい、ご心配なく」
「良かった……俺はもうずらかるから、しっかり休めよ。デカくなれるようにな」
「……子ども扱いしないで下さい」
私が憮然として返すといつものブランチさんらしいニヒルな笑顔がこちらを向きます。
「ばーか。事実、今は十四のガキじゃねぇか」
だけどなんだか哀しく映ります。
無理もないでしょう。彼をこんな表情にさせるだけの事件が、あの再会の後に起こってしまったのですから。
★おまけ★
決して変わりはしないと誓った人生さえ一変させてしまう程、焦がれる存在に出逢ったなら……
そのとき願うのはなんでしょう。
求めるのはなんでしょう。
その存在こそが全てだと思えとき。
恋が愛へ移り変わったなら……
守りたいのは“貴方”の“何”でしょうか。
夏南汰と夏呼、二人の間には主人と家政婦の枠を超えた関係があったのは確かです。微妙にすれ違っていた節はありますが、お互いを大切に思う気持ちは本物だった様子。
そして実はもう一つ、まだ明るみになっていない事実が存在しているのです。次の夏呼視点の番外編でははっきりとして参ります。
今回ももう一本参ります。
★おまけ漫画★
『夏の再来は木の葉と共に』
魂に刻まれた絆は深く、それゆえにヤナギの中の夏呼はすぐに反応を示したようです。
焦がれる程の輝きは、そう簡単に振り払えはしないのでしょう。




