7. 秋蜩
稀少生物研究所。
ここに着く頃にはいくらか薄れている気がした。あの痛みも、痺れも、甘い疼きも、覚えているのに遠く彼方へ戻っていくよう。
事実そうだ。こちらへ渡り、またあちらへ戻る。そうすれば肉体は再生して新しくなる。膝のあおじだって、そうすれば癒えると本当は知っていた。だけど。
――まだ、あし、治って、な……――
今思えば七月七日の夜にも似ている彼の声。途切れ途切れの切ない息遣いが鮮明に蘇るなり、ナツメはぶり返した胸のつかえを握って小さく呻く。このときだってすでに遅かった気がしてならない。このときには、すでに……
――ナツメ……――
――ナツ、メ……ッ……――
あの声色がこんな風に形を変える日を。祈りの如く繰り返し、繰り返し、呼び続けては、冷感の雪肌と熱い吐息で満たしてくれる日を待ちわびていたのではなかろうか。
だから私は、簡単に治せるはずの傷も治さず彼の気を引こうとした。研究で忙しいからなんて自分を誤魔化してきたけれど、今はそうとしか思えない。おのずと重苦しいため息が零れる。
(女って、こんなにずるい生き物だったのか……)
そう思いかけたのだけど
(いや……違う。性別のせいにしてはならぬ)
すぐにまた思い直す。
今考えれば昔の自分だって、相当思わせぶりな態度をとっていた。無意識にあざとかった。女だからとかそういう問題ではない。単に私が臆病で、ストレートと見せかけた実質回りくどいやり方しか出来ないだけではないか。
悔しいけれど、案外昔と変わっていないんだ、私は……。
一度大きめにかぶりを振ったナツメは、眼鏡の位置を正してデスクに向かい合う。
本来の私の居場所はここであり、本来の私も、実は学生ではない。身分を偽り、あの大学に溶け込んでいるのだ。
また、大学で得たものは実体としてこちらに持ち帰ることが出来ない。ゆえに、実験から報告書作成に至るまでを記憶のみで再現せねばならない、この作業はなかなか骨が折れる。
気を引き締めなければ。個人的かつ身勝手な感傷になど浸っている場合ではないだろうと仕切り直し、報告書へとペンを走らせた……つもりだった。
「ナツメ、会いたかった」
開け放つ音から距離を詰める足取りに至るまで、慎ましやか彼女へも変わらぬ笑みで振り返ったつもり、だったのだが。
「ナツメ、顔色、悪い。私、心配」
ほとんど変わらぬ表情から放たれる声色には確かに案ずる気配が感じられた。参ったな、と思わず苦笑した。
どの角度からだっておのずと見下ろす形になる。百四十五センチ程のこの小さな彼女の名はヤナギという。
歳の頃は十四歳。腰まで届くキャラメルブラウンのウェーブヘアに、陶器の如く滑らかな白い肌。琥珀色の双眼は色こそブランチと同じであるが、円らな形状のせいかあるいは実年齢より遥かに幼い顔立ちのせいか、与える印象はまるで異なるものに感じられる。
最近ヤナギが配属となった『植物管理班』は、妖精族の血を引く彼女にはまさに妥当と言える場所だ。事実、植物たちの声を聞き取っては報告してくれる彼女の働きに私は何度となく助けられている。
「少し、休んで、ナツメ。引き継ぎ、私、しておく」
口調はいつだってこんなである。接続詞を極限まで取っ払ったような言い方は、慣れているからこそ会話として成り立つものと言える。いや、実際は意思疎通に苦戦している者だって未だ数多く居るはずだ。
見た目は幼いのに何処か年齢不詳な雰囲気の根本は、昔からさほど変わっていないように思える。知っている私だからこそ、彼女の言葉の意図するところがわかるのかも知れない、な。
控えめながらも頑固なヤナギは、口煩く言わない代わりに、じっと黙してその場を動こうとはしなかった。放っておけばいつまでだってそうしている。もはや観念せざるを得ないと早々に理解したナツメは、外した眼鏡をそっとケースに納めて研究室を後にした。
ちなみにこの『稀少生物研究所』は数ある研究機関の中でもトップクラスの規模を誇る場所だ。
概要は読んで字の如く、絶滅危惧種を始めとする稀少な動植物の生態系研究。必要に応じて保護、観察などの対応をとり、彼らの野生への帰還、共存を目指すのが目的である。
元々のルーツが孤児院であったことからなのか『児童教育班』なるものまで存在しており、片手で数える程の年齢からこの場に属している者も少なくないと聞く。ヤナギも五つの頃から属しているそうだ。
そう言えばあの男も……まさに思い浮かべていたその姿が廊下の曲がり角のところで大になって現れた。おのずと小さく飛び上がってしまった後は、見下ろす鋭い眼光に動きを封じられてしまう。
「何かあっただろ、お前」
「ブランチ……」
そして早々に見破られてしまう。この稀少生物研究所において生物研究班副班長に任命されてからわずか一年程度の私はすでに確信しているのだ。この男には何か敵わないものを感じる、などと。
しぶしぶ歩む方向を変える私の耳に秋蜩の鳴き声が届いた。懐かしくて優しくて、だけどやはり切なさが勝る音色。後ろめたさを抱える今の私には、尚更胸に響くよ。




