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5. 短夜



 白みがかった空が慣れない部屋を隅々まで照らすと、やっと、少しばかりリアルと思しき感覚を取り戻していく。怒涛の回想から目覚めていく。



 主張しているのは危うげなくらいにぎっしりと詰め込まれた本棚くらいのもので、あとは本当に必要最低限なのだと、細く冷たい枕の上で見渡している現在になって知った。

 

 よく聞く“男の部屋”らしい匂いもそれ程しない。反対に顔を傾ければ無防備な腋からほんのり感じられる程度のものだ。もちろん不快ではない。それどころか。


「やだ、嗅がないでよっ」


 頰を赤らめてあたふたしている。眼鏡を始めとする一切の装備を取っ払った無防備な表情に思わず吹き出したナツメは、そっと耳元へ。


「三度目をねだった人とは思えませんね」


「…………っ!!」


 囁いて更に惑わせてみる悪戯いたずらを懐かしく感じる二人っきりの朝。白と赤のコントラストが苺大福みたいなその人を、笑いを堪えて眺めている、今。


「ごめん……ナツメがあんまり可愛いから」


 甘い疼きを覚えているこの時。これはきっと白夜だ。夜が短い季節と知りながらも、今はそう思いたかった。




 人間はこの地上において進化の最先端と呼ばれるがゆえ、頑なに理性を守り、計画を要して生きるもの。ましてや大人。後先考えないなどあってはならぬと己に言い聞かせてきたはずなのだが。



「大丈夫です。誰も居ませんよ」


「わ、わかった。じゃあ先に向かってて」


 マンションの扉の隙間から隈なく辺りを見渡してから、やっと動き出す。何と滑稽なことか。ほんの数ヶ月前の私が知ったらきっと腰を抜かすに違いない。



 明け方こそ涼しかったものの今朝はなかなかよく晴れている。冷たい昨日の名残りをほんの少し残した程度の夏らしい陽気が功を奏した。


 一人暮らしの男の部屋に女の衣類などあるはずもなく、やれどうしたものかと頭を悩ませていたのだが、幸いなことに昨日は薄手のジャケットにシャツ、インナーにキャミソールという装いだった。人間の脳とは複雑なようで案外単純だ。更に普段からさほど変わらない服装。つまりはシャツだけ外して上を羽織り、暑いからこれで来たと全身で言い張ればいいのだ、などという結論に達した。


(そもそも殆ど白衣なのだからな、問題あるまい)



 そう、誰もそこまで見てはいない。あれこれ取り繕うより、こちらの方がよほど怪しくないとの判断の元。



「わっ! ちょっと、なんで待ってるの。先に行っててて、って、て!」


 “て”が幾つか多いようだが? 全身で怪しさを示している彼にナツメは上向きの人差し指付きでもっともらしく説明して見せる。



「いいですか? 先生。私の歩幅ではどう頑張ったって貴方に追い付かれます。貴方は何メートルも後ろを歩くことになる。遅刻しますよ? それともなんですか、見える位置に居ながらわざわざ声をかけない、と? そんなの余計に不自然です」


「なるほど……って、いやいや! 駄目でしょ! だったらタクシー呼ぶよ。いや、待って。僕が先に歩けば解決……」



「こうしている時間が無駄です」



 有無を言わせずさらりと身を翻した。こんなにも早く絡繰からくりに気付かれるなど、私は良しとしない。





 大学に着いてからも特にどうということはなかった。一人大きく手を振ってくる姿を捉えたときは、ほんのわずかに高鳴りこそしたが。


「おはよう、ナツメちゃん! あっ、ユキちゃん先生も一緒だ」


「圭吾くんか、おはよう。今さっきそこで会ったものだからな」



「そ、そう! さっき! そこで会ったんだよね、秋瀬っ!」



 貴方は黙っててくれないか。



 わかりやす過ぎる彼が何とも心配なところだが、わざわざ一緒に登校する朝帰りなど普通は居るまい。私が堂々としていればいいのだ。


「ふ〜ん」


 ほら。圭吾くんだって特に興味はなさそうだ。




 予定も予想も滞りなく進んだ。すべきことだって特に変わりはしないと、研究に勤しむいつものような放課後は、まだちょっと……痛いけれど。



「ナツ……秋瀬」



 危ういけれど。



 いつもの研究室でいつものように試験管に視線を落としていた。ゆっくりと閉じていく戸の鳴き声を聞いていた。


「その、髪……」


 言われてやっと思い出した。眼鏡の奥の目をまぁるく見開いて佇んでいる彼に、ナツメは薄く汗ばんだ顔で微笑む。


「あまり暑かったので」


 そしたらどうだろうか。照れるといったふうともまた違う、何か囚われてしまっている様子の彼は。



「凄く……似合う」



 何処か哀しげな響きに奥がドク、と鳴った。もしかして……


「ただ一つに結んだだけなのに?」


 君は気付いたのか? そんなはずはないと知りつつも淡い期待をいだいて歩み寄る。



「ナツ、メ……」



――――っ。



 素早く重ねると電流が走ったみたいに小さく震える君に教えてやりたい。昨夜の私は、それ以上の衝撃に身悶えたこと。



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