1. 朝凪
七月八日の朝は、ここ数日のものとは反して慈しむ冷感を確かに感じられる薄青色の始まりだった。再び離れねばならない。年に一度、許されるときが来るまで。天の恋人同士がそんな風に名残惜しんだであろう夜明けだ。
薄く窓を開いてみると、ちょうど凪が訪れた頃だった。じきに変わる風向きは一体どちらを示すやら。ほんの数日前もこの気配を肌で感じてただ一人、怯えたことを思い出す。動き出さないで。おのずとそんなことを願ったりしたのだが。
全てはもう遅い。引き返すならあのときだったのか? いや、それだって、もう。
う……と小さく唸る声にナツメははっとなって振り返る。寒かったか。なるべく音が響かぬよう、起こさぬよう、閉ざしたところではっきりと鼻腔を突き抜け伝わった。
まだ記憶に新しい香り。全身に受けた、彼の……
――ナツメ。
(あぁぁぁぁ……っ!!)
囁きから痛みに至るまでが鮮明に蘇ると、もはや立っていることにも耐えきれず膝を抱えてしゃがみ込んでしまう。とんでもないことをしてしまった。目を伏せようにも逃れられない現実の中に、私は今、確かに、居る。
“酔った勢いで”
成人する少し前からこんなのを何度か耳にした。何と便利で無責任な言葉だろうと思った。
しかし残念ながらというのか、私にはこの無責任さえ通用しない。酔っていたと言えばそうなのかも知れないが、酒など飲んだ覚えもない。
無責任ワード第二弾“記憶がない”
これも当てはまらない。辿り着いたここでドアを閉ざした後はもう何が何だかと言った具合だったが、はっきりしないのはそこくらいのものだ。そんな滅茶苦茶になるまでの経緯だって、交わし合った言葉だって、私はしかと覚えているのだ。
約一ヶ月前だ。藁をもすがる思いで研究所に引き返したあの日、ブランチとこんな会話をした。
「恋をしたって、お前もしかしてやっちまったのか?」
「何をだ」
「いや、何をって決まってんだろ」
いかついながらもやたらと輝く目をして覗き込んできた彼をしばらく見ていた。恋をした者同士がするようなことをあれこれ想像しているうちにピンときた。ちょっぴり頰を染めて。
「キッスか」
「お前可愛いな!!」
速攻で突っ込まれた私だ。更に。
「一線は越えてねぇだろうなって話なんだが……」
言いづらそうに切り出されるとじわじわと熱が込み上げて。
「する訳がなかろう! そ、そんな、破廉恥な……!!」
「それはわかるんだな」
あり得ない。何がどうなったってそんなこと。確かこれくらいまで断言した私だ。
なのに実際はどうだろうか。だいぶ住み慣れたあのアパートではなく私は未だここで動けずにいる。安らかな寝息が溢れる先、肩を覗かせて横たわる彼の後ろ姿を見つめて唇を噛み締めている。
また近々研究所に戻る予定があった。ブランチには嫌でも出くわしてしまうだろう。そのとき私は何と言う気なのか。
「凄いな、君。もしかして預言者?」
とでも言う気、なのか……っ!?
己ではどうしようもないくらいに高まっていくたまらぬ羞恥心に、もう、呼吸すらままならない。それでも目を奪われてしまう。大きなシャツ一枚を羽織ったナツメはやがて引き寄せられるように歩んでいく。
(雪……みたい)
細くて薄い、真っ白な肩。歳の割に瑞々しい質感の肌は触れると冷たいのだともう知っている。包まれたなら冬を錯覚してしまうくらい、痺れて、悶えて、頭の中まで雪景色になってしまうことも。
まさに中毒性だ。許されるならばいつまでもそうしていたかった。許される、なら。
そっと隣に腰を下ろす。虚ろに見下ろしながらナツメは想いを馳せていく。
こんな儚げな身体で君は、幾つもの苦痛に耐えてきたのか? 終わりの見えない、孤独に……
再び身をよじる気配を感じた。だけどその頃にはすでに遅くて。
「ナツメ」
「あ……っ」
一瞬のうちに引き寄せられたが最後、火照った身体はなす術もなく無防備な冷感の中へと堕ちていく。それはまるで本来交わることのない相反する季節。荒波と吹雪の乱舞。夏と冬。
逃れる術を探しても探しても見失う。はっきりと覚えている七月七日の夜。今より更に激しく、真夏の静電気に打ち震えた私は知ってしまったのだ。
これは出逢いなどではなかったのだと。




