四. 水魚之交
先日の旅で仕入れた振り子時計はこの屋敷にとって新しい存在でこそあれ、重く厳かに刻む音を響かせる。さすが長い歴史を誇る骨董品店で眠っていただけのことはあると言えよう。
また一つ進んだ針を横目で確かめる夏南汰はそろそろ頃合いであろうと察する。修道女、それは即ち生涯神に仕えると誓った身。次に投げかけられる問いを想像するのは容易だ。
「そんな彼女が何故ここに?」
そうだな、ユキ。きっと君でなくたってそう思うことだろう。
「結論から言ってしまうと私も未だにわからないのだ」
「わからない、って……」
こんなことしか言えなくてすまないな。だけどこれが事実だ。あの日、礼拝堂に佇む儚げな天使に私は強く惹かれた。きっかけは本当に、そんなもので。
会話だって大して交わしてはいない。名前は? とか、いくつ? とか、始めだってそれくらいしか訊いた覚えがないくらいだ。ただ隣り合って瞼を閉じているだけで心地良く、静子、十五歳、と返してくれる消え入りそうに細い声を愛おしく思った。
それから度々教会へ足を運ぶようになると、彼女と居合わせる頻度も増えた。いや、彼女が必ずそこに居てくれるようになったのだ。
「つまり、彼女に恋を?」
脳内に降りしきるかつての粉雪。そこへ混じり込んだ問いかけに夏南汰はやっと顔を上げる。何故だか心細げな表情をしているユキを見て驚いた。
「そんな風に思ったのか、ユキは」
「いや、普通はそう思うでしょ」
こちら以上に驚いた様子の彼にまた目を見張る。だけどしばらく口を噤んで考えてみると一つの答えに辿り着いた。
「その解釈を“普通”とするならば、私はきっと普通ではないのだな」
はっ、と息を飲むユキに夏南汰は微笑んで返す。構わない、と。
「似ていると思ったのだ。夏呼……かつての静子は孤児でね、あの日本人離れした容姿のせいで随分と虐められたそうだ。育ちの孤児院が運営する教会で修道女となった。それだって、限界まで追い詰められた彼女を守る為の策だった、と」
「秋瀬、だけど君は……!」
一度、ためらうように口を噤んだ。君は、って二回くらい言ってはやめてを繰り返したユキを静かに見守っていた。
「その、これは決して彼女を見下すような意味ではない。そんな風には受け取らないでほしい。だけど君は」
うん、ユキ。今ので四回目だ。
「君は彼女とは違う。その……いろいろあったことは知っているけれど、君は虐められてなんかいなかっただろう? 外では楽しくやっていたではないか。綱島や高泉や……みんなと一緒に!」
五回、六回……うむ、さすがにわからなくなってきたな。それはともかく。
もう次に言うことも浮かばないのか、上がった息を整えるばかりのユキにやがて告げた。おのずと目をそらしてしまった。
「居場所が無かったという点では実によく似ていると思う」
「…………っ」
「だから寄り添えば、互いが互いの居場所になれるって、そう思ってのう」
「秋瀬……」
細く呼ぶ。ユキのそんな声色を聞いているといつかの感覚が蘇りそうで、怖くて、固く瞼を伏せた。少なくとも今日はもう胸の内に留めておこうと決めた。
この先は。
共に暮らそう。居場所になろう。決意を固めてからの歩みも簡単ではなかった。静子を引き取らせてほしいと頭を下げたその相手が他でもない、彼女を守ってきた院長だったのだから尚更だ。
源氏の君の真似事ですか? 氷柱のように貫く冷たい目をしてそんなことを言われた。しかし彼女もついに観念を余儀なくされる。うつむきながらも強く、私のコートの裾を掴んだ静子の小さな手を見下ろして。
初めて屋敷にやってきた彼女は酷く思いつめているようだった。多くは語らなかった。そんな必要は無いと、ただ温め合えればいいと、それだけの為に同じ毛布に包まって迎えた春先の、朝。
悪くなどない。君はただ自分の道を自分で選んだだけだ。肩を抱いて伝えてやっている途中で私は再び出逢った。うつむき陰った顔には柔らかな髪が、頰さえよく見えないくらいしっかりと被っている。そんな状態でよくぞここまで光を集められるものだ、と驚いて。
明るい季節の輝きを自らの瞳に呼び寄せる……可能性。
「夏呼」
先に浮かんだのは綴りの方だ。子どもの“子”ではない。呼び寄せ招く方の“呼”だと伝えてやると、強く、確かに、頷くのが見えた。
訪れた眩い朝日に照らされると尚更、やはりと思った。心を閉ざし続けた彼女が初めて笑った瞬間だった。




