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三. 先見之明



 一日は短く、一生は長い。いつかそんな言葉を聞いたことがある。少年だった私には今ひとつ合点がいかなかったのを覚えている。


 そして二十三歳を迎えた今。私はますます合点がいかない。今日という日は、いや、今というこの時間はきっと、途方もなく、長い!



「ここへ来る途中で聞いたんだ。あの屋敷にはまだ少年と思しきあるじが、その……人形のように愛らしい女給と二人で暮らしていると。まさかとは思ったけど……」


 ここへ来る途中? と、いうことは道に迷ったのか、ユキ。


「本当だったのか、秋瀬。一体何故」


「だから女給じゃない、メイドだ。そして私も少年ではないっ!!」


「そういう問題じゃないだろう! 僕が言っているのはね……!」



 久しぶりに目にする親友が赤ら顔の次に見せたのは父親の如く厳格な表情だった。屋敷の内装を西洋風。うむ、私の判断はやはり間違っていなかった。これが和室だったなら間違いなく正座させられていただろうから、な。



「しかもこんな小さな子に」


 おそらく悪気は無かったのだろうが、ユキ、それは禁句だ。隣の彼女の円らな目が鋭く形を変えたであろうことなど見なくたってわかる。


「お言葉ですが春日様、私はもう十六歳です。今年で十七になります。」


「あ、ごめん、そのっ」


 ほれみろ。夏呼はこれでなかなか頑固なのだ。今更取り繕おうったってもう遅いぞ。


「もうとっくにお嫁に行ける歳なのですよ」


「…………!」


 あんなに平和主義だったのに迂闊だな。君の方こそ一体どうした?



 黙って耳を傾けているのにもいい加減疲れた夏南汰は、ごく自然にティーカップへ手を伸ばし、冷めた中身をしれっと流し込む様子を向かいに見せ付けてやる。ふてくされていた。だけど。


「秋瀬……本当に、君って男は……」


 重いため息をこぼし、おそらくは膝の上に置いた中折れの帽子を眺めている。虚ろな目をしたユキを見ているうちに何だか寂しくなってきた。



「夏呼、少し席を外してもらえるか?」


「夏南汰様……」


「大丈夫だ。それ程時間はかかるまい」



 きゅっと薄い眉を寄せる儚げな夏呼の表情に胸が締まる。こんな手段はとりたくなかったのだがな。



 夏呼が退室した正午前の部屋にはユキと私の二人きり。まるで後押しするかの如く窓際から届いたうぐいすの鳴き声の後、夏南汰はやっと口を開いた。



「ユキ、甘えたことを言う。君ならわかってくれるって、私はそう思っていた」


「秋瀬、ごめん。僕は……」


「全部話すよ」



 太さこそ違えど先程の夏呼と同じように眉を中央へ寄せる仕草。そんな顔をしないでほしい。君はきっと今でも自分を責めてしまいがちなのだろうとすぐに察した。だからこそ私は改めて、全て聞いてほしいと、君には知っていてほしいと、心から望んだのだ。




 実家を離れて半年後、半ば強引に別荘の屋敷を任された私は、大学へ通う傍ら新聞配達と印刷会社の掛け持ちで学費を稼いだ。始めこそ頼らざるを得なかった仕送りもやがて断るようになった。


 二年生になる頃、短期留学の話を受けると私は迷わず船に乗った。そこで新たな世界を目にしたのだ。青年実業家。こんな素晴らしい言葉があるのかと本来の学業以上の収穫を得た私は、帰国するなり早速試してみたのだ。一か八かの賭けではあったが。



「女性が航空操縦士の資格を取るような時代だ。我が国にだって居る。樹さんはお嫁に行くより写真家の道を進むそうだよ。一つの時代が終わったって文明開化の可能性、その芽は、そこかしこで息づいているんだ」



 印刷会社で目にした多数の記事、それから留学で得た幅広い知識を生かして私はまだ誰も見たことのないと思しき記事を作って配り歩いた。最初こそ見向きもされなかったそれが町の評判になる頃、二度目の留学で経験した数々を“冒険”などと称して書籍にした。



「それが、冒険家・秋瀬夏南汰の誕生……」


 呆然とした顔のユキが呟くと夏南汰はもう十分に取り戻した笑みで力強く頷く。簡単な道のりではなかった。だけど勢いなら誰にも引けを取らなかった、という自信もまた取り戻して。


「ついに船を手にすることが出来た。一つの山場を越えた達成感は素晴らしく、実に感慨深かった。だから、だったのかのう」



 船の契約を終えた帰り道、意気揚々とした足取りとは反して何やら吹き抜ける冷たさを内側に感じた。それは去年の冬。白い空のもと、ふと足を止めた夏南汰は降り始めの粉雪の中に一つの厳かな佇まいを見た。


(そうだ。こんなときこそ祈りを捧げよう)


 そして、おのずと進路を変えた足取りはついに思いがけない出逢いをもたらしたのだ。



「カトリック教会の修道女。その頃の名は“静子しずこ”といった」



 セピアと金の静寂の中に佇んでいた彼女にその名は相応しかったように思える。美しい。だけどそれ以上に貫かれる衝撃の方が凄まじかった。


(これが……天使、か)


 それは純粋な冷感、とでも言おうか。あどけない顔のつくりが織り成す大人びた表情。私はそんな彼女の中に確かな光を見たのだ。



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