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二. 純真可憐



 今日は忙しくなりそうだ。逸る気持ちは東の空の明るみよりも早く、それでいて自然に私を目覚めへと誘った。傍らで丸まっている彼女を気遣って抜け出すつもりでいたのだが。


「ん……夏南汰、さま?」


 この敏感さにはやはり敵わない。まだ良いよと、小さく隆起しかけた肩を押し戻すも、いじらしく抗いこちらへすり寄ってくる。やれやれ。そんなふうに苦笑するのだが、結局私も素直な思いを告げてしまうのだ。


「夏呼、今日は忙しくなる」


 カーテンの隙間から射し込む朝日に伴いこの頰も色付いていく。忙しい。そう口にするときの私は実に満たされた顔をしているのだと、いつか彼女が教えてくれた。



 純白のレースが彩る長方形のテーブルに夏呼と二人、揃って早めの昼食を済ませた。やがて馴染みのハーブティーを嗜む私の傍らで事は着々と進み出す。



「夏呼様、お部屋の履き物ですがお色は如何なさいましょう?」


「お花は何処に飾りましょう?」



 夏呼様、夏呼様……



 若干十六歳であるにも関わらず、目上の者たちから次々に確認と判断を求められる彼女は実に信頼が厚い。それもそのはず。彼女はおそらく私の次くらいにこの屋敷を熟知しているのだ。


 実年齢よりもずっと下に見えるあどけない顔立ち。淡い栗色の長い髪も、ふんわり柔らかく波打つさまはまるで産まれたままであるかのようだ。


 繊細にして可憐。そんな彼女は責務を得ることで何とも言えない不思議な雰囲気を醸し出す。いじらしい仕草は残しつつも明確な光を宿した円らな瞳は何度見たって美しく、眩しくて。


 早起きは苦手だといつか言っていたが、今日はさすがに緊張していると言ったところか。ちょっぴり固い表情で健気に働く夏呼を眺めながら、夏南汰はゆっくりと目を細める。ほら、やはり。私の見る目に狂いはなかったと感慨深い思いで。


 刻む時の音さえ忘れてしまいそうな中、ついに一つ、軽やかに貫く高音が届いた。呼び鈴だ。おや、と呟く夏南汰の腰もおのずと小さく浮き上がった。


「来たか! 思ったより早い到着じゃのう」


「お迎えに行って参りますね」


「ああ。頼んだよ、夏呼」


 微笑ましげに見つめる残像を置いた彼女がさらりと身を翻し玄関へと向かっていく。私はそんなに嬉しそうにしていたのだろうか。少々気恥ずかしくはあるが隠しようもない。事実、こうして待っている今も落ち着きなく行ったり来たりを繰り返しているのだから。


 しかし静寂の中へ届いた声色は意外なもので。


「ごめんくださーい」


 ……女性?



 何だか気になって向かってみると漆黒の目に飛び込んだ姿もまた意外で。



「まぁ! 夏南汰くん」


「樹さん!」



 見間違えるはずもない。私が実家を離れてから約五年の歳月を経てなお衰えないどころか更に洗練された麗しさ。いや、今の彼女が纏っているのはよく知るあの色香ばかりではないと気付いた夏南汰は、次にその装いに目を見張るのだ。


 まるで男が着るようなポケットの多い大きめの上着に、反して女性的な花柄のスカーフ。目を引く太いベルトの下はくるぶしまでのすっきりしたズボン。足元もハイヒールなどではない。長距離移動だって難なくこなせそうな平たい底の靴ときている。


「お庭の花が凄く綺麗だったから写真を撮らせてもらおうと思ったの。まさか夏南汰くんのお屋敷だったなんて、ね」


 ふふ、と品良く微笑む彼女の後方をよく見てみると、写真機らしき機材を抱えた若い紳士が居るではないか。なるほど。合点のいくとすぐさま頷いて承諾を示す。元々断る気もないのだが。


「新婚旅行、というものでしょうか?」


「いや。きっと……」


 頰を桜色に染めて羨望と期待を露わにしている夏呼には悪いが、私は彼女をよく知っている。凛とした麗しさも生き様も、そしてかねてよりの夢も。



磐座いわくらさん、そろそろ参りましょう」


「ええ」



 甘く囁く“樹”ではない。紳士の呼び方が決定的に裏付けた。新婚さんではないのですね、なんてちょっぴり残念そうにしている夏呼を見下ろして思わず小さな笑みをこぼした。



 再会はほんの束の間だった。写真を撮っている間も遥か遠くを見つめるような眼差しをしていた樹は、手際よくひと通りを終えるなり紳士を引き連れて去っていった。磐座というその姓だって未だ変わってはいない。花より団子? いや、むしろ夢。彼女はこれからもそうやって前へ進むのだろう。



 静けさが戻ったところで夏南汰と夏呼はごく自然に顔を見合わせる。柔らかく微笑み合うと次の準備に備えて戸を閉ざそうとしていた。ちょうどそのときに。



――秋瀬?



 おお、やはり思った以上に早かったか。相手を決して待たせぬ律儀な性格は相変わらず。何と懐かしいのだろう。その赤らんだ林檎のような顔色も。


 おずおずと遠慮がちに門を潜った彼は玄関先で足を止めるなり、わぁ!と大きく叫んで仰け反った。そのやたらと忙しい仕草も。



「あ、秋瀬っ! きき、君は家政婦さんに何という格好をさせているんだ!」


「家政婦じゃない。メイドだ、メ・イ・ド」


「め、めいど? よく知らないけれど……っ」


 まぁ、こうなるのも無理はないかも知れぬな。フリルのあしらわれたエプロンにポニーテールという名のまとめ髪。西洋の人形にだって決して劣りはしない夏呼はさぞや可愛らしかろう。


「破廉恥すぎるだろう、こんな……こんな……※カフェーじゃあるまいしっ!」


「何と。カフェーに行ったのか、ユキ」


「行く訳がないだろう! 綱島に聞いたんだよっ!!」


「ほぉ」



 林檎はいよいよ溶けてしまいそうな程に熟れていく。もちろん君も可愛いよ、ユキ。




 ※カフェー・・・発祥は明治四十四年、パリのCafeをモデルとした美術家や文学者の社交場であった。本場のCafeと異なる点として女給を雇っており、大正時代後期にはもはや女給のサービスをメインとした営業形式に(現代で言うところのキャバクラ)、昭和初期にはサービスは更にいかがわしくエスカレートしていったとのこと。(現代で言うところの風俗店)


 夏南汰が仕入れたのは紛れもなく家政婦メイドの衣装だったけれど、見慣れない雪之丞には過激な装いに見えてしまったようですね。



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