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3. 蕾



 同日。今ではだいぶ通い慣れた一室にほのかに混じり出す陽だまりの匂い。窓を開けて仰がなくとも、曇り空が晴れたのだと五感で察する放課後、滲むあかの訪れはまだ遠い。


 そこへ新たに混じり出す。



「研究は終わりそうかい? 秋瀬」


 やや高く柔らかな声色、それと香ばしい……


「研究に終わりなんて無いですよ」


 嗅覚は随分麻痺したらしい。



 すぐ傍らに置かれる重みのある音とわずかながらも働いている嗅覚で差し入れの珈琲だと感じ取る。最低限として小さな会釈と短い礼を返したナツメは再び顕微鏡へと噛り付く。



「あまり無理をしないんだよ」


「どうも」


 端のソファが軋む気配は聴覚で。


「頑張り屋さんなのは感心だけど、倒れたりしたら大変だ。女の子なんだし」


「ええ」


 冴える苦味は時折味覚で受け取るのみ。あとは大体だ。啜る音とか小さくこぼす微笑みとか、適当にさらっと流していく。



 きっと伏せた眼鏡の奥ではわりかし長い睫毛が陰を落とすのだ。そこへあの白髪混じりの癖毛が柔らかく被ったりする。三十二歳。顔立ち自体は割と整っているのだから、染めるなり何なりすればいくらか若返りそうなものなのだが。


 また一つ啜り上げる短い音。猫舌だとわかりきっているくせに性懲りもなく薄い唇を先走らせては“あっつい”なんてお決まりの台詞を呟いたりしているのだ、きっと。



 いや。



 ふと我に返ったナツメは素早くほんの一回程度のかぶりを振った。こんなのはもう五感でも何でもないではないか。空想の中の己の仕業だと気付くと可笑しく、そして滑稽にさえ思えて、唇は不自然に強張り頰は熱に浮かされた。



 いつしか度々研究室内にて居合わせるようになった。ここ、国立南波ななみ大学に於いて生物学科准教授を務めている彼と接近したのはほんの二週間程前のことだ。




 あの日も放課後だった。装いもおおかたこんな感じであったが唯一違ったところと言えば足元だろうか。もう慣れたもんだと思っていたのだが。



「あっ」



 バサバサッ



 お察し頂けただろうか。そう、順序こそ逆だが私もまたあの場で足元をとられたのだ。しかも場所が少々悪かった。階段を上がる途中だったものだから、角へ思いっきり生身の膝を打ち付けてしまったのだ。


 彼を馬鹿に出来た立場じゃない? ああ、そう思われても仕方がないかも知れぬが、一つ言っておく。私はこの一度だけだ。ピンヒールの靴など何度も履いている。あんなに何度も繰り返しはしない、断じて。



「大丈夫かい!?」


 追って届いた声に驚いた。振り向いてみたらああ、なるほど。影の薄さのせいなのか、もうとっくに居ないものだと思っていた彼が駆け上がってくるところだった。


「ああ、痛そうだ。頭は打っていないかい?」


 何故泣く。いや、笑っているのか?


「君、名前は?」


 何故それを聞く。うむ、実に不可解だ。



「秋瀬ナツメです」


「へぇ……! ナツメさん、かぁ」



 一体何処に興奮したのか満面の笑みを咲かせたその人は続けて語り出した。こちらは未だ四つん這いだと言うのに。親御さんは文学好きかと聞かれて、何故だと聞き返した私にその人は驚きを露わにして、更に。



「日本のお札の人、まさか知らないの?」


「お札……??」


「文豪の」



 今まで手にした紙幣の記憶。あの中の誰かが、とうろ覚えな面々を辿っていった。


(ナツメ……もしや夏目? あの人はお札になっていたのか)


 もっと早くぴんときていれば良かったのだが時すでに遅し。生まれてこのかた海外住まい、そんな説明に逃げ始めていたときだ。



 ぐい、と引っ張り上げられる勢いに息を飲んだ。生地の余りきった白衣の袖に見入った。それから全体を眺めた。


 これ程細い身体の一体何処にこんな力。しかしその人は分析の暇さえ与えてはくれず。



磐座いわくら冬樹ふゆきです」



 泣き顔と紛らわしいあんな形を再び作った。掴んだこの腕も離さないまま。


 こちらが指摘すると慌てふためいて詫びてきた。そこに至るまでがやけに長かったような、気がする。



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