第十四話 ミズリーにて
……その後のことを少し話そう。
レオンの兄貴にぶちのめされ、気持ちよーくオヤスミしてしまった俺は、その後何と三日間に渡り眠り続けたそうで、シュターデンの城からミズリーに戻る道中のことはよく覚えていない。本来、新婚のお二人用にと準備されていた高級馬車の荷台でグースカ寝ていただけである。たまーに意識が戻った時に、心配そうな顔をした姫やリリス様に優しく治療されていたことは、何と無く覚えている。
さて。来る時には徒歩で十日ほどかけた道のりを、ミスリルの親衛隊に護衛され三日少々で踏破した俺たちの一行は、無事ミスリルの首都ミズリーに到着。その頃にはしっかりと意識を取り戻した俺は、まずは何よりも師匠の指名手配解除を主張し、王の承諾を得る。
いや正直、これは当り前の要求ではあったが、それにしてもミスリル王がいやに素直に俺の要求を飲んだのが気になった。ここに至る経緯を鑑みるに、またぞろ何か悪巧みでもしているのではないか……という俺の邪推。こういうことを考えてしまうひねくれた大人になってしまったのは悲しいことだが、さすがにあれだけ酷く騙された後ではどうしても警戒心が強くなってしまう。
……その疑いを解いてくれたのは、カル・ベルンだった。
「あのさ。ハルキ君。君が呑気に寝ている間に、あの四人、ミスリル王、アイリス姫、アイラさん、そしてリリス様はいろいろと相談をしていたみたいだよ? 君の今後のこととか。自分たちはどうするのか、とか。少なくとも、そこに悪意は感じられなかったな。今すぐ信じろ、というのは難しいだろうけど、でも、そこまで警戒しなくてもよさそうだよ」
ふむ。なるほど。
俺の知らぬ間に、そんな四者会談が開催されていたのか。
ミスリル王とアイリス姫二人の密談だとさすがに心配だが。
そこにリリス様と師匠が加わったのであれば、まあ平気……かな?
少なくともあのお二人は、本来は常識人の筈だしな。
何よりも俺にとっては大事なお姉さんであり、大切な師匠だ。
可愛い弟分を、弟子を、これ以上困らせようとはしないだろう。
……という訳で。
ここから先は俺のミズリー滞在記。
王との交渉、その最終合意に至るまでの期間。
王宮で誰と会い、何を話し、その結果どうなったかを。
少しだけ。少しだけ語ろうと思う。
× × ×
……一度、ノアの街に帰りたい。
王宮に到着し、師匠の身の安全を確保し、最初に思ったことがそれだった。
いや別に王宮での待遇が悪かった訳ではない。
食事は美味しいし、与えられた部屋のベッドはふかふかだ。
俺付きのメイドさんなんかも用意されちゃって、気分は王侯貴族である。
いやまあ。王族になんてなる気はさらさらないけどね。気分よ、気分。
……とはいえ。とはいえですよ。
ノアの街での、シャルとの涙の別れから早一ヶ月弱。
もう、そんなにも長い時間が経っているのだ。
きっとあの子は心配しているに違いない。
朝夕、俺の為に祈りを捧げているのに違いない。
もしかしたら、こっそり涙で枕を濡らしているのかもしれない。
心配の余り、食事も喉を通らない状態かもしれない。
日が経つにつれ。時間が経つにつれ。
どうしてもその思いは強くなっていく。
いやだってさあ、あのシャルなんだもん。
もう俺のことが大事で大事でしょうがないあの子なんだもん。
そう思っちゃうのが。考えちゃうのが当然でしょ?
……せめて。せめて俺の無事だけでも伝えておきたいんだけどなあ……。
そんなことをウンウン悩む俺に助け舟を出してくれたのは。
最近元気のない、沈んだ表情のお姉さんであった。
「では、お手紙を書いてはどうですか? 晴樹さん?」
「お手紙ですか? でもそれって結局、俺が届けることになるんじゃ?」
「晴樹さんはミスリル王との交渉、まだ終わっていないでしょう?」
「はい。だから困ってるんですよねえ」
そうなのだ。
ミスリル王との交渉。実はこれ、別に難航などしていない。
今のミスリル王は、ほぼ全面的なYESマンになっているからだ。
とはいえ。とはいえだ。
俺の要求も多岐に渡り、それを実現する為の各種手続き。
これが実に煩雑で、時間がかかる。
例えば俺は、このミズリーにも郵便局を出店する予定で。
その件自体は既に王から承認を得ているのだが。
ではその店はどこに出すのか、とか。
料金体系の決定や従業員の雇用はどうするのか、とか。
俺自身が決めなくてはいけないことも多かったりする。
そんな俺が、今この時期に、数日間もここを離れるということは。
それだけこの問題が長引いてしまうことに繋がるのだ。
ここは一気に。王の気が変わらないうちに一気に。
全ての交渉を終わらせてしまいたい。
だから、手紙を書いても俺がここをお動けない以上、あまり意味はない。
ミスリルからパロスまで、通常のお手紙で三ヶ月はかかる。
王家の特権を使って早馬を出したところで、それでも一ヶ月もかかるのだ。
だったら、とっとと交渉を終わらせて後顧の憂い無く帰国したほうがいい。
だから、手紙を書くのは結局無駄になると、そう思ったのだが……。
「ですから、そのお手紙。私がノアの街にお届けしますよ」
リリス様がそんなことを仰りました。
当たり前のように。本当に何でもないことのように。
「え? ええっ! いやいいですよそんな! リリス様にお使い頼むなんて!」
「いえ。別にいいのです。それくらい、お安いご用ですよ」
「お安くないですお安くないです。そんなことしたら罰が当たります」
古今東西、神様のお使いを人間がすることはあっても。
その逆。人間のお使いを神様がするなんて話は聞いたことがない。
「遠慮しないでください。……と、いうか、私にも何かさせてください」
「遠慮しますよ! リリス様はいつも俺によくしてくれてるじゃないですか!」
何でも言いますけどね? 何度だって言いますけどね?
リリス様がいなかったら俺、きっともっと荒んだ生活を送ってますよ?
異世界に取り残され。家族にも会えず。きっとグレちゃったと思いますよ?
「それですよ。それ。その原因の一端は私にある訳ですから」
「いやまあ……。はい。確かに俺を呼び出したのはリリス様ですけど……」
「それに。その後だって。私は晴樹さんを騙していた訳ですし」
「騙すとか人聞きの悪い。あれはほら……ねえ?」
まあ。うん。何となく気付いてはいたのだ。
このお姉さんの。リリス様の元気がない理由。
……気にしてるんだなあ。二年前のこと。
まあ、確かに。確かにね? リリス様が気にするのは分かるんですよ。
100%無罪だと、俺がそう言ってもリリス様自身が納得しないでしょうし。
でもね? 正直、俺やっぱり怒りは湧いてこないんで。
だから何かをさせてくれって言われても……あ。
リリス様のお顔。その不安そうなお顔を見て、唐突に気がついた。
これでは駄目だ。駄目なんだ、と。
罪を犯したと、そう自覚している人間から。反省している人から。
その罪を償う機会すら奪ってはいけない。
それが。それで。その状況に陥りかけて。
そして姫は壊れてしまった。壊れてしまったのだ。
それを。その悲劇を。また繰り返す訳にはいかない。
……だったら。ならば。
「分かりました。リリス様、手紙を書いてきますので、配達お願いします」
「はい! 喜んで!」
リリス様のお顔が、ぱあっと、そんな音が聞こえるくらいに輝く。
それを見て、俺は間違っていなかったんだなと、そう強く思った。
「あとですね。今度でいいので、リリス様にお願いしたいことがあります」
「はい! 何でも言ってください! 私に出来ることなら何でもしますから!」
ああ。うん。やっぱりそのお顔の方がいいですよ。リリス様。
俺のお姉ちゃんは、いつも優しく微笑んでくれてなくちゃ。
……あと。
「ではですね。この一件が片付いたら、俺とデートしてください」
「はい! デートですね! わかり……えええっ!?」
はいそのリアクション。最高です。リリス様GJです。
女神様なのに妙に人間くさいそれ。そこも俺、大好きなんです。
「嫌ですか? 駄目ですか? さっき、何でもするって言いましたよね?」
「言いましたけど! 確かに言いましたけど! でも!」
「でも?」
「でも……うう、でも、いいんですか? 私なんかで? オバサンですよ?」
恥ずかしげな上目づかい。それはいい。それはとてもいいものです。
でも駄目です。その発言は駄目です。リリス様と言えど不許可ですよ?
「俺のお姉ちゃんをオバサン呼ばわりするなんて許しませんよ!?」
「ええっ! 事実ですし自分のことですよ!? それでも駄目なんですか!?」
「駄目に決まってるじゃないですかリリス様は俺の永遠のお姉さんなのです!」
「は、晴樹さんの言っていることの意味が分かりません! 分かりませんよ!」
実年齢なんてこの際どうでもよろしい。要は見た目と雰囲気なんです。
俺がいいって言ってるんだからいいじゃないですか。
俺のそんな言葉を受けて。
しばらく何やら頭を抱えて葛藤していた女神様は。
やがて、静かにお顔を上げ、そして自信なさげにこう言う。
「……その。分かりました。デート、しましょう。……でも! でもですね! こう見えても私、無駄に年だけ重ねて経験とか全然ないですし! 人族だった頃も修行ばっかりで男の人とお付き合いした経験ありませんし! ですから! その! あ、あのですね! 晴樹さん!」
そしてこう続けるのだ。
完熟トマトのような真っ赤なお顔で。
潤んだ瞳で。上目づかいで。
もじもじと。両手の人差し指を、胸の前でつんつんしながら。
「や、優しく、エスコートして、ください、ね……?」
× × ×
俺の書いた手紙を持って、念の為に、護衛にカルを伴ったリリス様が。
元気を取り戻したはいいが今度は妙に挙動不審になってしまったリリス様が。
それでも気丈に手を振り、ミズリーから旅立っていった数日後の夜。
――コン、コン。
「あん?」
さあ今日もこのフカフカベッドで眠ろうか、と。
それにしてもこのオフトゥン、本当に寝心地最高だなあ、と。
これを譲って貰うことも、王への条件に書きたそうかなあ、と。
そんなことを考えていた俺の部屋の扉が、静かに叩かれる。
「ハル? 起きてますか? もう寝てしまいましたか?」
「あれ? 師匠ですか?」
いつもの抑揚のない声。それを聞いてベッドから降りる。
師匠を前にして、閉じておける扉は、俺にはない。
せいぜい、トイレのドアくらいだ。
お風呂のドアはむしろ開けて頂きたいと願いっている。
がちゃりと開けたドア。
目の前に立っていたのは黒ずくめのちっちゃい師匠……ではなく。
俺の身長よりも高い、恐らく2mはありそうな、布を丸めた塊であった。
「うおおっ!?」
「あ。すいません。驚かせてしまいましたね」
ぴょこんと。その布の棒の後ろから。
とんがり帽子を被ったちっちゃい頭を出した師匠が、ペコリと頭を下げる。
「夜分遅く申し訳……とっとっと」
「師匠!?」
結構な重量があるのだろう、それ。布の塊。
頭を下げた影響でそれがグラついたらしく、師匠が倒れそうになる。
慌てて手を伸ばす俺。しっかりとその華奢な体を支える。
「ふう。びっくりしました。ありがとうございます。ハル」
ちっとも驚きを感じさない声でそう呟く師匠。
声にも表情にも感情が乗らないのは相変わらずだ。
「いやそれはいいですけど、師匠? それ、何ですか?」
「……えっと、ですね。とりあえず、中、いいですか?」
「あ、はいはい。どうぞどうぞ」
「お邪魔します」
ずるずると布の塊、丸めたカーペットのようなそれを引き摺り。
よろよろと部屋の中に入ってきた師匠は、まずそれを床に置き。
そしてキョロキョロと周囲を伺い、静かに腰を下した。
……椅子にではなく。当然床にでもなく。俺のベッドの上に。
「…………」
「どうしました? ハル? さ、早くこちらに」
ぽんぽんと。自分の側を叩く師匠。
いやいいんですけどね? 師匠に変なことをする気はありませんけどね?
でもですね? 師匠?
仮にも年頃の娘さんが、男の部屋に入って即ベッドに腰かけるというのは。
ええ。はい。いろんな意味で。気をつけた方がいいと思うのですよ。
俺が狼に豹変してしまったらどうするおつもりですか?
狼なのに豹変とはこれ如何に? って感じです意味不明ですねすいません。
でもまあ。師匠のお呼びだ。
弟子である俺としては従うしかない。
無いよ? 無いからね? 変な下心なんて。
いろいろな思い考え下心……はない! ――を飲み込み。
それでも素直にベッドに腰を下ろす。
その距離は、数日前よりは、ちょっとだけ遠い。
師匠はその黒い瞳で、じっと俺を見上げる。そして。
「いろいろと、すいませんでした。そして、有り難うございました」
トレードマークのとんがり帽子を脱ぎ、ビロードのような黒髪を晒し。
そして師匠は、深々と、俺に向け頭を下げた。
「え? いやあのその。えっと、もうそういうのやめましょうよ?」
「いえ。そう言う訳にはいかないので。ハル? 本当にごめんなさい」
ですから! もういいんですってば! 師匠!
もう俺は全然怒っていません。
それに師匠? 師匠は別に悪くないでしょ?
姫に同情して、俺にちょっとだけ隠し事をしただけじゃないですか。
「それでも罪は罪です。姫の、アイリス姫の犯した罪を知っていながら、それを隠していたこと。それが私の罪です。……許して、貰えますか?」
「俺は師匠に罪があるなんて少しも思っていませんけど。でも、師匠がどうしても納得がいかないのなら、きちんと言います。許します。俺は師匠を許します」
だからもうやめましょうそういうのは。
師匠はもっと、こう、偉そうにしていて欲しいのです。
だってそれが俺の師。偉大なる大魔法使い、アイラ・ハルラなのですから。
「……良かった。ほっとしました」
俺の言葉を聞き。俺の顔を見て。俺の目を見詰めて。
やがてそう呟いた師匠は、その小さい手で俺の服をちょこんと摘まむ。
「ハルだから。優しいハルのことですから。きっとそう言ってくれるような、そんな気はしていました。でも、はい。やっぱり不安だったのです。怒っていたらどうしよう。いえ、怒られるのは仕方ありません。でも、嫌われたらどうしよう、と。もう顔も見たくないなんて言われたらどうしよう、と。そんなことばかり考えていました。……ちゃんと謝れて、そして許して貰えて、よかった」
よく見ればその手はちょっと震えていて。
ほっとしたというその言葉が、けして嘘でも誇張でもないことを語っていて。
「俺は弟子ですからね。だから師匠のことを嫌いになったりしませんよ」
「……私は、本当にいい弟子を持ちました」
その言葉に安堵したかのように、すすっと距離を詰める師匠。
ぽすんと。その小さな頭が、俺の肩に乗せられる。
絹のような黒髪がさらさらと流れる。俺の腕に沿って。
ああ。うん。いかん。いかんですよこれは。
全く持ってけしからんことになりそうですよこれは。
ほらだって今の状態。この状況。
美少女+ベッド+すりすりですよ?
これ、あと一手付いたら満貫ですよ?
裏もバンバン乗ってハネ満になってしまうかもしれませんよ?
ああ。駄目だ駄目だ。邪念を去れ!
いい弟子は師匠に欲情とかしないのです!
「と、ところで! 師匠! あれ! あれはなんです?」
「あれ……? ああ、はい。これのことですか」
妙に。妙にトロンとした目をした師匠が。
それでも俺のその言葉には反応し、それを指さす。
床に転がされた、丸めたカーペット状のそれを。
「これはその。何と言いますか。お詫びの品というか、手土産というか」
「お詫びの品? 手土産? どういうことです?」
イマイチ要領を得ないその説明に俺が口を挟む。
何だろう? 超高級品のカーペットなんだろうか?
師匠の持ってきたものだし、実は空を飛ぶ機能が付いているとか?
「空は飛べませんし、金額もついてません。でも、いいものだとは思います」
「ほうほう。で、その正体は?」
「えっと。その前にですね」
師匠はそこで言葉を切る。
改めて俺のことを見上げる。不安そうに揺れる瞳で。
「実は、ハルに報告することがあります」
「報告ですか? 何でしょう?」
「私、つい先ほど、王に辞表を提出してきました」
「…………」
ああ。うん。それは予想していた。
そうなるだろうなと、想定はしていた。
今回の件で、王と師匠の間には深い溝が刻まれた筈。
それが互いに姫を思いやっての行動だったとしても、だ。
だからこの一件が済んだら、師匠は王宮を出るのだろうな、と。
漠然とではあったけど、そのこと事態は予想していた。
でも。それを報告してくれるとしても、何故、今?
それがこのカーペットモドキと何か関係があるのかな?
「……わかりませんか? ハル?」
「はあ。すいません」
「ハルはやっぱり、女心が分からない男の子です」
「……えっと。はい。すいません」
ぽりぽりと頭をかく俺を見て。
師匠は寂しそうに言った。ぽつりと。
「私を、独りにしないでください。独りぼっちは、もう嫌なのです」
それが。その言葉が。呼び水になったように。
師匠は語り出す。抑揚はないが、それでも分かる必死な口調で。
「ハル? ハルは王との交渉が終わればパロスに帰ってしまう。姫を連れて帰ってしまう。そうしたら、私はどうなります? 私一人、私一人だけがこの王宮に残されてしまいます。そんなのは嫌です。嫌なのです。ですから、私も。この私も。連れて行ってください。私もハルの為に働きたいのです。ハルのお役に立ちたいのです。……ハルの側に、いたいのです。……駄目、ですか?」
俺の服を摘まんでいた指は、いつの間にか五指全てに変わり。
離れない。離さないと。きつく握り締めその意志を雄弁に伝え。
されどどこか自信なさげに。
断られることに脅えるような仕草を見せながら。
それでも、師匠は続ける。言葉を。気持ちを。
「図々しいお願いだというのは、分かっています。でも、それが私の本心です。王に、アイリス姫に、償いの機会を与えてあげたように。私にもそれをください。私にもハルとの繋がりを、強い繋がりを与えてください。少しは、少しはお役に立てるつもりです。許してくれれば、尽します。誠心誠意尽くします。ハル? 君の為に。君だけの為に尽くします。……それでも、やっぱり、駄目、ですか?」
駄目とか駄目じゃないとか。
役に立つとか立たないとか。
そんなのはもうどうでもいい。
ああもう。これだから俺は駄目なのだ。
約束したじゃないか。もう独りにはしないと。
師匠とそう約束したじゃないか。
ただでさえ。ただでさえ最近の師匠はちょっとアレなのだ。
少しポンコツ気味で。甘えんぼう風味で。そして寂しがり屋さんなのだ。
――俺が。弟子である俺が支えてやらずにどうする?
「了解です。了解しました。師匠の身は俺が引き受けます」
「……本当、ですか?」
「はい。リリス様に誓えます」
「駄目ですよ? もう嘘とか言っても駄目ですよ? 信じましたからね?」
ぽんぽんと、師匠がよく俺にしてくれたように。
今日は。今日だけは立場を逆にして。俺が師匠の頭を撫でる。
小さくて。形が良くて。さらさらの髪に包まれた、愛らしいそれを。
「……コホン。ハル? それで、ですね」
師匠が再び口を開いたのは、結構時間が経ってからのこと。
人懐っこい猫のように俺に撫でられるがままだった師匠は。
そのわざとらしい咳ばらいで、師としての顔を取り戻す。
「これ。このカーペットなんですけど」
「あ。はい。それ、やっぱりカーペットだったのですね?」
「カーペットとしての用途では使ってませんけどね」
「はい?」
師匠はベッドから飛び降りる。
とてとてとそのカーペットの位置まで行き、それを一気に広げる。
「これ、実は【転移魔法陣】なんです」
「ほう。【転移魔法陣】ですか。それは素晴ら……えええええっっっ!?」
黒無地のそれ。2m四方の正方形のそれ。
その表面。今まで折りたたまれていた部分。
そこには、白いインクで丸い魔法陣が所狭しと書き込まれていた。
「え? ちょ、ま、待って! 待ってください師匠! 【転移魔法陣】!?」
「落ち着いてください。ハル。舌を噛みますよ? 今、説明しますから」
……師匠は語る。
数ヶ月前から、あのミズリー近郊の遺跡に籠っていたこと。
あの遺跡の扉を開けるのに、毎回多大な魔力を消費すること。
結果として師匠は、魔力回復の為、長い無為の時間が出来てしまったこと。
ならばいっそと。その時間を使って【転移魔法陣】の研究をしていたこと。
「……で、気付いたのですよ。あの魔法陣が巨大になる理由。消費する魔力も莫大なものになる理由。それは質量にあるのだと。あの遺跡の【転移魔法陣】。あれで物体を転移する場合、質量の制限はありません。どんなに大きなものでも、どんなに重いものでも転移することが出来ます。……だったら、その部分。重量無制限の部分をどうにかすれば、もっとダウンサイジング出来るのではないかと」
師匠の説明を聞きながら、俺は呆けたように頷くだけである。
あんなものを。あんな複雑な魔法陣を。よくもまあ解明できたなと。
やっぱりこの人は【天才少女】なんだと。そんな思いを新たにしながら。
「その試作機がこれです。遺跡にいた頃のメモをまとめて、私自身で描いてみたものです。……ですから、テストはまだですが、これが私の想定通りに動けば、重量制限こそあるものの、私程度の魔力でも稼働する、ミニサイズ、そして省エネルギータイプの【転移魔法陣】になります。……どうですか? ハル? ハルのお仕事に役立つと思うのですけど、如何でしょうか?」
如何でしょうかも何も。
これ。これがあれば俺の【速達】は飛躍的に発展する。
……今の【速達】の問題点は二つ。
ひとつめは、【転移魔法陣】のある遺跡が街から離れていること。
ふたつめは、消費する魔力が大きすぎて俺にしか使えないこと。
これ。この簡易転移魔法陣があれば。その問題が一気に解決する。
まさに。まさにこれこそが魔法の道具だ。
「気がかりなのは一点。これが完成してしまうと、ハル。君の優位性が失われてしまうことです。【速達】はハルにしか出来ない。出来ないからこそ価値がある。この簡易転移魔法陣を使うことにより、その優位性はなくなってしまう。ですから、ハルが望まないのであれば、この技術は永遠に封印しても」
「やめてくださいやめてください! これを封印するなんてとんでもない! これは歴史に名を残す発明品ですよ! アイラ・ハルラの名が世界史に乗ります! それに俺はそんなにちっちゃい男じゃありません! 【速達】はあくまでも手段のひとつ。郵政の改革こそが俺の夢! 野望です! これを使えば、これがあれば! 俺の夢がまた一歩、一歩どころじゃない! 十歩も二十歩も進む! 師匠! 本当にいいんですかこれ! こんなもの貰っちゃって!」
興奮し、唾を飛ばし手を振りまわす俺を見て。
相変わらずの無表情で。いつもと変わらぬ抑制のきいた声で。
「いいも何も。これは、ハル。君の為に作ったものです。私の名が残るかどうかなんて些細なことです。ハル。私は君の役に立ちたい。君の喜ぶ顔が見たい。君の夢を叶えるお手伝いがしたい。それだけ。ただそれだけ願い、これを作りました。受け取って貰えるなら、私にとってこれ以上の喜びはうひゃあ」
感極まって。感動の余り。俺は思わず師匠を抱き締めてしまう。
そのちっこいお体を抱き締め、振り回し、部屋の中を踊りまわる。
「師匠! 師匠最高です! 本当に最高の師匠ですあなたは!」
「いや、あの、その、ハル? いえ、いや、あう」
「大好きです! もう一生ついていきます! 離しません!」
「え? あ、はい。それは、その、ええ。大変嬉しく思いますけど。わあ」
ああもう! ああもう師匠はちっこくて可愛くて最高だなあ!
その上こんな贈り物までくれるなんて!
もう駄目だ。抑えきれない。この感謝の気持ちと愛しさが抑えきれない。
もうここはちゅーだ! ちゅーしかない!
熱い口付けでこの感謝の想いを伝えるしかない!
「師匠!」
「はい。え? あ、え? あ、あう……」
すとんと。持ち上げていた師匠を床に下ろし。
その形のいい顎に手を添える。くいっと上を向かせる。
こうして至近距離で見下ろす師匠のお顔。
この状態で赤くもならない。頬も染めない。でも。
小さく震える肩が。唇から漏れる熱い吐息が。
必死で爪先を立てて背伸びする姿が。
これはもうOKだと。師匠も覚悟を決めてくれたと。
だったらもう、いくしかないと。一気に決めるしかないと。
俺の背中を強烈に押す。押しまくる。
……そしてやがて。少しの時間をおき。師匠は潤んだ目を瞑る。
ああ。元の世界のお父さん。お母さん。
俺は今日、ここで。この場所で。
年上の幼いお姉さんと一緒に、大人の階段を昇ります。
昨日までの俺よ。清い体だった俺よ。さようなら……。
そして、そして俺と師匠の唇が。少しずつ近づいて行き。
やがてそれは。吐息ががかる距離になり。そして。そして……。
――ばぁん!
「いよう! ハルキ! まだ起きてるか!? いやちょっとな? いい酒が手に入ったもんでな? ここはひとつ、お別れの前に男同士二人っきりで、朝まで痛飲してやろ……う……か……なあ……なんて、な?」
ノックもせず。いつものようにとても気さくに。
俺のことを何故か気に入ってくれた某国の公子様が酒瓶片手に固まる。
部屋の中央。目を閉じ抱きあい、今まさに……しようとしていた俺たちを見て。
「失礼した。……ハルキ。俺が言えることじゃねえが、あまり姫を泣かすなよ?」
「違うんです! 違わないけど違うんですレオンさん! これには深い訳が!」
……その後の顛末に関しては、多くは語るまい。
ただひとつ。ひとつだけ言わせて貰えるとすれば。
兄貴のあの目。蔑むようなあの目は。
俺の心にけして消えぬ傷を残しましたとさ。
自業自得、なんだけど、さ。
……とほほ。
次回、エピローグ。




