第十話 王ではなく、父として
――『契約と約束を司る女神 リリス』
いつ以来だろう? 久し振りにそのお姿を拝見した。
いや、会ってたよ? ちょいちょい、会ってはいたよ?
ただ、ノアの街で会う時は、リリス様は変装と言うか。
正体がばれないように、いつもローブを深く被っていたからさ。
このお姿。女神の正装ともいうべきこのお姿。
腰まで届く水色の髪を自然に月光にさらして。
水色の瞳に強い意志の力を浮かばせて。
羽衣っぽい薄い布を体に巻いただけのこの姿。
それを見たのはやっぱり久し振りで。
――ああ。やっぱり奇麗だなと。こんな時なのにしみじみとそう思う。
「晴樹さん。お久しぶりです」
「…………」
「晴樹さん?」
「あ! 失礼しました! お久しぶりです! リリス様!」
やべえ。見惚れていた。魂抜かれてたわ。今。間違いなく。
いやいやいや。それよりも。それよりも、だ。
「リリス様? どうしてここに?」
「神様ですから。全ていろいろお見通しなのですよ」
そう言ってにっこりと笑うリリス様。
そうだそうですよ。神様ですものね! さすがですリリス様! さすリリ!
「……今のは軽い冗談なので、笑い飛ばして欲しかったのですが……」
「……はい?」
恥ずかしそうに頬を染めたリリス様は、小さな声でそう呟く。
いやあの。ホントごめんなさい。
そういう神様ジョークはちょっと分からないです……。
「コホン。……この世界の神は、そこまで万能ではありません」
「はあ……。では、改めてお尋ねしますが、何故ここに?」
千客万来すぎて頭が付いていかないぞ?
ミスリル王の来襲だけでも十分だというのに。
「ミスリルの情勢を監視していたからですよ」
「監視、ですか?」
何かまた悪だくみでもしていたのかミスリル王は?
いやこの結婚自体がかなり悪質っちゃ悪質だと思うけど。
「はい。アイリス姫の結婚。これがミスリル王家内部での揉め事で終わるのなら、私は特に口を出すつもりはありませんでした。王が決め、アイリス姫がそれを受け入れるのであれば、それはそれでひとつの解決策であると」
そこで一旦言葉を切ったリリス様は、アイリス姫に目を向ける。
その視線に悪意は、敵意は、少しも感じられない。
「ただ、そこに晴樹さんが絡んでくるのなら。晴樹さんが動くのであれば。晴樹さんが、晴樹さん自身の意思で行動するのであれば。二年前よりも心身ともに大きく成長した今の晴樹さんなら」
今度は俺を、俺の方に視線を向けるリリス様。
その目は弟の成長を喜ぶ姉のようで、なんだかこそばゆい。
「あるいは、アイリス姫の犯した罪を。ミスリル王の犯した罪を。……そして私自信が犯した罪を。許す……ことは出来なくても、少なくとも、それに。そのような凶行に至ってしまった心情を理解はしてくれるのではないかと。そう思い、そう考え、そう期待し、こうして舞台に上がったという訳です」
アイリス姫の罪。そしてミスリル王の罪。
それは分かる。心当たりもある。
だがしかし。リリス様の犯した罪とは?
そんなことを考える俺の促しの視線を受けて。
リリス様は再び口を開く。自らの罪を告白する。
「まずひとつめの罪。私は全ての事情を知っていました。事件直後から、ミスリル王が、アイリス姫が何を考え、何をしたのか。どんな罪を犯したのか。その全てを聞いていました。それを今日まで。今日この日まで、晴樹さんに打ち明けなかったこと。消極的共犯の立場に甘んじたこと。それがひとつめの、私の罪です。申し訳ありませんでした」
ああ。そうか、と。やっぱりな、と。
それが俺の抱いた最初の感想であった。
リリス様はやはり、全てを知っていたのだ。
あの日。王宮で。一体何があったのかを。その全てを。
薄々、薄々そうではないかと思っていはいた。
そう感じていながら、俺の方からその話題に触れるのは避けていた。
多分、無意識のうちに逃げていたのだ。真相から。真相を知ることから。
――アイリス姫に裏切られた理由。それを聞くのが怖かったから。
「……そして。私の罪。そのふたつめは」
「そこまで。リリス様。そこまでで」
リリス様の懺悔。
その言葉を止めたのは俺ではなく。
アイリス姫でも。師匠でも。ましてやカルやレオンでもなく。
「そこから先は、この私が。アイリスの父たる私の役目でございます」
深々と頭を下げたまま。それでもしっかりとそう主張するミスリル王。
言葉を遮られたリリス様は、怒るでも、叱責するでもなく、素直に頷く。
「そうですね。ミスリル王。貴方が語るほうがいいかもしれません」
「ありがとうございます」
リリス様の許可を得たミスリル王は、もう一度深く頭を下げ。
そして彼は立ち上がり、まず兵に告げる。『下がれ』と。
千を超えるミスリル兵が、王のその言葉に従い移動を始める。
やがてその移動が終わり、遠くに控えた兵を一瞥し、リリス様が一言。
「長い話になるでしょう。皆、楽にするように。私のことは気にせず」
この場に残ったのは七人。
まずは俺とリリス様。
あからさまにほっとして剣を収めたカル・ベルン。
相変わらずの無表情ながら、姫を支えるように寄り添う師匠。
そして安堵ども、諦めともとれる表情を浮かべたアイリス姫。
にこりともせずに、無言で佇むミスリル王。
完全に部外者の顔で、しかし興味津々と言った表情のレオン公子。
――しばしの静寂。草原を走る風の音が聞こえる。
やがてそれを破ったのは、やはりこの人。ミスリル王であった。
「……皆、座れ」
そう言うと、まずは率先して自分がどっかりと腰を下ろす。
リリス様が、姫が、師匠が、カルやレオンも。その言葉に従い腰を下ろす。
「……座れと言っておる」
「…………」
何となく。何となく素直にそれを聞くのが腹立たしく。
最後まで立っていた俺に向け、王は重ねて言う。
さすがにここでへそを曲げても仕方ないので、しぶしぶ俺も座る。
ただし。万が一に備え。いつでも立ち上がれるような姿勢で。
それを見て、ミスリル王がいつの間にか取り出した革袋を呷る。
咎めるような俺の視線を受け、王は言った。
「……葡萄酒だ。素面ではとても話せん。貴様も呑むか?」
「……結構です」
そうか、と。気分を害した様子もなく。
もう一口それを呷り、唇を湿らせた王は、静かに語り始める。
「そもそものきっかけは、貴様らがミズリーに戻ってきた時から始まる」
この場合の「貴様ら」というのは、魔王討伐パーティーのことなのだろう。
戻ってきたということは、魔王の首を獲りミスリルに凱旋した時のことか?
「魔王の首を獲ったと報告を受け、余は思った。『これでこの国は助かる』と。余が自ら素直に称賛の言葉も贈った筈だ。ハルキ・ヤマミズ。貴様が憶えているかどうかは知らぬがな」
そんくらいは憶えてますよ。
あんまり馬鹿にしないで貰えませんかね?
「だがしかし。討伐隊の中でただ一人。浮かない顔をしていた者にも気付いた。誰であろうそれは、我が娘。アイリスであった。……試みに問うが、ハルキ・ヤマミズ? 貴様は気付いておったか? アイリスの様子がおかしいことに」
「……魔王討伐までは元気だった姫が、帰国の途につく最中、妙に静かだなとは、俺も感じてはいましたよ」
気付いてはいた。だが、深く問い詰めることもしなかった。
その時の俺は魔王を討伐したことによりすっかりハイテンション状態で……。
……いや。ちがうな。
薄々その理由に気がついていたからこそ、俺は聞けなかった。
それが藪蛇と言われる行為であることを、俺は知っていたから。
姫の気持ちを、知っていたから。
「翌日にはカロン要塞の包囲戦に参加するという貴様らの為に開いた、ささやかな祝勝会。その最中、姫がそっと宴を抜け出したことを、貴様は知っているか?」
…………。
いや。それは知らない。そっちは本当に知らない。
あの時の俺は、食ったり飲んだり笑ったり浮かれたりするのに忙しく、そこまでは。姫のことまでは気が回らなかった。姫のことを考えてもいなかった。
「それを責めはすまい。祝勝会、その主役だったのは貴様らだ。しかも大殊勲を挙げての凱旋だ。多くの貴族に囲まれ、周囲を見る余裕もなかった筈。重ねて言うがそれは仕方のないことだ。……だがな」
ちらりと、王は姫を見る。
泣きそうな顔で、肩を震わせている姫の方を。
「……余は、人気のない裏庭でアイリスを見つけた。泣いておった。アイラ・ハルラただ一人を側に置いたアイリスは、声を忍ばせて泣いていたのだよ。その時、娘が何と言っていたか、アイラよ。貴様は憶えているか?」
無表情の師匠。王の視線を遮るように深く帽子を被り直す。
だがしかし、その言葉を無視することはなく。答えて曰く。
「『戦が終わってしまう。ハルキ様が元の世界に帰ってしまう。もう会えなくなってしまう。ああ、いっそ。いっそのこと。王族としての身分も義務も何もかもを捨てて、ハルキ様についていきたい……っ!』……と。そう申しておりました」
ああ。そうだ。そうなのだ。
分かってはいた。分かってはいたのだ。当時の俺も。
戦が終る。人族の勝利で。
それは喜ばしいことだ。
だがしかし。それは。その言葉が意味するところは。
俺が元の世界に帰ってしまうということ。
もう二度と姫と会うことは出来なくなるということ。
当時の俺がそれをどう考えていたか。
簡単だ。考えないようにしていたのだ。
現実から目を逸らし続けたのだ。
姫に対して気持ちを伝えてはいない。それを免罪符にして。
姫から気持ちを打ち明けられてはいない。それを言い訳にして。
幼い恋心は幼い恋心のまま。淡い思い出のまま。
決着をつけることなく、終わらせようとしていたのだ。
だって。どうしようもなかったから。どうにもできないから。
離れることは。いつか会えなくなることは。
出会う前から決まっていたことなのだから。
「……余はそれで、アイリスの想いを知った。貴様はどうだ?」
「…………」
「知っていたのではないか? 娘の気持ちは?」
「…………」
知っていた。しっかりと姫の想いは届いていた。
ただそれは、俺の想いよりも、ほんの少しだけ大きかった。
離れることが決まっているから、気持ちを抑え込んだ俺。
離れることが決まっているけど、どうすればいいかを考えた姫。
そして姫の出した答えが「ついていきたい」だった。
……あれ? ちょっと待てよ?
「……『ついていきたい』と。姫はそう言っていたのですか?」
「ああ。今更嘘は言わん。アイラもそう言っているであろう?」
「……そんなこと、そもそも可能なんですか? リリス様?」
今まで静かに話を聞いていたリリス様。
俺の質問を受け、その口を開く。
「出来るか出来ないかで問われれば、出来ます。可能です。【召喚魔法陣】に送り届ける物質の質量の上限はありません。ひとりでも。ふたりでも。無事に晴樹さんの世界に転送することは出来たでしょう。……ですが」
言葉を切ったリリス様はミスリル王を見る。
唇を噛みしめ、何らかの感情を堪えているミスリル王を。
「仮に、アイリス姫を無事転送できたとして、ですが。晴樹さん。質問です」
「はい?」
「晴樹さんのいた世界で、アイリス姫は、幸せになれるでしょうか?」
「…………」
考える。考えてみる。
元の世界。姫から見たら異世界である、俺のいた世界。
そこにぽつんと、姫が送られてくる。
まあ、俺という理解者はいるとしても、だ。
元の世界に戻った俺は、十四の子供だ。
まだまだ一人で生きていくことは出来ない子供だ。
社会的に一人前と認められていない子供だ。
俺はまだ、本当に意味でアイリス姫の保護者にはなれない。
そんな俺が、姫を守って上げられただろうか?
戸籍も存在しない、金髪碧眼の、明らかに日本人ではない少女。
それをどう養っていく?
学校は? 生活は? そもそも言葉は通じるのか?
魔法だって、俺の世界には魔力が存在しないから使えないんだぞ?
……見えない。姫が幸せになれるというビジョンが、全然見えない。
「……今の晴樹さんと同じ質問を、実は前にミスリル王からも受けました。そして今と同じように答えました。可能かどうかなら、可能、と。ですがそれはお勧めしません、と。理由はもう、晴樹さんには分かりますよね?」
「そして、ハル? 私からも一言だけ言わせて貰いますね。姫は、そんなことは覚悟の上でした。苦労するだろうと。幸せになれはしないかもしれないと。でも、それでも、ハル? 君と一緒にいられるのならどんなことでも耐えられる、と。だから姫は、そんな希望を口にしたのですよ。私にだけ。……けして、叶わない望みだと知っていながら」
リリス様の言葉を引き継ぎ、淡々とそう述べた師匠。
隣に座る姫は、もう顔も上げられない。俯き時折涙を零すだけ。
ああ。だけど。でも。ひとつだけ。
「叶わない望み? それは俺が姫を受け入れないという意味でしょうか?」
「勿論、それもあります。実際、無理でしょうし。ですがそれ以上に」
「……それ以上に?」
「姫は王族ですから。自分の幸せだけを考えることは、由とはしないのです」
思い出す。以前師匠に言われた言葉を。
王族の結婚は政治の結果である、ということを。
政治という大きな流れの前に、本人の意思など通る筈もないということを。
「姫は、自分の価値を正確に知っていました。その立場も弁えていました。自分がいつか、政治の結果としてどこかに嫁に行くことを。国の為に。ミスリル国の民の為に。顔も知らない異国の貴族のところへ嫁ぐ覚悟があったのです。そうせねばならぬと、自分自身が固く決意を固めていたのです。……だから、叶わぬ望み、なのです。夢なのです。それは。姫にとっては」
あくまでも。あくまでも王族として。貴族として。
民の為に。国の為に。生きる。
それはきっと奇麗事というやつなのだろう。
私利私欲を旨とする王族だってきっといるのだろう。
だがしかし。だがしかし。アイリス姫だ。
自分の為に。自分を救う為であっても。兵の血が流れることを嫌がった姫だ。
故にその義務を。貴族の責務を。放り投げることは出来なかったのであろう。
「話を戻すぞ? 一夜が明け、アイリスを除いた討伐隊が、カロン要塞包囲戦に合流する為に出発した後のことだ」
そう。そうだった。ここで姫はパーティーから外れたのだ。
本人はついていくと言っていたが、明らかに体調が悪そうだったから。
顔色とか、もう死にそうなくらいに真っ青だったから。
戦自体も、もう最終段階に入っており。
姫抜きでも、【聖級】プリースト抜きでもやれそうだったから。
「アイリスはな。娘は、部屋に閉じこもり泣いてばかりであった。ハルキ・ヤマミズ。貴様への想いで胸を焦がし、そしてそれが叶わぬ恋だということも自分自身で理解しており、ただどうしようもなく泣くだけだった」
想像がついた。その姿が目に浮かんだ。
そしてそれを、実は予想していたことを思い出した。
当時の俺も、そこまで鈍くはなかった。
だがしかし、当時の俺は、それに対処できるほど大人ではなかった。
「余は悩んだ。どうすればよいのか考えた。……正直に言おう。ハルキ・ヤマミズよ。貴様が既に娘に手を出しておればよかったのにと。親としてあるまじきことさえ考えた。王族であるアイリスに遊びで手を出したということであれば、それはまごうことなき重罪。如何に世界を救った勇者と言えど、この世界にいる以上、この世界の法には従って貰う。責任を取らせることが出来ると、な。さすがにそのような事態であれば、リリス様でも貴様を庇うことはなかろうと、な」
リリス様が苦笑を浮かべる。
否定をしないところを見ると、その言葉は真実なのだろう。
契約と約束を司る女神様は、女を騙す悪い男を許しはしないのだ。
「だがしかし。残念ながらそういう事実はなかったと。そうアイラから報告を受けていた。自分が止めたと。アイリスは清い体のままだと。故に貴様にその責を負わせることは出来ないと。……今更、余がこんなことを言っても仕方ない話だが、ハルキ・ヤマミズよ。貴様は良い師を持ったな」
師匠。ああ。師匠。
やはり貴方は俺のことを考えていてくれたのですね。
軽々しく姫に手を出すこと。それが俺を縛ることになると知っていたから。
だからあの時。あの夜。俺を止めてくれたのですね。
そんな俺の尊敬の眼差しを受けても、師匠の表情は変わらない。
いつもの無表情で。抑制のきいた声で。俺に応えてくれる。
「ハル。あの時の私は、君の師としてはいい働きをしました。自分でもそう思っています。ですが、少し後悔もしているのです。アイリス姫の師としては、私は間違ったことをしてしまったのではないかと。いっそ思いを遂げさせてあげた方が良かったのではないかと。そう考える時もあるのです」
そうか。そうだよな。
師匠は俺の師であると同時に、姫の師でもあるのだ。
どちらの幸せを願うべきか。どちらの気持ちを優先するべきか。
師はきっと。師匠はきっと。何度も何度も悩んだのだろう。
その結果が、三ヶ月前のあれ。
二年前に、俺のことを考え、俺の暴走を止めた師匠は。
三ヶ月前に、今度は姫のことを考え、姫の暴走を助けたのだ。
それをどっちつかずだと。蝙蝠のようだと。
そう責めることはすまい。支離滅裂だったとはもう言うまい。
師匠は師匠で、きっと、深く深く悩んだのであろうから。
「そうこうするうちに。余が何も対策を打てぬ間に。前線から勝利の報告が届くのだ。カロラン将軍が敗北を認め、ノルン要塞から撤退を始めたという、本来ならば国を挙げて喜ぶべき知らせがな」
王としては。ミスリル王という立場からすれば。
それは待ち望んだ報告だったのだろう。
だがしかし。王ではなく。一個人としては。
アイリス姫の父親であるアーロンとしては。
「戦は、終わった。と、いうことは、だ。ハルキ・ヤマミズ。貴様が帰ることが決まったということでもある。娘の、アイリスの様子はもう見ていられなかったぞ? 食事はとれず、眠ることもなく。日に日に憔悴していくアイリス。……結局アイリスは、その日まで。明日、貴様らが戻ってくるというその夜まで。余に何も言ってはくれなかった。ハルキ・ヤマミズ。貴様についていきたいなどということも語ってはくれなかった。……アイリスはな、言えぬのだよ。王族という立場があるから。それを我儘だと自覚しているから。だから信頼するアイラに零すことは出来ても、権限のある余にそれを言うことは、最後まで出来なかったのだよ」
結局、姫は最後まで姫のままだったのだ。
ミスリルの王族として。民のことを。国のことを。王宮のことを。
捨てることが出来なかったのだ。
俺が、俺の世界を。両親や友人のことを。その側に戻ることを。
結局最後まで諦めることが出来なかったのと、同じように。
……それにしても。
「……随分、姫のことを気にかけていらしたのですね」
「おかしいか? レオン・フォン・カナリアよ?」
「いえ。人としては全く。ですが、王として、それでいいのでしょうか?」
今までずっと観客に徹していた、カナリア公子の発言。
彼の言葉は、俺の内心の疑問を過不足なく伝えるものだった。
いや、俺にも責める気はない。全くない。
むしろ人間味を感じて、素直に感心すら覚える。
でも。それでいいのか? ミスリル王としては?
俺なんかが言うことじゃないけど、立場ってものがあるんじゃないの?
姫はそれに。その王族としての立場に最後まで囚われて。
そして未だに囚われたままなんじゃないの?
それ故に最後まで苦しんだんじゃないの?
「……ここに、余の兵はおらぬ。故に率直に語ろうか」
一口。ぐいっと。革袋の葡萄酒を呷り。
そして王は告げた。堂々と。何ら臆することなく。
「余は。いや私は。このアーロンはな? ミスリルの王である前に一人の人間で、そしてアイリスの父なのだよ。親が娘の心配をして何が悪い?」
「……いえ。全く。王という立場にありながらその発言が出来ることを、私は素直に尊敬しますよ。うちの親父殿にも聞かせてやりたいくらいです」
言った。言いきった。
自分の兵が近くにいないとは知っていても。
質問を投げかけた相手。それは他国の公子だ。
政治的な弱みに繋がりかけない発言を。だがしかし。ミスリル王は。
何でもないことのように。当たり前のように。はっきりとそう断言した。
思い出す。唐突に思い出す。ミスリル王の評価のひとつ。
冷静沈着。質実剛健。そんな如何にも王らしい噂の中に、ぽつんとひとつ。
――『家族思いで、子煩悩』という、至極一般的な評価があったことを。
「尊敬! 尊敬か! そう言ってくれるのは有り難い話だがな。だが、レオンよ。カナリア公国の公子よ。お前はこの先を。この先の話を聞いても、同じように余を尊敬してくれるかな?」
王は哂う。笑うのではなく、哂う。
まるで自らを痛めつけるかのように。その痛みを楽しむかのように。
「もう、アイリスは何も言ってはくれぬだろうと。その意志も。気持ちも。余に伝えてくれることはないだろうと。アイリスがアイリスである限り。第十三王女という立場がある限り。余と違い、生まれついての王族である娘は、その呪縛から逃れることは出来ず、その本心を語ってはくれぬだろうと」
また一口。喉を鳴らして酒を呷った王は言う。
自らの罪を、衆目の下に晒す。
「事ここに至り、余はいっそのこと、そういった諸々全てから娘を解放してやろうと考えたのだ。王族という立場を捨てた娘が、ハルキ・ヤマミズ。貴様についていくと言うのなら、それを認めてやろうと。娘がそれを心の底から望むのであれば、親としてそれを祝福してやろうと。だがしかし、余が『好きにしろ』と言っても、アイリスはそれを由とはしないだろう。……ならば、と」
ぐしゃりと。そんな音を立てて王は革袋を握り潰す。
赤い葡萄酒が地面を濡らす。
まるでそれは、王の心から滲む血のようにも見えて。
「余は。余はな、魔道にこの手を染めたのだよ。王としてしてはならぬことをしでかしたのだよ。アイリスの本心。それを知る為に。それを解放する為に。余は禁断の魔法を、禁じられた魔法を、娘に対して使ったのだ」
声に苦悩の色を濃く滲ませ。
顔に後悔の色を強く滲ませ。
それでも王は言葉を止めない。
それが自らを痛めつける鞭なのだとしても。
それが自らの威厳を失墜させる行為だと知っていても。
「……闇系統魔法、【サキュバスの瞳】を、な」
――月夜の舞台は、いよいよ終幕に向けて加速していく。




