第八話 重なる影
……うん。正直、想定していた中で一番厄介な反応だ。
ぽろり、ぽろりと涙を零すアイリス姫を見て、俺はそう思う。
これ。こういう反応をされると困るから、俺もあんなセリフで登場したのに。
気障すぎて思わず噴き出してしまう、そういう反応を期待していたのに。
笑いながら。せめて泣き笑い状態で抱きついてくれたのなら楽だったんだ。
頭をポンポンと軽く撫で、にっこり笑ってあげられたんだ。
だから姫さあ。泣きながら俺の名前を呟くのはやめようぜ?
さすがの俺だって、そういう反応されたら困っちゃうんだぜ?
――だって。だってそうだろう?
いろいろと聞きたいことがあるんだ。
いろいろと話したいことがあるんだ。
でもそれは。俺のその欲求は。ここではぐっと堪えて。
何はともあれ、まず、姫をさらって逃げようってそう決めていたのに。
どうして泣いちゃうんだよ? 嬉しくないのかよ?
俺は。俺はちょっとさ。認めたくはないけどさ。
ちょっとは嬉しかったんだぜ? 姫。お前と再会できて。
師匠から、ちょっとは話を聞いていたから。
師匠から、少しはお前の気持ちも聞けたから。
恨みつらみよりも再会の嬉しさを。涙よりも笑顔でそれを。
共に分かち合うことは、もう出来ないのか? 俺たちは?
――唐突に。唐突に思いだす。三ヶ月前の姫の様子を。
ああ、なるほど。ようやく、ようやく実感を伴って理解できたよ。
ふざけていなきゃ。奇行で本心を隠さなきゃ。
互いの顔を見ることも出来ないんだ。今の俺たちは。
だから姫は、あんな言動を。
泣かなくて済むように。泣いて俺を困らさせないように。
我慢して我慢して我慢して。笑顔で泣き顔を上書きして。
おかしくなった振りまでして、俺に会いに来たのだ。
辛いよな。本心を隠すのって。
きついよな。泣くのを我慢するのって。
なら今だけは。今、この時だけは。
せめて俺が。俺だけは。今度は俺が。
「なんだよ。なーんで泣いてんだよ? せっかく迎えに来てやったのに」
俺が笑ってやろう。姫の代わりに笑ってやろう。
姫が犯した罪も。姫が頑なに隠しているのであろう秘密も。
その全部を。今は忘れたふりをして。
「ハルキ様……。ハルキ様……? どうして? 何故ここに……?」
涙が止まらない、止められない姫は。
拭っても拭っても、後から後から溢れてくる涙を止められない姫は。
俺の顔を見ることが出来ず。俺に顔を見せてくれることもなく。
ただ俯き、両手で目を抑え。それでも、俺の名前を呟く。
「助けにきた……じゃ、ねえな。うん。やり直し!」
違う。ここはこうじゃない。
俺は付けっぱなしだった仮面をとり、姫の前で膝をつく。
力なく垂れ下がる、彼女の腕を。その指先を。恭しく、とる。
「アイリス姫。貴方のナイトが、囚われの姫を御助けに参りました」
気障? ええかっこしい?
上等だ。何とでもいってくれ。
でもな? でもさ?
男なら絶対、ここは決めなきゃいけないだろ?
男には気障だろうが臭かろうが、格好つけなきゃいけない時があるだろ?
後で思い返して奇声を上げつつベッドをゴロゴロ転がり回る覚悟を決めて。
それでも俺は。この奇麗なお姫様の為に、思いっきり格好をつける。
「どうして? どうしてわたくしのことなどを……?」
「姫が困っていると、師匠から聞きました」
「わたくしはハルキ様を裏切り、勝手に結婚しようとしているのですよ?」
「姫自身の意思ではないと、それも師匠から聞きました」
「……わたくしは、貴方様に、嘘を、隠しごとを……」
「……それも、少しは師匠に聞きました」
ぴくり、と。姫の腕が強張る。
ああ。やっぱり。やっぱりな。
師匠は言っていた。『私に話せることは多くはありません』と。
つまり秘密はまだある。隠されていることはまだある。
師匠の口からは言えない秘密が。
アイリス姫が抱えている秘密が。
それを証明するのが、今の言葉。今の反応。
姫は。アイリス姫は。まだ何かを隠している。
――でもね?
「……いいのです。アイリス姫」
「な、何がでしょう? 何がですか? ハルキ様?」
話したくないのなら、今は無理には訊きませんよ。
まず身の安全の確保。姫の自由の確保。
それからでもいい。
こいつはあれからずっと、その罪を償おうとしていたことを。
今の俺は知っているから。聞かされているから。
……だから、もう。
「さあ、行きましょう姫。外で師匠が待ってますよ?」
「アイラ師匠が……。では、やはりこの襲撃は」
未だにドでかい破壊音を繰り返し発生させているあのお人。
そろそろ少し自重したほうがいいんじゃないかなあ? 師匠も。
魔力切れ起こしたって知りませんぜ?
「はい。師匠と、俺の友人の仕業です。ですから、早く」
「……いえ。わたくしは行きません。行けません。ハルキ様」
「どうしてですか? もしかしてこの結婚に前向きになったとか?」
「そんな訳ありません! わたくしは! わたくしは……っ!」
そこまで言いかけて口を噤んでしまう姫。
探るような視線で俺の方を見詰める。
ああ。そうか。なるほど。
俺がどこまで知っているのか、姫には分からないもんな。
迂闊なことは口走れないか。
「姫がどうして結婚を拒んだのか、その理由を俺は知っています」
「…………っ!」
知られたくなかったのか。それとも知って欲しかったのか。
姫がミスリル城から離れたくなかった理由。
姫がそれを。召喚魔法陣を修理していることを隠した理由。
それは俺が姫を恨めなくなってしまうから。
自分はずっと恨まれて然るべきだと、そう思い込んでいるから。
「……ハルキ様は、どこまで、どこまで聞いているのですか?」
「どこまでというか、そこまでですよ。結婚を拒んだ理由くらいまでです」
「……なら、分かるでしょう? わたくしは行けないのです」
「どうしてです?」
「もうこれ以上、ハルキ様。貴方にご迷惑をおかけすることは出来ません」
「別に俺は迷惑だなんて思っていませんよ?」
「この結婚の邪魔をすれば、父上が、ミスリル王が黙ってはいませんから」
「あのクソ親父のことなど今はどうでもよろしい」
「駄目です。駄目ですよ。ハルキ様。わたくしのことなどもう忘れて」
「忘れませんよ。忘れられる訳ないじゃないですか」
いやいやと。我儘な幼子のように。
静かに首を振り続ける姫に向け、俺はその一言を言い放つ。
ずっと。ずっと思い続けていたその一言。
アレクさんに諭されて、姫に伝えようと思ったその一言。
「初恋の相手のことを、そう簡単に忘れられる訳ないじゃないですか」
ああ。言った。言っちまったよ、おい。
俺の恥ずかしい黒歴史が、たった今、もうひとつ追加された。
大きく目を見開き、涙どころか呼吸まで止めた姫。
赤面の余り、まともにそれを見ることも出来ない俺。
でも仕方ない。これは言わなくてはならないことだ。だって。
「……結局、そこに行きつくんですよ。姫」
「……そこ、とは?」
二年前の因縁。そのスタート地点。
俺たち二人がすれ違ってしまった理由。原点。
「俺はね? 姫? 今は結構幸せなんですよ。仕事も充実していて。プライベートも充実していて。この世界で生きていくのも悪くないなって、そう思い始めているんです。でも、それでも。それなのに。姫のことを許せなく思う自分がいる。それを止められない自分がいる。……何故だと思います?」
許せないといった俺のセリフ。それを聞いた時。
姫は一瞬だけ辛そうに顔を歪め、でも静かに口を開く。
「それは……わたくしが許されない罪を犯したから、ではないでしょうか?」
「半分正解で、半分間違っていますね。その答えは」
罪は償えばいい。まずは謝ればいい。
お人好しと言われようが何と言われようが、俺の原則はそれだ。
勿論、限度というものはあるのだろうが。
あの日。二年前のあの日。
まずはミスリル王から召喚魔法陣が壊されたと聞いて。
次に姫が、自分がやったと自白してきて。
最後にリリス様が、黒幕はミスリル王だと教えてくれて。
俺はその場で動くべきだったのだ。
怒ってもいい。怒って当然の場面だ。
何しろ帰還の約束を反故にされたのだ。
……でも、俺にはそれが出来なかった。何故か? その理由は?
「俺はね? 姫? 姫に裏切られたと思ったんですよ。自分が好きだった相手に裏切られたと、そう感じちゃったんですよ。でも、俺は臆病だったから。その現実から目を逸らした。逃げ出したんですよ俺は。だって仕方ないじゃないですか。本当に好きだったんですから。姫のことが。初恋だったんですから」
姫のことが好きだった。
多分、きっと。幼いながらに。その想いは本物だった。
だから、だからこそ。裏切られたという現実を受け入れられなかった。
王を、姫を追求し、それが確定してしまうことを恐れたのだ。
全てを曖昧にして、そのままにしてしまったのだ。
……嫌なことから逃げ出す、子供のように。
「……その結果が、きっとこれなんです。俺は姫から謝罪の、罪を償う機会すらを奪い、俺自身の胸の中に抜けない刺を残し。結局、誰も幸せになれない。俺は、いや、違いますね。俺と姫は、あの日あの時、ちゃんと喧嘩するべきだったんです。納得いくまで話し合うべきだったんです。……勿論、俺が姫を許せたと、そう断言することは出来ません。いやきっと、許せなかったと思います。俺は器が小さい男ですから。でも」
二年前。俺は今よりもずっとガキだった。
二年が経ち。俺は少しは大人になった。
時間は魔法だと、アレクさんはそう言っていた。
怒りも、想いも。いつか失わせてしまう魔法だと。
ならばきっと。これは最後のチャンス。
怒りも、想いも。まだ完全には失くしてはいない今日この日に。
「……さっきも言いましたが、姫。今の俺は結構幸せなんです。多分、そういう境遇にいるから。俺を幸せにしてくれる人がいるから。だから、こういう気持ちになれたんだと思います。……話を、しませんか? 喧嘩になったっていいでしょう。もしかしたらその結果、俺と姫はもうこれっきりになってしまうかもしれません。でも、それでも。このまま互いに言えないことを、言えない気持ちを抱えたまま生きるよりは、それはずっとずっとマシなことなんじゃないでしょうか?」
俺の仕事は配達人だ。人と人の間を取り持つ仕事だ。
誰かに誰かの気持ちを届けるのが、俺の仕事なのだ。
だから今日は。今日だけは。
俺が俺の気持ちを届けよう。正直な気持ちを届けよう。
もういいだろう? 二年間も立ち止まっていたのだ。
長い長い初恋に、きっちり蹴りをつけようじゃないか。
「勿論、今すぐにとはいいません。俺がこの考えに至るまでに長い時間がかかったように、姫にだって気持ちを整理する時間が必要でしょう。ですから、待ちます。俺はそれを待ちます。……ですが、今ここで姫に拒絶されてしまうと、その話し合いの機会すら永遠に失われます。さすがの俺でも、それから師匠でも。カナリア王国の王宮にまで押しかける度胸はありません。……ですから、姫? ここはどうかひとつ、俺と師匠の顔を立てて、素直に拐かされてはくれませんかね?」
最後のセリフは俺らしく。ちょっとだけ茶目っけを加えて。
少しでも姫の気持ちが軽くなるように。
こちら側に。俺の方へ傾いてくれるように。
昔好きだった彼女に。
今は好きかどうか、まだわからない彼女に。
でも、今でも真っすぐに俺を好いてくれている彼女に。
素直に。思いっきり。自分の気持ちを伝え。
俺は立ち上がる。改めて姫の目を見詰める。その手は離さずに。
――窓から差し込む月光が、姫の顔を照らす。
綺麗に編み込まれた金髪がキラキラと輝き。
澄んだ泉のような碧眼は、今も少し涙に潤み。
前に会った時よりも、また少しやせたかな?
以前はふっくらしていた頬は、すっとシャープなラインを描き。
少女から大人の女へと変わっていく、その過渡期。
人生で一番、女性が美しくなる今この時。
「……だから、駄目だと言ったのです」
「……姫?」
「許してしまうから。わたくしを許してしまうから。ハルキ様は優しいから」
「優しくなんてありません。長い間、不義理を重ねてきました」
「……だから、駄目だと……言ったのです……」
「……姫?」
「お会いしたら、自分がこうなってしまうことを、知っていましたから……」
「早く言ってくれれば良かったのです」
「……ハルキ、様?」
「なんですか? アイリス姫?」
すっと。その体を寄せてくる。姫が。躊躇いがちに。
俺の前に。一歩だけ離れた距離に。久しぶりに。二年ぶりに。
まだぎこちないけど。お互いに遠慮があるけれど。
でも、それは。間違いなく、前に進む大きな一歩。
「わたくしは、貴方を、心からお慕い申し上げております」
「……俺は、まだ、自分の気持ちに整理がついていません」
「いいのです。それでも。でも、それでも」
「はい。これから仲良くなれる機会は、きっとあります」
この二年に蹴りをつけたら。
二年前の事件の呪縛から、お互い逃れることが出来るのなら。
俺の中にある二つの気持ち。
好きだったというプラスの気持ち。
裏切られたというマイナスの気持ち。
足されることなく。引かれることなく。
双方向で存在し続けた中途半端な気持ちが。
加算され減算され、それでもプラスの気持ちが少しでも残ったのなら。
その時に。また。始めればいい。
改めて、俺と姫の、二人の関係を。
「……わたくしを攫って、逃げて貰えますか? ナイト様?」
「……はい。アイリス姫。この山水晴樹の命に代えても」
――差し込む月光が作る二人の影が、そっと重なった。
× × ×
――塔を揺るがすような轟音と、多数の兵たちの上げる雄叫び。
足下から響いてきたそれは、俺の【土障壁】が突破された証拠。
この部屋に兵が殺到してくる合図。
うむ。ミスリル兵はあれだな? 空気を読まないな?
二年ぶりの和解の瞬間を、もう少し堪能していたかったのだけど。
どうもそうはいかないらしい。
「姫?」
「はい。何でしょう? ハルキ様」
もう泣いてはいない姫。まだちょっと目は赤いけど。
凛々しいお顔を取り戻した彼女に向け、俺は尋ねる。
「この塔の出入り口は?」
「本館二階から伸びている、あの渡り廊下だけです」
むう。やっぱり予想通りか。
もともと要人を幽閉する為にあるのだろう。この塔は。
だとしたら。うん。そうだな。
天井にあるのが明り取りの窓。
そして部屋の真ん中にあるのが大きな窓。
ここだな。ここからしかないよな。
「姫? ちょっとお尋ねしますが、俺のこと信じられます?」
「世界で一番信じております」
うわお。即答。
相変わらず姫のこういうところには、ちょっと、うん。少し、引く。
貴女はもう少し、俺を疑った方がいいと思いますよ?
でもまあ。信じてくれるというのならそれに応えましょうかね。
俺はそんなことを考えつつ、再び仮面を身に付ける。
階段を駆け上がってくる足音は、もうすぐそこまで迫っている。
「では姫。失礼しますね」
「はい? ハルキ様なにを……って! うひゃあっっ!?!?」
王族にあるまじき声を上げた姫を、両手で抱きあげる。
膝の後ろに腕を通し、背中に当てた手でそれを支え持ち上げる。
……そう。所謂「お姫様だっこ」というやつである。
「ちょ、ハ、ハル、ハル、ハル、ハルキ様!?」
「ちょっとだけ我慢していてくださいね? お姫さま」
真っ赤な顔で金魚のように口をパクパクさせる姫に向け、ウィンクひとつ。
ああ、よかった。仮面をつけていて。
おかげで俺の方も思いっきり赤面しているという事実はばれない筈。
こういうのはね? さらっとやるのが格好いいと思うのですよ。
顔を赤くしながらやったら減点ものだと思うのですよ。
今の俺はちょっと、いやかなりイケている筈。うん。
「お、おも、おも、おも! 重くはありませんか!? わたくし!?」
「羽毛のように軽いですよ?」
これは事実。ほんと、女の子ってなんでこんなに軽いんだろ?
俺と同じ成分で構成されているとはとても思えないぞ?
軽々と姫を抱きあげ、正面の大窓。その窓枠に足をかける。
その瞬間を狙ったかのように、ドアを開け飛び込んでくるミスリル兵。
「貴様! 怪しい奴め! 姫を放せ!」
やだよん。放してなんかやんないもんねーだ。
「ふははははっっ! 遅いぞ明○君! 姫は頂いた!」
「あ、○智君!? お前は一体何を言ってるんだ!?」
あー。やっぱり通じないよなあ。
怪人二○面相ゴッコ。
こういうとき、ここが異世界なのだと実感させられるよな。
いやまあ。それはともかく。
「さらばだ! 諸君!」
「あっ! 貴様! 待て! ここは塔の――」
その兵の声を最後まで聞くことはなく。
ひらりと。姫を抱えたまま大空へと飛び出した俺。
重力に捕まり、自由落下の最中。
目を瞑りぎゅっと俺を抱き締めてくる姫の感触を楽しむ余裕はさすがになく。
イメージ。イメージを強く持つ。
風の力を解放する。“それ”が成せると強く信じる。
魔法とは、信じること。そして俺の強みは、応用が利くこと。
信頼する師匠のその言葉を信じる。
みるみる迫ってくる固い地面。
その落下点と自分の体。その間に上昇気流を発生させる。
自由落下のダメージを。速度を。少しずつ少しずつ減少させる。
――ズダン! と。そんな大きな音を立てて。
両足でしっかりと着地を果たす。
途端に足から全身に痺れるような痛みが走る。
さすがに。さすがに。
付け焼刃の魔法では落下ダメージ全てを殺すことは出来なかったようだ。
まあ、この様子なら骨折などの心配はなさそうではある。
ジワリと滲む涙は、意地を張って無理やり無かったことにする。
「……姫? もう平気ですよ?」
「……あっ! は、はい!」
未だに目を瞑ったままプルプル震えていた姫に声をかける。
相当驚いている様子ではあったが、ま、それも仕方ないことだろう。
まさか窓から飛び降りるとは、姫も予想していなかったろうしね。
そのまま。姫を抱き抱えたまま走り出す。
無人の中庭を横切り、出来る限りの速さで。
多少揺れるだろうが、そこは我慢してもらおう。
「ハ、ハルキ様!? どちらへ!?」
「正面玄関前です! 師匠たちはそこにいます!」
いると思うんだけどな? でも、どうだろう?
さっきまで響いていた戦闘音が、今は一切聞こえない。
……もしかして。師匠たち。制圧されたりしていないよな?
そんな心配は全くの杞憂だった。
戻ってきた俺が見たもの。
それはまさに『死屍累々』という言葉そのもの。
本来は広い筈の中庭。玄関前。そして開け放たれた玄関ホールにまで。
足場がないほどに重ねて倒れ伏す、ミスリル兵の方々。
たまにウンウン聞こえるのは、気絶まで至らなかった人たちの唸り声。
「お? ハルキ君おかえり。やったじゃん」
冷やかすように、軽く口笛を吹いてからそう述べるカル・ベルン。
その体には一筋の傷も付いておらず。息すら乱れておらず。
「ハル? やりましたね? 百点満点、いえ百二十点満点を上げましょう」
未だお姫様だっこのままである俺たちを見つめ、そう呟く師匠。
満点越えの評価の理由は、嬉しそうに顔を綻ばせる姫の笑顔か。
「師匠たちこそ。よくぞご無事で」
さすがに照れ臭くなり、姫を下す。
俺の感嘆の言葉に、二人は答えて曰く。
「イマイチ歯ごたえなかったけどねえ」
「まあ、この程度なら。カル・ベルンの助力があれば余裕ですね」
歯ごたえがないと。余裕だと。
そう言い切りましたよこの人たちは。
ミスリルの精鋭。その五百をたった二人で相手にしながら。
やっぱりこの人たちには敵わないと、そんなことを考える俺。
言葉を失った俺の代わりに、口を開いたのは姫であった。
「あ、あの。アイラ師匠? この度は、わたくしなどの為に……」
「いいのです。好きでやったことです。……お帰りなさい。姫」
駆け寄ってきた姫を優しく抱きとめる師匠。
ぽんぽんと、何も言わなくていいと、手のひらで背中に伝えながら。
いいシーンだ。すげえいいシーンだ。でも。
残念ながら師匠。悲しいかな身長差がありすぎるせいで。
師匠が姫に甘える子供のようにしか見えません。
まあ、うん。黙ってようね。そういうことはさ。
俺は空気が読める男なのだ。
「……そちらの剣士の方も。ご助力、感謝致します。お名前を伺っても?」
「カル・ベルンと申します。アイリス姫。お目にかかれて光栄に思います」
姫の言葉に完璧な一礼で、いい笑顔で応えるカル。
「申し訳ありません。カル様。今のわたくしには、貴方の働きに報いる品を送ることすら出来ないのです。どうかご容赦を」
「なんの。私はハルキ君との友誼を持ってこの戦いに参加致しました。高名なアイラ殿と肩を並べて戦えたこと。ハルキ君がアイリス姫を無事助け出せたこと。これこそが私にとって何よりの褒美でございます」
むう。相変わらず如才ない奴め。
なんだカルお前? 姫に気があるんじゃなかろうな?
それはちょっと素直に応援は出来ないぜ?
いや別に姫は俺のものじゃないけど。
俺のものにしようという気持ちも、今はまだないけど。
「姫? 話は尽きませんが、今はこれからのことを」
「あ。はい。アイラ師匠。その通りですね」
師匠ナイス。ナイスです。
よくこの空気を壊してくれ……じゃない。
「そうですね。師匠、これからどうします?」
「とりあえず、転移魔法陣の遺跡まで戻りましょう」
うん。それがいいな。
この後、どこかに逃亡するにせよ何にせよ。
まずは拠点に戻ることが最優先……うん?
――その音は、大地を揺るがすその音は、街道の方から聞こえてきた。
目を凝らす。月の光に照らされる街道の先へと視線を向ける。
その先。ずっと先に、ちらちらと篝火が見える。それが動いている。
真っすぐこちらに向かってくる。
人の歩く速度、それを大きく上回る速さで。
「……そんな、まさか」
師匠の呟きを、思わず漏れた声を。圧倒するその音。
蹄が石畳を削る音。馬を走らせる騎兵の掛け声。
風になびく旗に描かれているのは、あれはミスリルの紋章。
「……参ったね。ハルキ君」
もう、目を凝らす必要もない。
そんなことをしなくても、はっきりと見える。
数百、いや恐らく千を超える軍を率いて馬を走らせる先頭の男。
白髪。白髭。しかしそれは老いの証拠ではなく。生まれ持った髪色。
五十を前にして未だ衰えぬ、鋭い眼光と鍛え抜かれた肉体。
俺は奴を見たことがある。言葉を交わしたこともある。
だって奴は。あいつは。あの男は。
「……ミスリル王……」
――アーロン・フォン・ミスリルが登場し、長い夜は、まだ終わらない。




