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第二話 たったひとつの助ける理由

 黒い靴はところどころ泥に汚れ。

 黒いレギンスは一部が裂けて肌の色が露出し。

  

 黒い膝丈長袖ワンピース。その裾にも解れが見られ。

 黒い古ぼけたぼろマント。それを寝具代わりに床に敷いて。

 黒いとんがり帽子。それは今は外され枕元に置かれ。

 そして、腰まで届く長い黒髪は、相変わらずビロードのように滑らかで。


 細い足も手もその指先までも、全てが作りもののように完璧な造形の師匠。

 床に横たわり、動かない彼女は、いつもよりももっと人形めいていて。


 声をかけても動かないのでは、と。

 このまま永遠に目を開けることはないのでは、と。

 そんな心配さえ、俺に抱かせる。



「……師匠?」



 軽く揺すってみても反応はない。

 その体の軽さ、細さを改めて知るだけだ。


「……起きてください。師匠」


 触れた頬の滑らかさよりも、その陶器のような冷たさに驚く。

 もともと体温は高い方ではなかったと思う。

 俺を撫でてくれる手は、いつもひんやりと冷たく、心地よかった。


 それを考慮したとしても、この体温の低さは異常だ。

 悪い病気なのではなかろうかと、そんな嫌な想像すらしてしまう。


「師匠ってば」


 その白い、白いというか青い、青いというか透明な顔を見て。

 規則正しい吐息を聞いて。かすかに上下する胸を見て。

 俺はようやく真相に辿り着く。


 見たところ、体に異常は見受けられない。

 目に見える外傷もない。

 体温がやや低いのは気になるが、呼吸も穏やかだ。


 ただただ、深い眠りについているだけの、状態。

 つまりこれは。そう。あれだ。あの現象だ。



 ――魔力の、枯渇。



 以前、ドレインタッチで眠らせた姫と同じ症状。

 考えてみれば当たり前のことである。


 師匠がこの転移魔法陣を封じている石板、あれを動かすのには、自分の全魔力を注ぎ込まなくてはいけないと言っていたではないか。


 だから大丈夫。師匠は病気でもなんでもない。

 睡眠によって、枯渇した魔力の回復を図っている最中なのだ。


 ならば。


「……師匠? ちょっとだけ失礼しますね?」


 その細い、下手に触れたら折ってしまいそうなくらい細い首筋へ。

 静かに。触れるか触れないか程度の軽さで。右手を添える。


 全回復させる必要はない。

 師匠が意識を取り戻し、俺と会話できる程度でいい。

 下手に一気に全回復するよりも、師匠にはもう少し、休んで貰いたいから。


 だから。少しずつ。少しずつ。

 師匠の華奢な体に負担をかけないように注意して。



「…………ん、んぅ」

「……師匠?」



 待つことしばし。

 ようやく師匠は、そんな声と共にゆっくりと瞼を開く。


 真冬の夜空のような冷たく黒い瞳は、まだ焦点を結べておらず。

 普段から少し眠そうな目は、今はいつもにも増してトロンとしていて。



「……ハル?」

「はい! 師匠! お久しぶりです!」



 でも。それでも。

 その愛らしい唇から。俺に名前を。俺の愛称を呼ぶ声がして。

 それをようやく。ようやく聞くことが出来て。

 俺が安心したのも束の間のことで。


「ふむ……ハル、ですか」

「はい! ハルキです! あなたの弟子ですよ!」

「……と、いうことは、これは夢ですね?」

「いえ現実ですけど?」


 おお。師匠寝ぼけてらっしゃる。

 いやまあ、もともと低血圧っぽいし。

 こういうことは旅の最中でも何度もあったし。

 そういう意味ではこっちも慣れたもんだったけど。


「……あんな手紙を書いたから、ですかね? こんな夢を見る理由は」

「手紙? ですか?」


 なんのことだろう?

 師匠、俺宛ての手紙でも書いていたのかしら?


「だとすれば、私もまだまだですね」

「そんなことはないと思いますけど……」

「でも、夢ならば」

「いえですから夢ではないと……。ひぇっ!?」


 ちょっとちょっとちょっと! 師匠ってば! 師匠ってば!

 ギュッて! 俺のことギュッて! ギュッてしてきましたよこの人!?


 そりゃ俺だって驚いて乙女みたいな声だって出ちゃうというものですよ?

 だって男の子なんだもん!


「し、師匠!?」

「ハル? うるさいですよ? 寝ているのですから静かにしなさい」

「いえ師匠? 俺は起きてますし、師匠だってもう起きているのでは?」

「そんなことないですよ? 寝ていますよ? ハルの夢を見ていますよ?」


 そんな意味不明なことを呟きながら、俺の胸に頬をすり寄せてくる師匠。

 ああ。このスベスベの感触! 揺れる師匠の黒髪の芳しい香り!


 うん。これは夢だ。もう夢でもいいや。

 師匠がそう言ってるんだから間違いない。


「そうか。これは夢だったんですね。師匠」

「そうですよ。ハル。ようやく分かりましたか?」

「はい。今まさに、夢見心地です。俺」

「そうですか。それは良かった。私も今、とても穏やかな気持ちで……」


 ピタリ、と。俺の胸の中にすっぽりと埋まった師匠の動きが、止まる。

 そのちっちゃい体がプルプルと震え出す。うむ。小鳥のようだ。可愛い。


「…………ハル?」

「はい。師匠? 何でしょうか?」

「ハルは、ハルですか? 本物ですか? 夢ではなく?」

「本物のつもりですが、師匠が夢と仰るなら、夢でもいいかなと思っています」


 さわさわと。ペタペタと。師匠の小さなおててが俺の体を弄る。

 背中から、腹へ。そして胸へ。首へ。最後に頬へ、と。


 確かめるように。冷たい手で。恐る恐るといった風情で。

 消えて無くなることを怖がるかのように。


「…………ハル、ですよ、ね?」

「はい。ハルキ・ヤマミズです。師匠、お久しぶりです」

「…………本物、なんですね?」

「えーっと。はい。まあ。実体も足もありますね」



 がばっ!

 そんな音が立つくらいの勢いで。師匠が俺から身を離す。

 ああっ! 師匠が! 俺のちっこい師匠が離れていってしまう!

 カムバック師匠! 帰ってきて師匠! 俺の胸の中に!



「……今のは、夢です」

「はい! 夢のような体験でした! 師匠に抱き締めて貰えるなんて!」


「だから夢です夢です夢なんです。現実で起こった事象ではありません」

「えー? でも俺の胸には師匠の温もりも香りもしっかりと残ってますけど?」


「違います違います。勘違いです。ハルは私に魔法をかけられたのですよ」

「はい! 素敵な恋の魔法! 頂きました! お代わりが欲しいくらいです!」


「違うと言っているでしょう? 今のは闇系統魔法です。幻です幻想なのです」

「幻想というには、こう。何といいますか。妙に質感が現実的で……」



 仮にこれが師匠の見せた幻覚なのだとしたら。

 もうちょっとこう、胸部の質量を増して見せたのではないかなーと。


 前から言ってますけど、俺は好きですけどね。師匠の慎ましげなお胸。

 でも師匠は気にしてますものね? 幻覚なら見栄くらい張りますよね?


 それがこう、ですね。さっき押し付けられたモノはですね?

 うん。まさにこれが「師匠のっ!」感じの、平面チックなアレでしたし。


 それにそもそも。師匠? 俺の記憶が確かならば、師匠は。

 二系統四属性の魔法のうち、闇系統だけは使えなかったような気が……?



「とにかく。今のは夢なのです。だから忘れなさい」

「……はあ。まあ、師匠がそう仰るのなら……」


 忘れる訳ないですけどね。

 一生の宝物にする予定ですけどね。

 牛のように反芻して、何度も何度も思い出してニヤニヤしますけどね。


「コホン……。ハル? 君はどうしてここへ?」

「そりゃあれですよ。師匠が潜伏するならここしかないかなーと」


 いろいろ考える……までもなかった。

 ミスリル王国の追手が絶対に入ってこれない所といったら、ここしかなかった。


 膨大な魔力を消費しないと入ることが出来ないこの地下室。

 師匠が潜伏するにはうってつけだと思ったのだ。

 そしてその考えは間違っていなかったのだ。


 だがしかし。それは。俺のその答えは。

 師匠の期待するものとは、少しだけずれていたようで。



「いえ。そういう意味で聞いた質問ではないのです。ハル?」

「えーっと。はい。何でしょう?」


「私はこう聞きたかったのです。『何をしにここに来たのですか?』……と」

「そんなの決まってるじゃないですか」


 何を今更。何を今更、ですよ。師匠。

 当たり前すぎて、今更言うまでもないことですよそんなの。



「師匠を助けに来ました」

「ハル? やめておきなさい。気持ちだけは有難く受け取っておきますから」



 いやいや。意味分かんないです。

 気持ちだけってなんですかそれ?


「その気持ちだけで十分です。これ以上、ハルに迷惑はかけられません」

「迷惑なんて、かけられた覚えはありません。……あんまり」

「かけてます。そう言ったじゃないですか。だから、駄目です。駄目なんです」

「でも、それでも俺は、師匠の役に立ちたいんです」


 確かに俺じゃ頼りにはならないかも知れませんけど。

 でも俺は、やっぱり師匠のお役に立ちたいのです。


「役に立たないなんて、そんなことある訳ないじゃないですか」

「だったら。ぜひ」

「いけません。君には自分の仕事があるでしょう? 責任もあるでしょう?」

「その、『俺が責任を持たなきゃいけない人』に、背中を押されてきました」


 そうだ。ここでおめおめ引き下がれるもんか。

 俺を涙で見送ってくれた彼女に報いることが出来ない。

 そんなことしたら彼女は、シャルは許してくれない。


 いや、許してくれちゃうかな?

 あの子、俺が何をしても全面的に受け入れちゃいそうだし。


 何ていうか、懐が深いというか、大らかというか。

 いやまあ。今は当家の優秀なメイドさんについては置いといて。


「それに。師匠? これは師匠の為だけじゃなく、俺の為でもあります」

「ハルの、為?」

「はい。師匠が動いているのは、どうせまた姫の為なんでしょう?」

「それは、はい。その通りですが」


 ならば、間違いない。

 それならば、俺の目的と師匠のそれは、合致する筈。



「だったら。ぜひ俺を連れていってください。俺、覚悟を決めましたから。師匠と姫。ふたりとちゃんと話をしようって。あの日のことも。三ヶ月前のことも。きちんと蹴りをつけようって。そうしないと俺も、前に進めないんです。いろいろと考えることはあっても、結局そこで立ち止まっちゃうんです。もうそろそろ、きちんと真相と向き合うべき時だと、そう思いました。だから」



 結局、そこが原点なのだ。


 俺がこの世界にいる理由も。

 俺が元の世界に戻れない理由も。


 それを受け入れ始めている現実も。

 この世界で生きる意志を固めつつあることも。


 その全てが、あの日のことから始まっていて。

 そしてそれは、まだきっと、終わっていないのだ。

 だからこそ。今度こそ。今度こそは目を背けず。


 俺は真実の扉を開く。

 パンドラの箱を開ける。


 その奥に眠っている真実を。

 それとしっかりと対峙する為に。



「……ハルは、また少し、大人になりましたね」

「そう、でしょうか?」



 はい……と。小さく頷いた師匠は、俺に向けて手を伸ばす。

 彼女はもう、背伸びしても、爪先立ちをしても、俺の頭は撫でられない。


「本当に、本当に大きくなりました。もう、私の手が、届かないくらいに」

「そんなことないです。俺は今でも師匠に何ひとつ敵いません」


 何ひとつ、は、言い過ぎだったかな?

 少なくとも身長だけは勝っている。

 身長だけしか勝てていないというべきだろうけど。


「それに、師匠? さっきのはきっと、後付けの理由なんですよ」

「後付け、ですか?」


 ああ。そうか。そういえばあいつも同じようなこと言ってたなあ。

 俺の為に命を賭けると言ってくれた、悪友。


 あいつもきっと、こんな気持ちだったんだろうな。

 動く理由なんて、シンプルなものがたったひとつ、あればいいんだ。



「俺はただ単に、大好きな師匠に、死なれたくないんです。それだけですよ」



 好きな人を、大事な人を助けるのに、理由なんていらない。

 そうだろう? 悪友カル・ベルン。お前もそうなんだろう?


 光栄に思うよ。お前に。お前のような偉大な剣士に。

 そんな風に思って貰えるなんて。

 だから俺も、自分に正直になることに決めたよ。



 ……俺はこの人を、大事な師匠を、絶対に守る。



 師匠の頭が。片手で掴めそうな小さな頭が。

 今度は寝ぼけているのではなく。

 勿論、闇系統魔法の仕業などでもなく。


 間違いなく、自分の意思で。師匠自身の意思で。

 ぽすんと。小さな音を立てて。俺の胸の中に帰ってくる。



「……ハル?」

「……はい。何でしょうか? 師匠?」


「私を、助けてください。お願いします」

「喜んで」


「それから今だけ。今だけでもいいので。こうしていても、いいですか?」

「いつまででも。師匠の気が済むまで」


「……ハル?」

「はい」



「……ありがとう。ハル。私も君が、大好きです」




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