第八話 夢
――ミッテンベルグ家パロス屋敷在住の、某隻眼執事長の弁。
「いやあ、やはり勧誘されましたか。予想どおりですな」
いや予想どおりって。
あんた仕組んだでしょ? あんたの仕業でしょ全部?
「はてさて。一体何のことでしょうな?」
とぼけんのもいい加減にしてください。
それともそれ素ですか? 本気でボケましたか爺さん?
「これは酷いお言葉で。あまり年寄りをいじめないでくださいませ」
いじめられてんのはこっちの方ですよ。
全く。いいように手の上で転がしてくださりやがって。もう。
「私めの策などだだの蛇足でしたよ。御当主様はそれに関係なく、ハルキ殿? あなたを配下にと、そう望んだと思いますよ?」
……ですかね?
「あなたにはそれだけの価値があります。自信を持ってくだされ」
水剣流の【戦術級】に言われてもなあ……。
お世辞感がすごいですよ? 褒められている気がまるでしない。
「おや? 御当主様はそんなことまで言っていらしたのですか。いや、ハルキ殿。あなたはよほど気に入られたのですな。ほっほっほ」
そっすかね?
ルーデルさんと比べたら俺なんか屁みたいなもんですよきっと。
「御謙遜が過ぎますな。それに私めはもう、水剣流ではございません。今の私めはただのお節介な爺にすぎませぬぞ?」
そういえば「元」って言ってましたね?
引退したのですか?
「これ。これですよハルキ殿。この眼帯をご覧下され。水剣流といえば、足捌きと流水の動きがその真髄。片目で成せる業ではございませぬ」
あー……。すいません。
失礼なことを聞いてしまって。
「いやいや。お気になされないでくだされ。それに、そう。仮に私めがまだ現役だったとしても、今のハルキ殿には敵うかどうか……。いやはや」
それこそ謙遜が過ぎるってものです。
俺、ただの配達人ですからね?
「【速達】のハルキ。またの名を【無詠唱】。十五歳という若さで、一年でS級にまで上り詰めた伝説の冒険者。無詠唱で魔法を使いこなす凄腕魔術師。得意なのは土属性魔法、で、ございましたか? そんなお方が、今なんと?」
……調べたんですか? 俺のこと?
「正直、調べるまでもないという感じでしたな。この街の冒険者。特に南支部であなたの名を知らぬ冒険者はいませんでしたからなあ」
…………。
「そう睨まないでくだされ。仕事を依頼する際に、相手の素性を調べるのは貴族として当然のことでございます。そんな方に。大変お強いハルキ殿に。今後は荒事はお任せできるというのは、私めにとっても大変心強いことです」
決めてませんから。
まだ配下になるって決めてませんから。俺。
「おや? そうでしたか。我が御当主様に何か不満でも?」
そういう訳じゃないんですけどね。
俺にもいろいろ考えることがあるんですよ。
「左様でございますか……。まあ、私めは期待しつつ、ハルキ殿の返答をお待ちしておりますよ。最近、年のせいかすっかり足腰が弱くなりましてな。御当主様やカレンお嬢様の護衛を誰かに託せないものかと。そんなことばかり考えているものでして。……ハルキ殿になら、安心して任せられますから、な」
× × ×
――たまたま立ち寄った冒険者ギルドで、偶然会った某女神様のお話。
「そうですか。スズ公国の貴族に……」
そうなんですよ。正直、悩んでいます。
いいんですかね? 転移の魔法。
あれを貴族様の為に、というか俺の出世の為に使ってしまっても。
「私は別に困りませんし、止めませんよ? 前にも言ったと思いますが、晴樹さんには自由に生きて貰いたいので。それがあなたの人生にとってプラスとなるのであれば、どんどん利用すればいいと思います」
はあ。そんなもんですかね?
あれって結構危険な技術だと思うのですが?
「それは使う者の心次第でしょう。勿論、晴樹さんのように、平和な目的の為に、人々の笑顔の為に使って貰えるのが私の理想ですが、でも、晴樹さん? あなたが私に遠慮する必要はないのですよ?」
そう言って頂ければ、少しは気が楽になりますよ。
リリス様のご機嫌を損ねるのは、俺も嫌なので。
「そう、ですか。なら私も正直に言いますね? 貴族の配下となること自体は、私はそれほど思うところはありません。ただ、少しだけ、残念だな、と」
残念、ですか?
「はい。私、実は晴樹さんの今のお仕事、結構気に入っているのですよ。お手紙というのは人と人を繋ぐ縁です。晴樹さんのおかげで幸せになれた人が何人もいるでしょう? あのメイドさん、シャルロットさんもそうでしたし、その前のシルフィさん? でしたか? あの親子もあなたのおかげで救われました」
ああ。はい。
そこを褒めて頂けると、はい。俺もとても嬉しく思います。
「……その話を聞いて、私も少し、昔のことを思い出しました」
昔のこと、ですか?
「はい。私がまだ、人だった時のことを、ですよ」
はあ。そうですか。人だった時のこと……。
ええっ!? リリス様って元は人族だったんですか!?
「はい。驚くことはないでしょう。この世界の神にもいろいろなタイプが存在しますからね。生まれた時から神だった者もいれば、長い年月を生き、神に進化する魔物もいますよ? 竜神などはその典型的な例ですね」
はあ。なるほど。
では、リリス様の場合はどんな経緯で神様に?
「私ですか? 私の場合は、そうですね。……聞きたいですか?」
はい。聞かせてくれるなら、ぜひ。
「聞いて面白い話ではありませんけどね。私がまだ、人族の子供だった頃。私の住む村に山賊が押し寄せてきたのです。村人は私一人を残して全滅しました。母に庇われ生き延びた私は、自分と母の亡骸に誓いました。『必ず、復讐を果たす』と」
…………。
「不幸中の幸いというべきか、私は旅の魔術師に拾われ、野垂れ死にすることなく生きることができました。彼女から魔術を学ぶこと、そうですね。十数年くらいでしょうか? 成長した私は、件の盗賊のアジトを調べ上げ、復讐を遂げました」
…………。
「ただ、復讐を果たしたとはいっても、私の方もボロボロでしたからね。足とか取れかけてプラプラしてましたし。でもまあ、ここで死んでもいいかな、と。そんなことを思っていた私の前に、先代の【契約と約束を司る女神】が現れたのです。彼女の存在は、長い時を経て消える寸前でした。……彼女は私に後を託し、そして満足したように笑い、消えていきました」
……その、リリス様。
好奇心でリリス様の過去を聞いたりして、すいませんでした。
「ああ。いいんですよ。もう数百……コホン。かなり昔の話です。こうして思い出してみても、胸が痛むということも、もうありませんから」
そう、ですか?
そういうものなのですか?
「はい。長い時を生きるというのは、そういうことですよ。痛みも苦しみも、苦い思い出も。少しずつ少しずつ風化していく。……でも、そんな私にも、忘れられない思い出というのはあるのです」
思い出、ですか?
「はい。母のことです。私、母が大好きだったのですよ。娘って、子供の頃に誰でも『お父さんのお嫁さんになる!』って言うじゃないですか? 私は違ったらしいですよ? 『お母さんをお嫁さんにする!』って言っていたらしいです。父が苦りきった顔でそう教えてくれたことを、よく憶えています」
そりゃお父さんも困ったことでしょうね。
最愛の奥様を愛娘に奪われる訳ですから。
「全くです。……そんな私ですから、家族の縁というものは特別に尊く感じるのです。晴樹さん? あなたの仕事はそれを成せる。実際にあなたの【速達】で親子の縁を繋ぐことが出来た人がいる。私はそれを、とても素晴らしいことだと思っているのです」
あー、はい。少し照れますけど。
俺も家族は好きでしたからね。
そういう仕事が出来たのは、はい。
ちょっとだけですが、自分でも誇らしいと思っています。
「ですから、貴族の配下になっても配達の仕事は続けてほしいのです」
最大限、ご期待に添えるように努力致します。
それがリリス様の願いとあれば。尚更ですよ。
「はい。信じていますよ? 晴樹さん? ……ですが、たまには私にも、少しだけでも手助けをさせてください。これをどうぞ。晴樹さんに差し上げます」
はい? なんですかこれは?
腕輪みたいに見えますが?
「みたい、じゃなく、腕環ですよ。【リリスの腕環】と呼ばれているようです。人族の間では。つけると運が上がるとも言われていますね」
そうなんですか?
Lukの値が上がるとか?
「ら、らっく? いえ。実はそれは人族が勝手に言っているだけで、そういう特別な効果はありません。ただ、それには私の紋章が入っています。つまり、私の加護を得ているという証拠になるのです」
……えっと。あの。つまり?
「これからその貴族との交渉があるのでしょう? 配下に付くにしろ、その申し出を蹴るにしろ。交渉の材料は多ければ多いほどよいでしょう。あなたの背後には私がいる。そう思わせること。それが何かの役に立つかもしれません」
いいんですかそんな。
リリス様を利用するような真似をして。
「前にも言ったでしょう? 私はあなたを弟のように思っています。弟の危機に助けの手を差し伸べない姉はいません。たまには、その。私のことも、少しでもいいから頼ってほしいのですよ。……お節介、でしたか?」
いえいえそんな!
ありがたく頂戴致します!
でも、ひとつだけ、訂正したいことが。
「なんですか?」
俺は何度も。
この世界に来てから何度も何度も。
いつもいつもリリス様に助けて貰っていますし。
そしてそんなリリス様のことが、本当に心から大好きなんですよ?
「そう、です、か……」
あれ? リリス様お顔が赤いですよ?
どうかしましたか? ねえねえ? どうかしましたか?
「~~~~っ!! そうやって私をからかう晴樹さんは大嫌いです! ハルキさんだけですからねっ! そんな失礼なことをするのはっ! 一応こう見えても私は神様なんですからねっ! 神様をからかうといつか罰が当たるんですからねっ!」
× × ×
――最近繁盛しているという噂の、某郵便局某局員兼メイドさんのお言葉。
「わたしはご主人様が決めたことなら、どんな結果でも何も言いませんよ?」
む。そうですか。
でもあれだよシャル君。
俺は君の頭脳に期待しているのだよ。
何かこう、アドバイスみたいなものはないかね?
「アドバイス、ですか? わたしなんかがご主人様に言えることなんて何もないですけど、でも、そうですね。なら、ふたつだけ希望があります」
おーしばっちこーい。
希望でも要求でも何でも聞く覚悟はあるぜ?
賃金値上げだって今ならホイホイ聞いちゃうぜ?
あ、でもストはやめてね? 俺、シャルがいないと何もできないからね?
「まずひとつめ。ミッテンベルグ家の配下について、偉くなって忙しくなっても、でもわたしのことは側に置いてくださいね? 忘れないで下さいね? それだけは絶対に約束してくださいね? お願いします」
はい。
そんなの当たり前のことですよ。
俺のメイドはシャル一人です。
むしろこちらからお願いしたいくらいです。
「そして、もうひとつ。わたしにとって、ご主人様は一番です。一番格好良くて、一番強くて、一番素敵な方です。そう思っています。そう信じています。だからこれからも、一番であり続けてほしいな、って。はい。それだけです」
…………。
ああ。うん。その。何て言ったらいいか分からないけど。
とにかく、これだけは言わせてほしいな。
ありがとう。シャル。
君がいてくれて、本当に良かった。
「いいえ。どういたしまして。これ、アドバイスにはなりませんね。えへへ。自分の要求だけ伝えちゃいました。言いたいことだけ言っちゃいました。でも、これがわたしの、あなたのメイドのシャルの本心です。忘れないで下さいね」
× × ×
――約束の日。
通されたミッテンベルグ家の応接室には、二人の男性が俺を待っていた。
そのうちの一人は当然、今日の約束の相手。このお屋敷の御当主様である。
そしてもう一人の人物というのが。
「シュミット様ではございませんか。お久し振りでございます」
「やあ、ハルキ君。元気そうで何よりだ。シャルも変わりはないかね?」
朗らかに笑って握手を求めてきたこの人。
シュミット・フォン・アルフォンス様。
シャルの父上であり、先月の俺の顧客。
落ちた頬に、まだ肉は戻りきってはいないけど。
瘠せた体は、見た目はまだ完全とはいい難いけど。
でも最後にあった時、約二か月前よりは格段に健康そうな親父さん。
「シャル……し、失礼しました! お嬢様もお元気ですよ」
「ふふっ。シャルで構わないよ。私の前だからといって気にすることはない」
そう言われてもですね。その。彼女とは同棲なんかしちゃってる訳でして。
いや勿論、手なんか出してませんけどね! 彼女は清い体のままです!
こないだちょっとだけギュっとはしちゃいましたけど!
そのこと知ってるのかな親父さん? 知らないだろうなあ……。
唐突に「うちの大事な娘にメイドの真似事なんぞさせやがって!」とか。
そんなこと叫んで暴れ出したりしないよな……?
いやまあ、それはともかく。
「シュミット様? 本日は何故こちらのお屋敷に?」
「私が招いたのだよ。ハルキ君」
そこで本日のホスト、メイルさんの発言。
軽く頷いて、言葉を引き継ぐシュミットさん。
「メイル様から、何やら面白い配達人と会う約束があると聞いてね。ただの配達人ではなく、“面白い”配達人だ。私もピンと来てな。それはきっと、自分もよく知る彼のことであろうとね。同席を申し出たという訳だ」
「シュミット殿とは先代、父上の時代からの付き合いだ。私にとっても尊敬すべき人生の先輩であり、そして信頼するお仲間でもある。同席して頂けるとすれば、これほど心強い話もない。渡りに船と、こちらからもお願いしたのだよ」
『侯爵様にそう言って頂けるとは名誉な話ですな』と。
『伯爵殿には子供の頃から世話になっています。当然のことです』と。
社交辞令なのか本気なのか、その真意は分からないけど。
互いをそう言って持ち上げる二人のスズ貴族。
メイル・フォン・ミッテンベルグ侯爵。
シュミット・フォン・アルフォンス伯爵。
質実剛健。堅実にして果断。そんな雰囲気を持つ若い侯爵。
海千山千。俺自身が騙された経験もある、思慮深そうな伯爵。
さあて。こいつは困った。
はっきりいって。うん。情けない話だけど、萎縮するよこれは。
貴族にもいろいろあるんだろうけど。
世の中には与えられた先祖代々の資産財産を。
無駄に食い潰すだけの無能な貴族もいるんだろけど。
少なくともこの二人。
俺の目の前で笑う、この二人からはそんな気配は微塵も感じない。
なんというか、その、『できる大人』って感じの空気をビシバシ感じる。
あるいはこれが高貴なる者が放つオーラというものか。
それとも積み重ねた、人生という名の時間が成せる業なのか。
多分、この人たちに小細工は通じない。
小手先の技はメイル侯爵に跳ね返され。
詭弁の類はシュミット伯爵に絡めとられる。
無詠唱があろうが、転移魔法陣を作動することが出来ようが。
俺はまだまだ子供なのである。人生経験が足りなすぎる。
自分の倍以上の年を重ねている大人に、交渉で敵う訳がない。
そしてこれも。俺にこう思わせることだって。
それ自体がメイル侯爵の手のひとつなのだろう。
事実俺は今、強烈なプレッシャーを感じているし。
……まあでも、それでもいいんだ。
不利な交渉は覚悟の上。
そもそも俺は今日。騙し合い、化かし合いをしに来た訳じゃない。
「さて。そろそろ本題に移ろうか。ハルキ君」
「はい。メイル様。私も答えを用意して参りました」
俺がこの二人に。唯一勝てる点。それは若さ。若いということ。
そして若さの特権。それは無謀になれるということ。
もともと頭を使うのは得意じゃない。
それは俺じゃなく、うちの有能な局員の仕事だ。
「そうか。では改めて聞こう。……私の配下につく気はあるかね?」
「…………」
震えるなよ声。無謀を気取るならせめて胸を張れ。
正々堂々。億することなく言ってやればいい。
『ご主人様は一番です。一番格好良くて、一番強くて、一番素敵な方です』
ここまで言われて奮い立てない奴は、それは男じゃねえ。
最後の最後に俺の背を押してくれた、あの子の言葉、それだけを信じろ。
「……お断り、致します」
怒鳴り声は、聞こえてはこなかった。
叱責の言葉は、誰も発しなかった。
ただ、俺の顔を面白そうに眺めるメイル侯爵。
ただ、俺の真意を確かめるような視線を注ぐシュミット伯爵。
しばしの、無言の時を経た後。
最初に口を開いたのは、メイル様の方だった。
「この私からの申し出を断る、と」
「はい。恐れ多いことながら」
「それは私が、自分の上に立つには足りない人物だと、そういう意味か?」
「いえ。違います。そうではありません。侯爵閣下」
「私は、ミッテンベルグ家と対等の同盟を結びたいと、そう考えております」
よし。言った。言いきれた。声は震えていなかった筈だ。
弱気なところは見せるなしっかり前を見ろ。
一世一代の大勝負。ここで背中は見せられない。
「対等! 対等の同盟ときたか! このミッテンベルグ家と!」
「……ハルキ君」
メイル侯爵が演技めいた仕草で笑い声を上げる。
シュミット伯爵が怪訝そうな視線を送ってくる。
やがて笑いを収めた侯爵は、うってかわって真剣な顔で。
物理的な圧迫感さえ感じる声で、続ける。
「痩せても枯れても、我がミッテンベルグ家はスズ公国を支える柱のひとつ。如何にハルキ君、君が伝説の【転移魔法陣】を使うことが出来るとしても、だ。我が家と対等とは些か思い上がりが過ぎるというものではないかね?」
おおう。言いきった。言いきったよこの人は。
ついに言葉を濁すことなく、【転移魔法陣】って、そうはっきり言ったよ。
いやまあ、それはともかく。
ミッテンベルグ家は痩せても枯れてもいない。
有能で人望のある当主を柱として、しっかりとこの地に力を誇っている。
そんな大貴族様と俺が対等?
そんな訳ないじゃないですか。
「【転移魔法陣】が使えるから、ミッテンベルグ家と対等、ですか?」
「そういう意味ではなかったのか?」
「御冗談を。あれを使えるだけでは、そんな立場にはなれませんよ」
「ほう? 詳しく訊かせて貰おうか?」
試すようなその口調。
いいさ別に。隠すことでもなんでもない。
事実を述べようじゃないか。
「【転移魔法】が強大な“力”と成り得るのに必要な条件は、その使用者が軍を所持していることです。術の使い手が単身で移動できたとしても、それは情報をより早く手に入れることが出来るという、それだけの優位性しか保てません。いや、それひとつをとっても十分大きいアドバンテージだとは思いますけどね」
考えた。頭が煮立つほど考えた。
この魔法を。【転移魔法】を。最大限生かす方法を。
先週から、ずっと。
「今の私に、その力はありません。だから【転移魔法】は、その力を十全に発揮しているとはとても言い難い。【転移魔法陣】を使える私が、ミッテンベルグ家のような大貴族様と対等になるには、自分自身で使える軍が必要なのです。そうなって初めて、【転移魔法】は政治的に、そして軍事的にも脅威と成りえる。他国の首都、その至近距離に軍を一日で派遣できる能力。それを発揮してこそ【転移魔法】は強大な“力”と呼ぶことが出来るのでしょう。そして私はそれを持ってはいない」
師匠の言っていた言葉の意味。
転移魔法は、政界の政治、軍事事情を左右しかねない。
それはきっと、こういう使い方があるからだ。
だから、つまり。それは。
「今の【転移魔法】は、言ってみれば片翼の状態なのです。軍事的に見れば、の話ですが。こんな私が強大なるミッテンベルグ家と対等なんて、とてもとても……」
「……ほう。そこまで分析していたか。単なる思い上がりの、考え無しの発言ではなさそうだな。しかし、そこまで考えが至るのであれば。至ったのであれば。我がミッテンベルグ家が、その足りない片翼を埋めることが出来るということも理解できるのではないかな?」
そう。それもまた真実。
俺とミッテンベルグ家。
この両者が手を組めば、きっと世界だって狙える。
誇張抜きで。冗談抜きで。それは純然たる事実。
だがしかし。
だがしかし、なのだ。
「……侯爵様の配下になるということは、その命令を聞くということ」
「それは、まあ、そうだな。そういうことになるな」
「それでは私の。私自身のやりたいことが後回しになってしまいかねません」
「ふむ。……ハルキ君。君のしたいこととは?」
よくぞ聞いてくれました。
その質問を待っていました。
「郵政です。私はこの国の郵便事情を変えたいと、そう考えています」
「……郵政。郵便の、政治、か?」
「郵便というものは、国家事業足りえると、私はそう思います」
「それが君のやりたいこと、なのか?」
「はい」
「君はそれに、あの【転移魔法陣】を優先的に使いたいと、そういう訳だ」
郵便という物が、あくまで個人事業であるこの世界。
郵「政」という言葉はピンと来ないのだろう。
「はい。恐れ多いことながら、ですから侯爵様の配下に収まることは出来かねるのです。大変勿体ないお話だとは思います。私などを高く買ってくれたことには、心から感謝申し上げます。ですが、これは。私にも譲れないことなのです」
ふむ……と。メイル伯侯爵は顎を撫でる。
シュミットさんは無言を貫いたままだ。
「ひとつだけ、訊いてもいいかな?」
「なんなりと」
「何故そこまで配達にこだわる? 君のその力。確かに単独では難しいかもしれぬが、世界に覇を唱えることも可能なその力。それを使ってやりたいことというのが郵便配達。悪いが私にはその心情が理解できない。軍事的に使わないとしてもだ、輸送なり商売なりで、その何倍も稼げるのではないかな?」
なんだそんなことですか。
簡単なことですよそんなの。
「私の――」
いや。違うな。こうじゃない。
ここは。ここだけは。
例え相手が大貴族様だったとしてもへりくだってはいけない。
譲れないものがあるならば、態度でも、言葉でも、そう示すべきだ。
「“俺”の夢だから、ですよ」
こんなのは策でも交渉でもなんでもない。
ただただ、若さがもたらす無謀さに身を任せて。
自分の言いたいことだけを言う。
いいんだどうせ。
駆け引きでこの人たちに勝てる訳はないんだから。
だから、俺の持つたったひとつだけの武器を。
情熱だけを、まっすぐに、ぶつける。
「ふふ……」
だからその声は。侯爵が漏らしたその笑い声は。
正直、ちょっとだけ想定外で。
「ふふふ……ふははははっ! そうか! 夢か! そう言われてしまってはもう、こちらからは何も言えぬよなあ! 男子たるもの、大きな夢を持って然るべきである! 俺も親父殿、いや父上にはよくそう言われたものだった! ははははっ!」
――破顔一笑。
その言葉の本当の意味を、俺は今日、初めて知ったのかもしれない。
隣のシュミットさんが、ほっと息を吐いたのが見えた。
すいませんね。ハラハラさせちゃって。
今度また、シャルの手紙を配達するんで許してくださいな。
勿論、代金はサービスさせて頂きますとも。
「してハルキ君? 同盟というからには、そちらからも要求があるのだろう?」
「はい。私はこの街で郵便局を開局するつもりです。ですから」
「私に。ミッテンベルグ家にその後ろ盾をしろと?」
「それが私からの願いでございます」
ふむふむと頷くメイル侯爵。
その顔が、また先日見た悪童めいた笑顔になっている。
「配下には付かない。だが要求はする。些か虫がよすぎはしないかね?」
「お恥ずかしい限りです。ですが侯爵閣下? 実は手土産があります」
「ほう。手土産? カリンのからの手紙かな?」
「そうですね。それと同じくらいの価値はあると、そう思っていますよ」
俺はローブに収めていた左手を出す。
その袖を捲り、手首に嵌められた腕輪を見せる。
その紋章が。あの女神様を象徴するように輝く青い宝石が。
二人にもよく見えるように。
「【リリスの腕環】です」
「……なんだと?」
よっし。初めて。初めてこの侯爵様の絶句を勝ち取ったぜ。
さすがリリス様です。その御威光、ここで有り難く使わせて貰います。
「これを所持しているという意味、それはご存じでしょう? 私は女神リリス様との面識を得ています。私個人では【速達】という形でしか侯爵様のお役に立つことは出来ません。ですが、リリス様のお力。その御威光。これは、侯爵様にとっても重大な意味を持つと思いますが」
いろいろ考えたのだ。
メイル様にとって、一番重要なのは何か? と。
この貴族様に野心はない。
その言葉を信じるとすれば、だが。
しかしこの人は、そういうところで嘘は吐かないような気がする。
だとしたら。だとしたら。
メイル様が本当に欲しいものはなんだ?
それはきっと、カリン様の身の安全だ。
それを。その希望を叶えるのに、必要なのは力。
だがしかし、それしか方法がない訳ではない。
スズ公国における政争、跡目争い。
それを有利に運ぶ手段は他にもあるのだ。
例えば。そう。
カリン様の後ろ盾に、現役の女神様が付いたとしたら。
民衆の圧倒的な支持を集めるのは容易いことなのではないだろうか?
第一公子、第二公子といえども、その威光には逆らえないのではないか?
だから。これは。この【リリスの腕環】は。
きっとこの交渉を成功に導く。
「……参った。完敗だ。完敗だよ、ハルキ君」
「……では?」
「同盟を結ぼう。いやこちらからお願いする。宜しく頼む。ハルキ君」
「こちらこそ。宜しくお願いします。侯爵閣下」
――差し出された手は、固く、心地よい力強さに満ちていた。




