プロローグ
ピチョン……ピチョン……。
どこからか、水の滴る音がする。
この洞窟の奥には、もしかしたら水源があるのかもしれない。
男は持参した水筒を手に取り、軽く振ってみる。
残量は心もとない。今日一日、持つかどうかの量しか残っていない。
ならばここは、奥まで進んで水だけでも確保しておくか。
男はそう考え立ち上がりかけ――力なく腰を下ろす。
水だけを手に入れたところで、一体どうしようというのだ。
人は水だけで生きることは出来ない。食料も必要なのだ。
そして男の手元には、一片の干し肉すら残ってはいないのだ。
――それに何より。
「がうぅぅ………っ!」
洞窟のすぐ外。狭い入口のすぐ外。そこに居座るアイツ。
あの猛獣がいる限り、ここに救助隊が辿り着くことは、ない。
水を手に入れ、少しばかり寿命を延ばしたところで何になろう。
結局は助からないのだ。ならばここで、静かに残りの時間を過ごそう。
……愛している。いや、愛していた彼女のことを想いつつ……。
× × ×
男はパロスの北に位置する、峻厳なるキスカ山脈ふもとの村に生まれた。
村一番の宿屋の長男として、だ。この時点で男の人生は決まった。
男は父の後を継ぐべく、幼い頃から読み書き算術を徹底的に叩き込まれる。
男自身も、外で遊ぶよりは家で本を読むことを好む、そんな少年であった。
そんな少年の、幼馴染み。番頭の三番目の娘。
赤い髪の元気な女の子は、少年とは逆に勉強が大嫌いだった。
家で行儀作法を習うくらいなら、外で蛙を捕まえて遊ぶほうを好み。
親から読み書きを習う時間よりも、外で剣を振るう時間を好んだ。
――全く対照的な二人は、何故か子供の頃から馬が合った。
少年は、そんな少女の豪快奔放なところに憧れて。
少女は、そんな少年の博識で賢いところを尊敬し。
同じ村で育った二人は、周囲に不思議がられながらもいつも一緒で。
同じ村で育った二人が、互いを異性として意識する程に成長した頃。
――少女は単身、村を出た。
きっかけは些細なことだった。親子喧嘩である。
番頭という立場の少女の父は、以前から娘に口を酸っぱくして言っていた。
……「立場を弁えなさい」、と。
少年は主人の一人息子。少女はその家に仕える番頭の三番目の娘。
これで少女が有能ならば、まだ、“そういう”望みもあった。
残念ながら、少女はとても有能とは言えなかった。
算術はおろか、読み書きでさえ碌に習得していなかった。
主人の好意に甘え、娘を増長させてはならぬ、と。
主人の息子と、その使用人の娘という立場を理解させねばならぬ、と。
それをせねば、結果として、いつかこの奔放な娘を不幸にする、と。
番頭の、「立場を弁えなさい」という娘あての言葉。
そのきつい言葉の裏には、番頭なりの、娘への愛情があったのだ。
――だがしかし、その親の愛情は、未熟な娘には届かず。
その時。少女十五歳。
既にその身長は、父親である番頭を軽く抜き去り。
既にその体力は、算盤勘定が仕事である父親を大きく上回り。
幼い頃から野山を駆け回り、剣を振り回して得た力を存分に発揮し。
父親を殴り倒し、一本の剣と僅かばかりの路銀を手に。
彼女は家を飛び出したのである。
少年は驚いた。驚いた以上に心配した。
生まれてこの方、今まで我儘など言ったことがなかった少年。
だがしかし、この時ばかりは必死な顔で父親に捜索を頼みこんだ。
少年の父は、即座に村の者を集め捜索隊を指揮した。
少年の父は意外にも、あの無鉄砲でまっすぐな少女を気に入っていたのだ。
だからこそ、自分の息子との交流を認めていた節がある。
まあそれが、息子の将来の嫁候補と思っていたかどうかは定かではないが。
……だがしかし。少女は見つからない。発見されない。
この村の周囲一帯、それが全て少女にとっては慣れ親しんだ遊び場。
大人の目を欺き、姿を消すことなど少女にとっては容易なことだったのだろう。
数日を経て、捜索隊は解散となる。
結局少女は、最後まで発見されることはなかった
少年は泣いた。泣いて泣いて、目が痛くなるほど泣いて。
そして自分の本心を知った。
自分は、少女のことが本当に好きだったのだ、と。
――さて、数ヵ月後、失意のどん底にいた少年に朗報がもたらされる。
その恩人は、旅の商人だった。
幾つかの村々とノアの街を定期的に往復し、商売をしているその初老の男。
月に一度、この村に訪れるこの商人が、少年も少女も大好きだった。
幼い頃は特に、何度も何度も、村の外の世界の話をせがんだものだった。
だがしかし、今、その少女はいない。
魔物の話に、冒険者の話に、目を輝かせていた少女が隣にいない。
これでは駄目なのだ。自分はあの少女と一緒でないと笑えないのだ。
俯く少年に、初老の男は一通の手紙を差し出す。
驚く少年に、初老の男は穏やかな笑顔で話し始める。
ノアの街で少女に出会った、と。
彼女から伝言と、そしてこの手紙を預かってきた、と。
――剣の道を進もうと、火剣流の道場の扉を叩いたこと。
――コテンパンにノされたこと。でも諦めずに何度も立ち上がったこと。
――その根性を認められ、門下生として住み込みでの修業を認められたこと。
――だから自分の心配はいらないこと。
初老の男から話を聞いて、少年は久しぶりに笑った。
いかにもあの少女のしそうなことだ、と
そして渡された手紙、そこにはこんな風に書いてあった。
拙い字で。拙い一文が。
でも、忘れることが出来ない、彼女の名前と共に。
『つよくなって、えらくなったら、よめにもらってください』
× × ×
……月日が流れた。
少年が男になり、少女が女になり。
男は「坊ちゃん」から「若旦那」へと、その立場が変わり。
女は剣の腕を認められ、念願叶い騎士団への所属が許され。
最初は子供の書くようなものだった女からの拙い手紙は。
男との文通を重ねるごとに、その文章の質を向上させていき。
月に一回増えていく彼女からの手紙。
その数が、そろそろ三桁の大台に乗ろうとする頃。
「そういえば、彼女、結婚を考えているらしいぞ?」
いつものように男に手紙を渡しつつ、初老の旅商人は言った。
意味深な目線をくれながら。
「南門の警備をしていたので少し話したのじゃがな、彼女、赤い顔をしてこんなこと言っておったぞ? 『私の村では、男性が女性にプロポーズする時、キロ山に生えているエーデル草の花を贈る習慣があるんですよ。素敵でしょ? ああ、そろそろ私も……』なーんて、赤い顔をして体をくねらせながら、な」
よし、と。
来るべき時がきた、と。
そう考えた男は、一晩かけて彼女宛ての手紙を書いた。
破っては捨て破っては捨て、貴重な紙を何枚も無駄にして書いた。
そして結局、書きあげて旅商人に託したその手紙。その内容はといえば。
――『結婚しよう』。
たったの、それだけだった
たったのそれだけ。それだけの文章に、万の思いを込めた。
男は旅商人に手紙を託した。
その背中に向け祈りを捧げた。
どうかうまくいきますように、と。
――しかし、手紙の返事は来なかった。
一ヶ月後、首を長くして待った旅商人は、彼女からの手紙を持っていなかった。
二ヶ月後、焦れるような思いで待っていた旅商人は、黙って首を振った。
三ヶ月後、旅商人の顔を見た瞬間に、男は結果を悟った。
最初は、手紙が届いていないのでは? と、そう疑った。
だが旅商人は、騎士団受付の受領印をきちんと所持していた。
次に彼女は出張中で不在なのではないかと疑った。
だがそれも、旅商人に否定された。任務中の彼女の話を聞いたと。
任務で付近の村に魔物退治に出かけ、無事帰還したという話を、だ。
旅商人は、一応、王宮も訪ねてはくれた。
だがしかし、受付で、けんもほろろに追い返された。
押し売りと勘違いされたのだ。商人という立場ではよくある話だ。
そして受付を通さずに、王宮騎士団の団員への面会は不可能であった。
――男の心が、折れた。
つまり、振られたのだ。自分は。
プロポーズを断られたのだ。自分は。
手紙の返事が来ないこと、それが証拠だった
返事が「YES」なら、即座に返信があるだろう。
返事が「NO」だから、彼女は手紙を書けないのだ。
自分に気を使っているのかもしれない。
言い訳の言葉が思いつかないのかもしれない。
そもそも、もう、他の男に夢中で自分は眼中にないのかもしれない。
――なら、いっそ。
男は決断した。
彼女に直接会って、求婚しようと。
もう手遅れかもしれない。
彼女は既に、誰かと共にいるのかもしれない。
自分は哀れなピエロなのかもしれない。
でもやるのだ。
自分自身の気持ちに整理をつける為に。
半ば自暴自棄になった男は、周囲が止めるのも聞かず、キロ山に登る。
村の伝統に則り、プロポーズ用のエーデル草の花を手に入れる為に。
――そして案の定、慣れない登山中に足を滑らせ、滑落、遭難した。
× × ×
……がくん、と、首が落ち目が覚める。
どうやら少し、うたた寝をしてしまったらしい。
体力が衰えている証拠なのかもしれない。
差しこんでくる太陽の光。その角度が、さっきまでとは違う。
そろそろ日暮れが近いのだろう。
気温もだいぶ下がってきた気がする。
自分はいつまで生きられるのだろうか……?
そんなネガティブなことを考えていた男の耳に届いた、その声。
若々しく、そして元気な男の、その声。
「おーい! ジンさーん! おーい!!」
ジン、というのは男の名前だ。助けが来たのか?
幻聴だろうか……。そう疑う男の耳にもう一度。
「ジンさーん! ジンさーん! 【速達】ですよー! そーくーたーつー!!」
「こ、ここだ! ここにいるぞ! ……速達?」
何やら耳慣れない言葉も聞こえたが、それは確かに人の声だった。
ここ数日、ずっと聞かされた、聞かされ続けた猛獣の声ではなかった。
「あっ! そこ!? その洞窟ですか!? ちょっと待ってくださいね!」
「気をつけろ! 大熊だ! でかい熊が近くにいるんだ!」
男――ジンは声を張り上げる。
そう。そうなのだ。
登山道から足を滑らせ滑落した自分の近くにいたのが、その大熊。
目の前にこの洞窟があったのが僥倖だった。慌てて逃げ込んだ。
人一人がやっと潜り込めるほどの、狭い洞窟の入り口。
ヤツの巨体では、この奥まで入り込むことが出来ない。
だがしかし、洞窟へと立てこもったジンのことを、大熊は諦めなかった。
洞窟の前に陣取り、いつまでもいつまでもジンのことを待ち続けた。
魔物、魔獣の類は執念深い。
そして自らのテリトリーを侵されることを大変嫌う。
恐らくこの一帯はヤツの縄張りだったのだろう。
それを侵した自分を、大熊は、きっと許さない。
「……うおっ! でけぇ! 本当だ!」
「逃げろ! 逃げろ逃げろ! 逃げるんだ!」
未だ姿の見えぬ救助者に向け、ジンは全力で叫ぶ。
あれは魔獣だ。巨大な魔物だ。一人で戦える相手ではない。
「ぐおぉぉぉぉっっ!!」
ヤツの咆哮が響いた。
いたのだ。やはりまだいたのだ。
逃げられない。こいつがいる限り自分は逃げられない。
だから、せめて。救助に来てくれたこの男だけでも……。
――ズドンッ!!
一発。たった一発の轟音。
地を震わすそれの影響で、洞窟の天井からぱらぱらと小石が落ちてくる。
「あーびっくりしたあー。……ジンさん! もう平気ですよ!」
「……は?」
平気? 平気と言ったか今?
なら今の轟音は彼が? 音から察するに魔法か?
いやしかし、詠唱の言葉はひとつも聞こえなかったような……?
混乱するジンの目に、洞窟の入り口が映る。
上からブラブラとぶら下がっていた足が、ストンと大地に着地する。
何事もなかったかのように洞窟へと足を踏み入れたのは。
中肉中背の、ごくごく普通の顔をした若い少年。
「あー。ようやく会えた。探しましたよー。ジンさん。登山道の途中で滑落っぽいあとを見つけて、もしやと思ったらドンピシャでした。さて、とりあえずここを出ましょうか。怪我とかありますか? あれば言ってください。初級の治癒魔法くらいなら使えますから」
「い、いや。大丈夫。私は平気だ。弱ってはいるし、打撲や擦り傷くらいならあちこちにあるが、骨折とかそんな大怪我はしていない。それよりも、その、あの魔獣はどうしたんだ?」
少年がこうして洞窟内には入れたということは、ヤツはいないのか?
さっきのあれ。あの轟音で追い払ったのか?
「ああ。あれですか。こちらへどうぞ。見れば分かります」
「あ、ああ……」
恐る恐る洞窟の外に出たジンが見たモノ。それは巨大なクレーター。
「き、君? こ、これは?」
「クマさんの足元にドカンと一発、でかいのをかましてやりました」
「……魔法、か?」
どれほどの魔力があれば、固い大地にこれほど巨大な穴が穿てるのだろう?
「はい。魔物はあれで賢いので、自分より強い相手には向かってきません。下手に戦って傷を負わせるより、ああして絶対的な力の差を見せつけるほうがよっぽど安全なのですよ。手負いになるとかえって危険ですからね」
少年は軽い口調で言った。
彼にとっては、本当に簡単なことなのかもしれない。信じられないが。
「……さて。ではとりあえずここから脱出しますか」
少年が垂れ下がっていたロープを掴む。
そこで初めてジンは、自分が滑り落ちたのが5m程の急斜面だったと知る。
しかも反対側は切り立った崖。こっちから下りるのは不可能だ。
ジンは首を上げる。自分が滑り落ちた斜面を。
崖、というほどではない。だが、まっすぐ昇りようもない、そんな角度。
このロープがあれば、まあ、普通なら何とか登れるだろう。しかし。
「このロープを使ってください。ここを上がれば、すぐ登山道に出ます」
「……すまない。君。今の私の体では、ここを登りきれる自信がない」
何しろ遭難直後、いや遭難中だ。
もう二日も、水以外口にしていない。
何よりも気力が湧かない。
振られてやけになって勝手に一人で山に登ってミスして遭難だ。
ジンの男としての自信とプライドは、もうボロボロであった。
そんなことを考えてうなだれるジンに向け、少年は言う。
まるで魔法大学の教授のような、指を一本だけ立てた気取ったポーズで。
「ジンさん? 俺は魔術師です。ある偉大な大魔法使いの弟子です。そんな俺が、ジンさんに元気が出る魔法を二つ、授けましょう。まずひとつめ。俺は今、あなた宛ての手紙を持っています。この斜面を登りきれたら、それを渡しましょう」
腰に手を当て、指を左右にちちち……と振る少年。
偉そうでちょっとムカっとくる。
しかし、手紙? 手紙だと?
それはまさか。まさかあいつから。リリーからのものなのか?
「そしてふたつめ。これは魔法の呪文です。誰でもできる簡単な魔法です。俺の生まれた国では有名なものです。これを特別にあなたに教えましょう。いいですか? よく聞いてくださいね? ごにょごにょごにょ……」
耳元で聞かされたのは、聞いたことのない呪文だった。単語二つだけの。
こんな言葉でこの状況が改善されるとは、とても思えなかった。
だがしかし。
「……ここを登りきれば、その手紙、渡してもらえるんだな?」
「ええ。そもそもそれが、俺の本来の仕事ですから」
……ならば、やろう。
この少年を信じてみよう。
ジンはぐっとロープを掴む。斜面に足を踏み入れる。
そのまま体を持ち上げるようにして一歩目を踏み出す。
背後から少年が続く。
こちらは軽快に登ってくる。
体重を感じさせない動きで。
ジンは二歩目を踏み出す。
三歩目までは何とかいけた。
たかが5m。たったそれだけだ。
これを交互に繰り返せば……。
だが、ジンの体は本人の想像以上に弱っていた。
失くしていたのは気力だけではないのだ。体力も、なのだ。
ずるり、と手が滑る。滑り落ちそうになる
腕から力が抜けていく感覚。駄目か? やはり駄目なのか?
諦めかけたジンの耳に、少年の声が届く。
「ジンさん! 魔法です! 魔法の言葉です! いきますよ!」
「お、おうっ! いくぞ!」
「ふぁいっとおおおぉぉぉぉっっ!!」 ――少年が叫ぶ。
「い、いっぱーつ!」 ――ジンが後に続く。
「声が小さい! もう一回! ふぁい、っとおおおぉぉぉっっ!!」
「い、い、いっ、ぱあああっっっっつ!!」
――不思議なことが起こった。何故か力が湧いて来たのだ。
「まだまだあっ! ふぁいっとおおおおおっっっ!!」
「いっぱああああああっっっっつ!!」
――これが魔法か? しかし魔力の高まりは感じられない。
「その調子ですっ! ふぁい、っとおおおおっっっ!!」
「いっ、ぱあああああああっっっっつ!!!」
――湧いて来たのは力だ。この言葉を唱えると、何故か力が湧いてくる。
「もう少しです! ラスト! ふぁい、っとおおおおっっっ!!」
「いっ、いっ、いっぱああああああっっっっっつ!!」
――気がつけばジンは、その傾斜を自力で登りきっていた。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……やった。やったぞ俺は」
「はい。お見事でした」
地面に手を付き、肩で息をするジンに水筒を差し出す少年。
グビグビと飲み干したその水は、本当に、美味かった。
一息ついたジンは、少年に改めて問いかける。
「しかし、すごいな。さっきの魔法は。あれはなんなんだ?」
「唱えれば、どんなピンチでも力で乗り切れてしまう魔法の呪文です」
「そ、そうか……。いや確かに魔力ではなく力が湧いてきたが……」
「そうですよ。元気ハツラツ! オロナミ……あれ? これは違うか」
何やら自分で自分の言葉を取り消した少年が、懐に手を入れる。
ジンに向け差し出された手に乗るのは、シンプルな封筒。
「どうぞ。リリー・フラットさんからの【速達】です」
「……ああ、ありがとう。ここで読ませて貰っても、いいかな?」
「もちろん」
封筒を開く。手紙を取り出す。上から読み始める。
目に入るのは見慣れた……いや、最近では見かけなくなった拙い文字。
文通を重ねて奇麗になった筈の彼女の字が、昔のように雑になっている。
本文の前に「拝啓」もない。よほど慌てて書いたものなのだろう。
読む。その読みにくい長文を読む。
そのうちに笑いがこみあげてくる。
楽しくて笑っている訳ではない。
笑うしかない、という事態が、世の中にはあるのだ。
往々にしてそれは、ミスと、誤解と、思い込みから発生する。
――最後まで読んで……最後だけ二度繰り返し読んで、ふっと息を吐く。
「……君は、この手紙の内容を知っていたのかな?」
「中身を読んではいません。ただ、何があったのかだけは聞いています」
「そうか……。リリーからかい?」
「いえ。リリーさんの上司から、です」
その上司というのはきっと、手紙の中に名前のあった騎士団小隊長殿のことなのだろう。リリーはいい上司に恵まれたようだ。ま、何はともあれ。
「ありがとう。君のおかげで本当に救われた。名前を聞いてもいいかな?」
「よくぞ聞いてくれました! 受けた依頼は……って、ヤベ。これ、シャルロットさんに禁止されたんだっけ……。ハルキ・ヤマミズといいます。ノアの街で手紙配達の仕事をしています。これを機に、今後ともどうぞ御贔屓に」
少年のテンションはいきなり上がり、そして勝手に下がっていった。
そしてその代わりといってはなんだが、また懐から何か取り出した。
「こういう者です。名刺です。受け取ってください」
「め、名刺……?」
聞き覚えのない単語と共に渡された厚紙には、こう書かれていた。
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【ヤマミズ郵便局長】 ハルキ・ヤマミズ
配達のご用命は、パロス公国南居住区【ヤマミズ郵便局】
ノアの街中であれば配達料一律1000コル!
街外、国外への配達は窓口までご相談下さい
(定休日 毎週風曜日、及び無曜日)
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「それ、新しい名刺なんです。いやー。作るのが大変でした」
「そ、そうか……。大変だな……」
いろいろ聞きたいことがあったジンだが、その言葉は飲み込んだ。
とりあえずこの少年の仕事は手紙の配達なのだ。
そして今、彼はその仕事を完遂したのだ。
そしてそれにより、俺も、リリーも助けられたのだ。
それで、いいじゃないか。
「ありがとう。これからも手紙を出す機会はあるし、その時は君に頼むよ」
「はい。こちらこそ。末長いご愛顧のほど、よろしくお願いします」
最後にペコリと。軽く頭を下げ、少年は登山道を下りていく。
その背中を眺めつつ、ジンはまた手紙を開く。
――その、最後の部分を、また読み返す。
『……いろいろと誤解があったようですけど。
でも、最後にこれは。これだけは。
やっと、やっと言ってくれましたね。その言葉。
私、ずっと。ずっとずっと。待っていたのですよ?
もう取り消しは聞きませんからね!
お返事です。
あの日の約束通り、私を、貴方のお嫁さんにしてください。
貴方のリリーより』
――ジンは大きく息を吸い込む。決意を固める。
嫁を貰うのだ。あのリリーを嫁にするのだ。
自分はもっともっと、強い男にならねばならない。
そうでなければ、自分の為に家出までして出世した彼女に申し訳が立たない。
その熱い思いを。胸を焼く激情を。声に乗せ思い切り叫ぶ。
「ふぁい、とおおおおおおっっっ!!」
遠くから。登山道のずっと下のほうから。
そんな彼に応えるように。そんな彼を応援するかのように。
――「いっぱあーつ!」という少年の声が聞こえた……。
第二章開始です。よろしくお願いします。
主人公がノアの街で何を聞いたのかは次話で。