エピローグ
――翌日
起きたらお日様が結構高く昇っていた。
お昼とまではいかないが、かなり寝坊してしまったようだ。
まあ。それもしかたないだろ。
昨晩はイロイロあって、その結果、草原で力尽きるまで暴れたからな……。
その原因たるシャルロット嬢は、当然、今はもう俺の部屋にはいない。
明け方、俺が部屋に戻った時にはもういなかった。
恐らく、夜中に目を覚まして自分の部屋へと戻ったのだろう。
……さてと。
ベッドから抜け出して部屋を出る。朝食を頂くために食堂を目指す。
俺に与えられた客間は二階にあったので、まずは階段を下りる。
――通りかかった一階のホールに、完全武装の衛兵が整列していた。
な、何事だこれ!?
あ、もしかしてアルバートの雇った賊の生き残りによる再襲撃か?
だとしたら俺も、微力ながら手伝うぞ?
「どうかしたのですか?」
「うん? あっ! ハルキ様! おはようございます!」
隊長格の男がそう言って一礼する。
昨日の襲撃以来、俺たちはVIP待遇だ。とても気分がいい。
いやまあ、それはともかく。
「おはようございます。……何かあったのですか?」
「はい。実は危険な魔物が街の中に侵入したようでして」
「危険な魔物、ですか?」
「ええ。正体は不明ですが、どうやら人狼ではないかということです」
人狼。人狼と言えば亜人族だ。
亜人族の全てが危険という訳ではないが、理性を失った彼らは凶暴だ。
狼の血が濃い人狼は野生を強く残しており、人を襲うこともある。
それは確かに危険だ。
「報告者の話では、魔物は昨晩、この先の草原に現れたらしく」
「ほう」
「『ぎゃーっ!』とか『うがーっ!』とか『ぐおーっ!』とか叫んでいて」
「……ほう」
「その叫びには、ところどころ人族の言葉も交じっており」
「…………ほ、ほう」
「しかもあろうことか、そやつは女神リリス様への悪口まで叫んでいたとか!」
「……………………ほ、ほほーう」
「不審な叫び声を上げ、人語を解し、しかもリリス様を悪し様に罵る。……これはもう、理性を失った人狼の仕業に違いないと、我らで調査に向かうところです!」
「そ、そうですか。お疲れ様です。で、でもですね。これは俺の勘なんですけど、その人狼、もう現れないと思いますよ? いやあくまでも俺の勘ですけどね!」
うん。その人狼モドキはきっと、もう、この近所には現われない。
それはこの俺が保障しよう。彼はもう、すっかり冷静になったのだ。
だから俺は、意気揚々と出かける衛兵たちの背中を見つつ、俺は心の中で呟く。
――余計なお仕事を増やして、すいませんでした、と。
× × ×
「あ、ハルキさん! おはようございます!」
「お、おはよう、ございます」
「お寝坊さんですね、ハルキさんは! 今、朝食をご用意しますね!」
「……お願いします。シャルロットさん」
キッチンで出迎えてくれたシャルロット嬢は、とても元気だった。
まるで昨日のことが嘘だったかのように、とても自然だった。
もしかして、アレ。昨日のアレは俺の夢だったのか?
俺の妄想力があんなにもリアルな夢を見させたのか?
思わずそう疑ってしまうくらいに、彼女は元気で自然だった。
ああ。いやそれより。
「あれ? シャルロットさんが給仕してくれるんですか?」
「はい? ああ。やらせてもらってるんです。働かないと落ち着かなくて」
そう言ってペロっと舌を出す彼女。めっさ可愛い。
しかしそれは、メイドの職業病のようなものなんだろうか?
そういや、今、気がついたけど、着ているのも彼女愛用のメイド服だ。
俺だったら朝から働きたくはないけどなあ。
なんて考えている最中に、手際よく皿が並べられる。
「はいどうぞ! たんと召し上がってください!」
「ありがとうございます。頂きます」
出されたものは、黒パンとスープ。それにチーズ。
この世界の標準的な朝食メニューだ。
「とはいっても、実はスープはそれだけしかないんですけどね」
「ああ、そうなんですか。平気ですよ。これで十分です」
「実はその、ハルキさんのお連れの魔術師さんがいっぱいお代わりを……」
「……あの、それは何というか、ウチの連れがホントすいません……」
師匠、いつもハラペコだからな。万年欠食児童チビッコ魔法少女だからな。
あの小さい体のどこに入るのかって、こっちが心配になるくらい食うからな。
その割には一向に成長しないけど。
詰め込んだ栄養素は、一体、どこに消えてるんだろう……?
「連れといえば、もう一人は? アイリス様はご迷惑をおかけしませんでした?」
「アイリス様ですか? いえそんなことは、全く」
「……え? 本当ですか?」
「さすがは一国の姫という感じで、とてもお上品で……。素敵な方ですよね」
……うーむ。
なんだろうなあ。この違和感は。
俺の見た姫と、周囲が見る姫の印象が一致しない。
これはもう、猫かぶりとは言えないような気がする。
清楚で可憐。上品で威厳もある。これが姫の本性なのか?
そういえば昔は。魔王討伐の旅に出る以前の姫は、そんな感じだった。
だとしたら宿の。あの一幕は、ほんと、何だったんだろう……?
そんなことを考えていたら、シャルロットに話しかけられた。
「それよりも、ハルキさん」
「はい? なんですか?」
「パロスにはいつ戻るんですか?」
「ああ。そうですね。なるべく早く帰りたいって言うのが本音ですね」
郵便局をいつまでも休みにはしておけないし。
謎の人狼の正体がバレるのは困るし。
師匠がアルフォンス家のエンゲル係数を跳ね上げるのも申し訳ないし。
「出来れば、今日にでも」
「今日。今日かあ……。そっか。仕方ないか。うん。わかりました!」
「ええ。アルフォンス家の皆さんには本当にお世話になって……」
そんな俺の言葉を遮るように、シャルロットさんが身を乗り出して叫ぶ。
「改めて依頼します! わたしをパロスに運んでください! 【速達】で!」
「……はい?」
「勿論代金はお支払いします! といっても、実際に支払うのは父様ですが」
「あ、いやいや。代金のことはともかく」
「駄目ですか? 【速達】には利用制限回数がありますか? 一回だけとか」
別にそんな規則は設けてない。
むしろお得意さんは少しでも多く増やしていきたい。
どっちにしろ俺と同じルートになるんだし、転移魔法陣に定員はない。
だから連れて帰るだけで代金が貰えるならこれほどおいしい仕事もない。
だけどずいぶん急な話だよな。
正直、彼女は親父さんがもう少しよくなるまでこの屋敷にいると思ってた。
「俺は構いませんけど、いいんですか? ご両親に相談は?」
「今朝のうちにもう、ちゃんと話してあります。承諾も得ています」
「こちらには残らないので?」
「もともと十歳になったら家を出る約束でしたし。それに」
そこで言葉を切った彼女は。
目に強い決意の色を浮かべて。最高の笑顔を浮かべて、こう続けた。
「パロスの街で、やりたいことがあるんです。どうしても。絶対に」
――こうして俺たちは、急遽、この屋敷を立つことになる。
× × ×
……出発前後の話を、簡単に。
庭で何やら話し込んでいた師匠と姫に声をかける。
俺たちはパロスに戻りますけど、どうしますか、と。
転移魔法陣がなければ、ミスリルまで五ヶ月かかるからな。
帰りは俺と同行するつもりだろうという読みは当たった。
二人ともスズの転移魔法陣まで一緒に行くという。
声をかけておいてよかった。
いじわるして置いて帰ったりしたら後が大変だ。
数ヵ月後にヤマミズ郵便局を爆破されかねない。謎のチビッコ魔術師に。
シュミットさんは「何かあったらいつでも言ってくれ」と握手を求めてきた。
ベルベットさんからは「娘をよろしくお願いします」と頭を下げられた。
その後、親子で別れの挨拶が交わされた訳だが、そこはまあ、省略。
ま、ひとつだけ言えるとすれば。
アルフォンス家が手配してくれた馬車に乗り込む時の彼女の目は。
ほんの少しだけ、ちょっとだけ、赤く染まっていましたとさ。
――馬車でリボンの街の南門まで進む。そこからは徒歩だ。
転移魔法陣が隠されている遺跡を目指し、ひたすら歩く。
道中の雰囲気は静かで、ちょっとだけ、不思議な感じだった。
一歩一歩、故郷を心に刻みつけるようにして歩くシャルロットさん。
いつもと同じ、いや、いつも以上に無表情な師匠。
そして俺の横顔をずっと、ずっと静かに見つめ続けるアイリス姫。
会話がないことが、別に気まずく感じるということはなかった。
ただ、三人が三人とも、何かを深く考えている。そんな雰囲気だった。
だから俺も黙っていた。
俺は俺で、考えることもあった。
姫と師匠のこと。
結局、この二人の目的は分からないままだ。
いや。姫は確かに言っていた。
俺に会いにきた、と。
だが、本当にそれだけなのだろうか?
そんな簡単な理由で、第十三王女が旅に出られるものなのだろうか?
「……そういえば、師匠?」
「はい。なんですか?」
「王宮には、何て言って出てきたんです? よく許可が下りましたね?」
「ああ。そのことですか。姫が置き手紙を書いてきたので平気でしょう」
「置き手紙? え? 師匠? 直接許可を取った訳ではないので?」
「許可が下りる訳がありませんから」
「『旅に出ます。探さないでください』と、姫に書かせておきました」
「ししょぉお!?」
なんだその家出する人専用のお手紙!?
大問題だ! 大問題になりますよ師匠!?
帰ったらそれ厳罰に処されるんじゃないですか!?
師匠! それ降格賃金カットどころか懲戒免職すらあり得ますよ!?
「私のことなら平気です。それよりも、ハル」
「いやちっとも平気じゃないと思いますが……。何でしょう?」
「私の言ったこと、教えたこと。憶えていますか?」
師匠の言ったこと。教えてくれたこと。
いっぱいあって。いっぱいありすぎて。普段なら困るところだが。
今、ここで尋ねるということは、昨日のあれのことだろう。
「【速達】を続けるなら、敵には容赦をしないこと、ですか?」
「そうです。それは、それだけは。絶対に守ってくださいね?」
「師匠の言うことですから。絶対に」
「本当ですか? 本当ですね? 約束ですよ? ハル」
念入りにそう繰り返す師匠。
まいったな。そんなに信用ないかな。俺。
「ハルはいい子ですが、それだけに優しすぎるところがあります。私はそれが心配なのです。強大な敵に狙われて、怪我をしたりとか、それどころか命を失うようなことになったらどうしようかと」
なんかもう、師匠というより母ちゃんだな。この人。
大丈夫ですよ。俺は平気ですってば。
「ハルが大怪我を負ったとか聞いたら、私は泣くかもしれません」
「え? 師匠、泣いてくれるんですか?」
「当たり前です。泣きますよ? ワンワン泣きます。絶対泣いてしまいます」
「……そうですか。気をつけます」
この無表情な師匠が泣いてくれるのかー。と。
それはぜひ一度、この目でじっくり見てみたいなー、と。
その為だったらちょっとくらい怪我してもいいかなー、と。
そんな不謹慎なことを考えたのは内緒だ。
――そんなことを話しているうちに、遺跡に到着した。
周囲に人がいないことを確認。
まずは石板に手を触れ、地下への扉を開ける。
三人に階段を下りるよう促し、扉を閉める。
ここまでルーティンワーク。慣れたもんだぜ。
先頭を進む師匠の手には、小さな火が灯されている。火属性魔法だ。
あれなら足を踏み外す心配もないだろう。
……そして辿り着く。巨大な転移魔法陣の部屋。
中央がミスリル王国行き。
右がパロス公国行き。
左がカナリア王国行き。
俺とシャルロットさんが使うのが右側のもの。
師匠と姫が使うのが中央のもの。
……お別れの、時間だ。
「……【吸収】」
右手で魔力を集める。
転移魔法陣の作動は、一回で俺の魔力の大部分を消費する。
まずは師匠たちを送る分の、魔力の補充だ。
「……よし。師匠? いつでもいけますよ? やりますか?」
「……少しだけ、待ってください」
俺の問いかけに答えた師匠は、だがしかし、何もしようとはしない。
ただ静かに、横に立つ姫の顔を見つめるだけだ。
そんな師匠の視線を受け、だがしかし、姫も動こうとはしない。
ただ静かに、何かに耐えるように唇を噛むだけだ。
「……師匠? 姫?」
待ちきれなくなった俺が、もう一度声をかける。
それが合図のように、師匠が姫の背中を軽く押す。
ととっと。一歩だけ前に進んだ姫は。
その勢いに乗り、二歩目を踏み出し。三歩目を進み。
そしてゆっくりと俺の前までたどり着く。
「……ハルキ様。わたくしを使って頂き、ありがとうございました」
「『使って頂き』って……。いや、礼を言うのはこっちのほうですよ」
姫がいなければ、親父さんは助けられなかった。
親父さんが助からなければ、シャルロットさんも救われなかった。
「ほら。シャルロットさんも。お礼を」
「あ、はい! アイリス姫。本当にありがとうございました!」
俺に促され、シャルロット嬢が慌てて礼を述べる。
そんな彼女の言葉に、姫は静かな頬笑みで応える。
「いやホント助かりました。姫。ありがとうございます」
「礼の言葉はいりませんと、何度も申し上げたのに……」
「それでも、ですよ。感謝の気持ちに、嘘はつけませんから」
「感謝……ですか? では、厚かましい話ですが、願い事が、ひとつ」
おっと。きたぞぉ?
姫のお願いタイムだぜ。
あれだぞ? シャルロットさんがいるんだからな?
抱いてくれとかそういう酷い発言は無しな?
清純派美少女のシャルロットさんの教育によろしくないからな。
「手を。その手をお少しだけお借りしてもよろしいでしょうか?」
「手? 手ですか? ああ、もしかして魔力が欲しいってことですか?」
「いいえ。違います。ただ、その手を、少し」
「……? こんなものでよければ、どうぞ?」
俺の差し出した手を、姫はしばらく眺め。
やがておずおずと。自らの手を伸ばし。
まずは右手でそれを握りしめ。
そして左手でそれを包み込み。
両手で大事に抱え込んだ俺の腕を。
少しずつ。少しずつ。上に上げていき。
やがてそれは姫の美しい顔の位置へと届き。
そしてそれを静かに白い頬へと押し付け。
静かに。静かに。何度も。何度も。
愛おしそうに。愛おしそうに。
自らの肌へと、すりつける。
誰も触れたことのない、処女雪のような肌の頬へ。
「……姫?」
「……もう少し、だけ」
……どれくらいの時間、そうしていただろうか?
とても長い時間だったようにも思える。
ほんの一瞬のことだったようにも思える。
だがしかし。そんな時間にも終わりは訪れ。
姫はゆっくりと、俺の手を離す。
「……ありがとうございました」
「へ? あ、いやいや。御粗末さまでした?」
混乱の余り、なんだか変な言葉を返す俺。
それを聞き、くすりと小さく笑うアイリス姫。
「もう、結構です。これで十分です。……転移を、お願いします」
「……はい」
一応、師匠の顔も見てみる。了承するように小さく頷く師匠。
ならば。うん。ここからは、作業だ。
魔法陣に魔力を注ぎ込む。
ぐんぐん吸われる俺の魔力。それに比例するように光を増す魔法陣。
月のように青白いかったそれが、やがて、暖かさを感じる太陽の色に変る。
転移魔法陣、作動、OK、だ。
「姫。師匠。どうぞ」
師匠が姫の手を取る。魔法陣の縁まで歩を進める。
中に入る直前で、止まる。そのまま、振り返らずに。
背中を見せたままで、二人が、一言ずつ。
「ハル。……お元気で」
「ハルキ様。……いつまでも、あなたのことだけを、変わらず想い続けます」
……光の中に消えた二人を見て、シャルロットさんがぽつりと言った。
「なんだか、お二人とも寂しそうでしたね?」
「……そう、ですね」
なんだろうな? 永遠の別れという訳ではないのに。
姫も、師匠も。雰囲気出し過ぎだよな。全く。
こっちまでなんか、ちょっと、変な気持になっちまうぜ。
ああ。いかんいかん。明るくいこう。沈んでいても仕方ない。
だって俺たちは、仕事を終えて自分の家に帰るのだから。
「さ、シャルロットさん。今度は俺たちの番ですよ」
さあ、帰ろう。俺たちの住む街に。
ヤマミズ郵便局がある、あの街に。
そして、明日からもまた頑張ろう。
配送待ちの手紙が、きっと俺のことを、待っているだろうから。
――こうして俺は、シャルロットさんの依頼を、無事完了させた。
× × ×
……差し込む朝日が眩しい。
住み慣れた我が家のベッドは、アルフォンス家のそれに比べ固く。
その固さゆえに、俺の睡眠は安眠とは言い難く。
数日間でパロスとスズを往復し。
その間に数回の戦闘を挟んだ俺の体は、これまた全快とは言い難く。
「ふあ~~ああっ……」
寝起きだというのに体が重い。
まあ、睡眠時間自体が足りないのは事実だけれども。
このままもう一度、布団の中に帰りたいという欲望。
それを無理やり押さえつけて、ベッドから抜け出す。
何しろ四日間も店を休んでしまったのだ。
これは信用問題に発展しかねない事態だ。
よし! 今日からまたバリバリ働くぞ!
それにはまず、一日の基本、朝食からだ!
俺は買い置きの黒パンに手を伸ばす。
パサパサとしたそれは、汁気が足りず、非常に食べにくい。
ああ。アルフォンス家で食った飯はうまかったなあ……。
シャルロットさんが作ってくれた朝飯は最高だったなあ……。
……昨日の深夜。というか、むしろ今朝早朝。
パロス公国に帰ってきた俺たちは、そのまま夜を徹して旅を続け。
数時間後、また日が昇っていない時間にノアの街へと到着した。
時間も時間だし、家まで送るという俺の申し出を彼女は辞退。
そして元気よく満面の笑顔で礼を述べた。
『本当にありがとうございました! おかげで助かりました!』
『今日はこれで失礼します! これからもよろしくお願いします!』
……うん。
元気で大変よろしい感じだったが。
その前の師匠や姫との別れが妙にしんみりしていたのに対し。
彼女の別れの挨拶のさっぱり具合に、ちょっと、うん。思うところがね?
二日前の夜は、アンナカンジでコンナカンジだったのにね。
やっぱりあれは、俺の童貞力が生み出した幻だったのかなあ……?
――なーんて。寂しい思いに浸っていると。
「すいませーん! お留守ですかー!?」
ゴンゴンと。店の正面玄関を叩く音と共に、そんな元気な声が聞こえる。
おお。本日第一号のお客さんがもういらっしゃった!
「はーい! ちょっとお待ちくださーい!」
俺は慌てて立ち上がる。
口の中に残っていた黒パンを無理やり飲み込む。
そのまま瞬時に完璧な営業スマイルを作り、店の扉を開ける。
「お待たせしました! 【ヤマミズ郵便局】に……よう……こそ?」
「おはようございます! ハルキさん!」
店の前に立っていたのは、今朝まで一緒だった女の子。
今朝というか、数時間前まで共に旅をしていた女の子。
俺と同じく、碌に寝ていない筈の彼女の顔は何故かつやつやと輝いて。
俺と違って、その笑顔は営業用ではない、天然もので。
――そして何故か、山のような荷物を抱えて訪問してきた、彼女。
すげえ。この世界にも風呂敷ってあるのか。
初めて見たよ。唐草模様ではないけど。
ああ。いやいや。それはともかく。
「シャ、シャルロット、さん?」
「はい! シャルロット・ロベールです!」
「えーっと。今日は何の用です? また配達の依頼?」
「え? やだなあ。違いますよ。仕事の依頼じゃなく、仕事をしに来ました!」
はあ。仕事。仕事ですか。
その勤務地まで送れと? そういう意味かしら?
うん? いや待て。
だったらそれも、「仕事の依頼」になるよなあ……?
「よい、しょ、っと」
困惑する俺を放置し、店内に荷物を運びこむ彼女。
そしておもむろに、彼女は頭を下げつつ宣言する。
「わたしをこちらのお店で、住み込みメイド兼店員として働かせてください!」
「…………はい?」
何を言い出したこの子は?
「わたし、ハルキさんのお話を聞いて思ったんです。わたしもやりたいなって。郵便のお仕事、面白そうだなって。そのお手伝いがしたいって。ハルキさんと一緒に働いてみたいなって。でも、配送ではきっとあんまりお役に立てませんから、せめてわたしの得意なこと、メイド業でその不足分を補おうと思いまして。だから、メイド兼店員で雇って頂きたいな、と」
郵便の仕事がやりたいと、そう言ってもらえるのは、正直うれしい。
俺の話を聞いてそう思ってくれたのなら、それはとても光栄な話だ。
「それにですね。ハルキさん? 私を採用したほうが売上あがりますよ? ハルキさんの郵便局って、個人営業じゃないですか。ってことは、ハルキさんが配達に出ている間は、お店が営業できないじゃないですか。そういうのって、よくないことだと思います。やっぱり、お店は定休日以外はちゃんと開けてないと」
む。痛いところを突かれた。
ポストなんてないこの世界、手紙の配達依頼には受付が必須だ。
そうなんだよね。店番が欲しいとは、前から思っていたんだ。だけど。
「しかも! しかもですよ? その店番には、【速達】の秘密を明かさなきゃいけませんよね? 内緒にしておきたい秘密を話す必要がありますよね? そうしないとハルキさんが【速達】したとき怪しまれますものね」
そう。そうなんだよ!
それがネックになって今まで店員を雇うことが出来なかったんだよ。
よく分かってんじゃん。シャルロットさん。
「さあ! そこでわたしです! わたし登場です! わたしなら、ハルキさんの秘密を既に知っている訳ですし、そういう意味でのリスクは少ない! これはもう、長期契約で雇うしかない! ……と、そう思いませんか?」
……思う。
うん。勢いあり過ぎだけど、言ってることは正論だ。
俺の希望にもばっちり合っては、いる。
だけど。
「……問題が二つあります。シャルロットさん」
「はい。なんでしょうか?」
「まず第一に、うちはまだ赤字営業なので、お給料が安いです」
「なら尚更がんばって、売上を上げましょう。給料UPはそれからでいいです」
経営者泣かせのことを言う。
ちょっとこの言葉だけで採用したくなったぞ?
いやまあでも。もうひとつの問題がある。
こっちはクリアできないだろう。
「……第二の問題。こっちのほうが大きな問題です」
「はいはい」
「……未婚の女性が、住み込みで未婚の男性の家でメイドをするのはどうかと」
「あー。なーんだ。そんなことですか。全然問題ないですよ」
そ、そんなこと?
結構大変な問題だと思うのですが?
そんな風に考える俺に向け、彼女は最高の笑顔を浮かべて、言う。
「わたしが、あんなに勇気を出して、あんなに恥ずかしい恰好で、あんなに凄いことを言ったのに、ハルキさんは手を出さなかったじゃないですか。こんなに安全な人、他にはちょっといませんよ? 下手に他の男性の貴族がいるところに働きに行くよりも、よっぽど安心ですよ」
……いやあのね? あれはね? すっごい我慢したんだよ?
そのあと後悔のあまり、人狼化するほど我慢したんですよ?
「ちなみにハルキ様に断られると、わたしはノアの街の某貴族様のお屋敷で働くことになります。祖父の紹介で。女好きで有名なその貴族様は、メイドに手をつけるのが何よりも好きなんだとか。ああ、困ったことになりました。わたしの貞操、ピンチです。大ピンチです。誰か助けてくれる人、いませんかね?」
ああ。もう。これはあれだ。
何を言っても無駄ってやつだ。
今思えば、彼女は言っていたじゃないか。
屋敷で。ノアの街の南門で。
『やりたいことがあるんです』と。
『これからもよろしくお願いします』と。
これが、そうなのか。
これだから、よろしく、なのか。
なら、うん。よし。俺も腹をくくろう。
業務拡張は、俺の夢でもあるしな。
人は石垣、人は城……ってやつだ。
彼女と共に、この世界の郵便事情を変えてやろうじゃないか!
「……採用!」
「やったあ! ありがとうございます! ハルキ様……じゃなく!」
そして彼女は。シャルロット・ロベールは。
我が【ヤマミズ郵便局】の記念すべき局員第一号は。
メイド服のスカートの裾を摘み、奇麗にお辞儀して、言うのだ。
とても。とても嬉しそうな。零れんばかりの笑顔で。
「これからよろしくお願いしますね! わたしの優しい、ご主人様!」
これにて【速達】のハルキ 第一章完結です。
一話、短いおまけをはさみまして
次は第二章【スズ支局 開局準備編】スタートです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。