第十三話 月明かりの下で
……さて。その後の顛末について語ろう。
悪党どもが逃げ出さないようにと現場待機する俺を残し、いったん屋敷へと戻った師匠は、最速でアルフォンス家護衛の任務を帯びた衛兵たちを連れて帰る。彼らに連中の身柄を預けて、俺たちは屋敷に帰還。
怪我ひとつなく戻ってきた俺たちを見て、姫がポロポロ涙を流す。おいおい姫さんよ? あんな連中に負ける俺たちじゃねえぜ? ねえ俺が負けると思った? ねえねえ俺が負けると思ったの? ねえねえ? ……なんて言って煽ったら師匠にポカリと殴られた。「ハルは、やっぱり女心が分かっていません。あとでお説教です」とかなんとか。一体何のこっちゃ?
さすがに事情が事情なので、このまま「ハイ、サヨウナラ!」という訳にはいかず、シャルロットさんやスベールさんに真相を説明。その際、ご年配のスベールさんがショックの余り泡吹いて倒れてしまったのを介抱とかしているうちに、あのアルバートの野郎が目を覚ます。事情聴取開始。
はじめは黙秘を貫いていたこのクソ野郎だが、師匠がおもむろに右手を上げると血の気を失った顔でペラペラ話し出した。うん。まあ。そうだろうな。あんだけ強烈なトラウマ植え付けられりゃ誰だってそうなる。俺だってそうなる。
――大人になり遊びを覚えたこと。
――与えられていた小遣いでは足りなくなり、借金が出来たこと。
――金を借りた相手が、悪党だったこと。
――借金返済を迫られ、身の危険すら感じていたこと。
――その催促のプレッシャーに耐えきれなくなっていたこと。
――そのうちに父親たるシュミットさんへの憎しみが増大したこと。
――父親の遺産に目を付けたこと。
――それで借金を清算すれば楽になると考え始めたこと。
――高利貸しにそれを告げると、闇魔術師を紹介されたこと。
――屋敷の料理人とお抱えの医者を金で抱き込み仲間にしたこと。
――半年前から、魔術で調合した毒を少しずつ盛り始めたこと。
――効果はすぐ表れ、親父さんが倒れたこと。
――あと数日で……というところで、俺たちが来たこと。
――帰りの予約がないということは、妹は居座るつもりだと判断したこと。
――このタイミングで現われた妹は、やはり遺産狙いかと疑ったこと。
――ならばいっそこの妹も殺めてしまおうと、盗賊崩れに声をかけたこと。
――治療を持ちかけられて判断に困ったこと。
――上級プリーストならばれる心配はないと判断したこと。
――父親の治療が成功し、毒の件もばれたに違いないと思ったこと。
――料理人や医者の口から自分の名前が出ることを恐れたこと。
――ならば、いっそ、と。
「……シャルロットさんを殺す為に雇った賊に押し込み強盗を演じて貰い、口封じを兼ねて関係者の皆殺しを図ったと。……こういうこと言いたくはないですけど、あんた、本物の人間の屑ですね? アルバートさん」
長い話を聞き終え、まず俺の頭に浮かんだ言葉がそれだった。
駄目だこいつ。人として終わってる。
金の為に人を、しかも血を分けた肉親を殺すだあ?
おまえちょっとそこに正座しろ。自慢のナックルパンチおみまいしてやるから。
しかし、あれだな。廊下でのあの発言。帰りはどうするのかって質問。
あれはそういう意味だったのか。それは読めなかったわ。
「借金が返せなくなった時点で父君に相談すればよかったのでは?」
「……あのクソ親父が、俺を助けてなんかくれるもんか……」
憎しみのこもった目で俺を見上げつつ、力なく座り込んだままそう呟いたアルバートに対して反論したのは、俺ではなく師匠だった。
「あなたがそう思うのは、あなた自身が家族に対して悪意を持っているからです。あなたが素直に頭を下げていれば、父君は、きっとあなたを助けてくれたと思いますよ? 互いの思いに行き違いがあったり、誤解があったりして、喧嘩になることがあっても、最後にはきっとわかりあえる。家族とは、そういうものです。そういうものなのですよ。きっと」
……師匠のそのありがたい言葉が、この胸糞悪い喜劇の締めだった。
タイミングよく到着したスズ公国の騎士団。
アルバートの身柄を彼らに引き渡す。
騒動に関する取り調べは後日行うという。
貴族の家の問題だもんな。騎士団も強制調査は出来ないのだろう。
あとはアルフォンス家とスズ公国での話し合いだ。
アルバートを犯罪者として処罰するのか。
それとも単なる親子喧嘩として処理するのか。
それを決めるのは当事者たちの仕事だ。俺たちの出る幕はない。
……終わったのだ。これで全て。ようやく、ね
× × ×
「ハルキ様。シュミット様がお目覚めになられました。ぜひお話を伺いたいと申しております。よろしければお連れ様と共に、病室までご足労願えますか?」
応接室でお茶を頂いていた俺たちに、スベールさんがそう告げる。
料理人は既に拘束済み。つまりこの紅茶は安心安全。
一応、念のため、姫に毒の有無を確認してもらいはしたけどね。
しかし、親父さんとの対面かー。
できれば避けたいところだったんだけどな。
だいたいにおいて貴族とはいけすかない奴ばかりである。
これがこの世界に来ての俺の正直な感想。
しかしまあ、今回は仕方ないだろう。これだけの騒動になったんだ。
その説明義務を果たさず帰るのは、ちょっと無責任だしね。
――スベールさんに案内され、病室へと招かれる。
「こんな格好で失礼する。シュミット・フォン・アルフォンスだ。まずは何より、私自身とベル、シャルの命を助けてくれたことに心から礼を言いたい」
そう言って、ベッドに座った状態で礼を述べたシュミットさん。
こんな格好でも何も、あんた今朝まで死にかけてたんだし仕方ないよ。
それにしても、改めて姫の魔法の凄さを思い知らされる。
四十代後半くらいの、シャルロットさんの親父さん。
確かに体はまだ瘦せ細って入るが、少なくとも顔色は悪くない。
意識もしっかりしているし、何より、あの死相が消えている。
姫だったらそのうち、死人すら蘇らせそうだ。
「ハルキ・ヤマミズです。お目にかかれて光栄に思います」
「堅苦しい挨拶は不要だ。君は私の恩人なのだからな。さ、かけてくれ」
あら意外と高待遇。俺は遠慮なく勧められた椅子に腰かける。
あれだな。少なくともこの親父さんは礼儀を知っている人物らしい。
「さて。娘からある程度の事情は聞いた。もう少し詳しく話して欲しい」
「かしこまりました」
俺はここに至った事情を話し始める。
転移魔法の件を話せないから、一部は嘘を交えて。
その辺、突っ込まれたら困るなーと思っていたが、親父さんはスルー。
アルバートの犯行理由を話し終えるまで、親父さんからの質問は無かった。
……ただ、全てを聞き終えてから、一言。
「……アルバートが私を怨む理由。それは確かにあるのだ。私はアルバートを厳しく育てた。それは貴族の子弟として、そしてアルフォンス家の後継ぎとして必要なものではあった。……だが、厳しすぎたのかも知れぬ。逆に私は、十歳で家を離れることが決まっていたシャルには甘かったからな。その落差が、あれには愛情の欠如と、そう感じられたのかもしれない」
それは独り言だったのかもしれない。
息子に裏切られた父親が、ポロリと漏らした本音なのかもしれない。
だから俺はそれに言葉を返さず。黙って静かに目をそらす。
「しかし、あれだな。奇跡というのはあるものだな。ベルからの手紙を預かった我が家の家人が、その受取人であるシャルに旅の途中で出会うとは」
湿っぽい空気をあえて払拭するように、親父さんが明るい声で言う。
ここは俺も乗っておくべきだろう。
「そうですね。きっと女神リリス様のお導きです」
「うむ。ところでアレは? 家人のハンスはどうした?」
やべ。妙なところから突っ込まれた。
この辺、シャルロットさんと話を合わせてねえぞ?
くそ。まあいい。適当に対応しとこう。
「あ。その、急ぐ旅でしたので、その、置いてきてしまいました」
「そうか。ハンスは年寄りだからな。それも仕方あるまい」
よしハンスさんは年寄りか。
なら俺の話にも多少は説得力が出るだろう。
「あ……」
「そうなんですよ。ハンスさんの足に合わせると、ちょっと……。うん? シャルロットさん? どうかしましたか?」
まずい、と顔に書いてあるシャルロットさんと目が合う。
にやりと、してやったと言わんばかりの親父さんとも目が合う。
「ハンスは、我が家でも一番元気な、二十代の健康な若者だよ。ハルキ君」
「……え? あ、うあ……。ええっ!?」
やられた!
うまく口車に乗せられた!
やばい嘘がばれたぞ!
どうする? 今すぐ逃げ出すか?
「……そんな顔をしなくても結構。別に隠し事をしていた点を、私は責めるつもりはないよ。どのような手段を使ったとしても、君が私を助けてくれた事実には変わりはない。隠すというからには、話したくないことなのだろう? なら、私は聞かないさ。恩人に失礼な真似はしたくない」
……あー。うん。大人ってすげえな。
俺も結構、修羅場をくぐってはきたけれど、まるで勝てる気がしねえ。
それともこれが、陰謀横行する王宮で生き抜く貴族の力ってやつなのか?
「……聞かないんですか? 俺の秘密を?」
「話してくれるなら喜んで聞く。でも話せないのだろう?」
「はい。それは、確かに。でも、それで俺の話を信用してくれるんですか?」
「信用。信用か。君の言葉だけでは少し足りなかっただろうな。……だが」
視線が向けられる。親父さんの視線が俺のほうを。
いや違う。親父さんが見ているのは俺の後ろだ。
つまりそれは。その視線の先にいるのは。
「ミスリル王国第十三王女様まで連れてこられては、な」
相変わらず黒フード姿の、姫。
屋敷到着以来、ほとんど口を開くことのなかった彼女。
「……アイリス姫。ご助力、心から感謝致します。改めてお礼申し上げます」
「人違いではございませんか? わたくしは一介の聖職者。姫などでは……」
「一度だけ、式典でお目にかかりました。そのお美しいお顔は忘れられません」
「……やはり、気付かれてしまいましたか」
苦笑を浮かべて、姫が黒フードを脱ぐ。
さらりと奇麗な金髪が流れる。
「頭を上げてください。シュミット殿」
「しかし、それは……」
「先程も言いましたが、わたくしは一介の聖職者です。ハルキ様の従者の」
「……そういうことにしておけ、と?」
YESともNOとも答えず、姫はニコリと微笑む。
その笑顔が、即ち、姫の答えであった。
「……恐れ多いことですが、それが姫の願いとあらば。仰せのままに」
「ありがとうございます。感謝致しますわ。シュミット殿」
「ですが、せめて。何らかのお礼をさせては頂けませんか?」
「……そうですね。ならば、ひとつだけ」
「このハルキ様は、わたくしにとって、自分の命よりも大切なお方です。ですからシュミット殿には、ハルキ様のお味方になって頂きたいのです。具体的に何かをしろと、そう申し上げる訳ではありません。ただ、ハルキ様が何かを求めてきた時。その時は、ぜひ助力して頂きたい。……よろしいでしょうか?」
「恩人たるアイリス姫のお申し出。……このシュミット・フォン・アルフォンスの名に賭けて、謹んで拝命致します」
――こうして会見は終わりを告げた。
俺にとっては100%満足できる終わり方だった。
でも、その、あの、少しだけ、何か言うことがあるとすれば。
あの奇麗系お姫様は一体誰なの?
俺の知ってるポンコツ姫は、一体どこに行ったんだろう……?
× × ×
……さて。その日の夜のことだ。
是非とも泊まっていって欲しい。いや泊っていってください。主人の恩人たる人物に食事も与えず返したとなってはアルフォンス家の名折れとなります、と。スベールさんが必死の形相で頼み込んでくるので、さすがにこれは断れなかった。
――食事はとても豪華なものだった。
余りにも美味くて、ついついお代わりを要求したくらいだった。
給仕担当のメイドさんが、おずおずをお皿を差し出しつつ聞いてきた。
「や、やっぱり。複数の相手は大変でしたか?」
「そうですね。でもまあ、相手は二人でしたし。うん。余裕、かな?」
てっきりあの戦闘のことかと思い、ちょっとだけ自慢げに語ってみた。
剣士と魔術師コンビの撃破だしな。自慢くらいしてもいいだろう。
「よ、余裕ですか! さすがですね! さすがは、ぜ、絶倫……」
「はっはっは。あれくらいいつものことですよ! ……ん? 絶倫?」
食事時にはなかなか聞く機会のない、その言葉を聞いて改めて顔を見る。
応接室に案内してくれた、あのメイドさんだった。
赤い顔をしてそそくさと去っていくメイドさん。
小声で『いつものことなんだ……やっぱり、絶倫……』とか呟いている。
俺は将来、この屋敷では『【絶倫】のハルキ』とか呼ばれることになりそう。
……いらねえ……。そんな二つ名はいらねえよ……。
――食事のあとは風呂を御馳走になり、そして与えられた部屋がまた豪華。
こんな柔らかいベッドで寝るのは久しぶりである。
具体的には、ミスリル王宮で過ごしたあの日々以来だ。
ミスリルと言えば、おかしいのは姫様のご様子。
食事時も大人しかったし、俺の入る風呂に乱入してくることもなかった。
これは変だ。
何が変って、まず姫が風呂に乱入することが当たり前という前提が変だ。
姫というのは、こう、もっと慎み深いものなのではなかろうか?
いやまあ、それはともかく。
今まで大人しくしていた理由はわかった。
身分がばれないようにしていたのだ。
シュミットさんと面識があったらしいからな。
顔を見せる訳にも、声を聞かせる訳にもいかなかったのだろう。
だから、それは理解した。
でも、その後の姫も大人しいのは何故だ?
再会した時の、あのハイテンションを再び見せてもよさそうなものだ。
なのに、彼女はまるで本物の淑女のように大人しい。
……うーむ。
などと悩んでいると。
――コン、コン。
おっしゃ来た! きやがった!
お淑やかな姿を見せて油断させつつ夜這いに来るとは、なかなかやるな姫!
しかし今日は開けんぞ? 開けんからな? その扉。
同じ失敗は繰り返さないのだ! 鍵はかけてある!
もうお前を部屋には入れん!
そのまま朝まで悶々として過ごすがいい! ハーッハッハ!
「……ハルキさん? もうお休みですか? シャルロットです」
「え?」
想定外の声が聞こえた。シャルロットさん? 姫じゃねえの?
いや別に姫が来ることを期待していた訳じゃないけどさ。
「シャルロットさん? どうしたんですか? こんな時間に?」
「……はい。ちょっと、お話がありまして……。中、よろしいですか?」
なんだろ? もしかして親父さんの容体が悪化したかな?
だったら俺じゃなく、直接姫に言ったほうが早いんだけどな。
それとも、あれかな? 帰路の話かな?
そもそも彼女はどうするんだろ? 帰るつもりあるのかな?
まあいいや。予想するより話したほうが早い。
「どうぞ。お入りください」
「し、失礼、します」
廊下に立っていた彼女は、厚手のガウンのようなものを着ていた。
むぅ。パジャマ姿をちょっと期待してたのに。
寝間着姿の女の子っていいよね!
こう、なんていうか。うっすら体の線が出ててさ!
いやまあ。シャルロットさん清純そうだしね。
パジャマ姿で夜、男の前に現れるなんていう、はしたないことしないか。
「ちょっと待ってください。今、明かりをつけますから」
「あっ! いえいえ! いいですいいです! このままで!」
「……そうですか? もう寝ようと思っていたので真っ暗ですよ?」
「……月明かりが、窓から差し込みますから……」
そりゃそうだけど。
暗闇に女の子と二人きりなんて、俺、パオーン化しちゃいますぜ?
なーんてことは言わないのだ。紳士だからな俺は。変態がつかないほうの。
リリス様との約束は違えないのだ。
「で? お話とは?」
「えっと。その前に。今日、これから予定とか約束、ありましたか?」
「いえ別に。そもそも、真夜中ですよ今? さすがに何もありません」
「そ、そうですか……。なら、よかった……」
よかったって何が良かったんだろう、なんて。
夜中に予定なんかないっすよ、なんて。
そんな疑問を差し込む余地もなく。
俺は息を、止める。
――するりとダウンを脱いだ、下着姿の彼女に目を奪われて。
まず、最初に抱いた感想は、「きれいだな」の一言。
月明かりに照らされた彼女の肌は、いつもよりももっと白く見えて。
細く長い足も。しなやかな手も。さらさらの髪も。柔らかそうな頬も。
その全てが。銀色の光を受けて薄く輝いていて。
「……約束を、果たしに来ました」
彼女がそう呟かなければ。その声がなければ。
現実感のないその光景。それはまるで美しい一枚の名画のようで。
だから俺は動くこともできず。話すこともできず。
木偶のように固まったままで。
……「見惚れる」というのは、こういうことを言うのだろう。
「ハルキ、さん?」
「ひゃ、ひゃい! ええ! あのその! 何してるんですか!」
「ですから、約束を」
「や、約束!?」
ようやく動き始めた頭がその言葉を検索。
約束。約束ってあれか! 「体で払います」ってあれ。あれのことか。
「いや! いやいやいや! 報酬貰いましたから! シュミットさんから!」
そうなのだ。
既に親父さんから、今回の件の料金は頂いたのだ。
それも色をつけて。たっぷりと。
だからもう、シャルロットさんがこんなことをする理由はない。
なのに。
「……あれは、父様からの。アルフォンス家からのものです」
「……はい?」
「わたし個人は、まだ、ハルキさんに報酬を支払っていません」
「……いやあの。そういうことじゃないような……」
つい、と。一歩だけ前に出るシャルロット嬢。
その目に嘘や冗談の色は、ない。
「先客がいれば、先約があれば。そのまま黙って部屋に戻るつもりでした」
「先客? 先約? 誰と? どんな?」
「……あの奇麗なお二人、どちらかがいるかな、と」
「……そういう関係じゃないっすよ。あの二人は」
師匠は絶対違うし。
姫は仮に来たとしても断固として断っていたし。
「なら、ぜひ。あの二人と比べられると、ちょっと悲しくなりますが」
「そんなこと……。比べるとか、そういうの、意味分かりません」
つい、ともう一歩。前に出る彼女。
その瞳に浮かぶのは、決意の色。
「わたしがハルキさんに差し上げられるものは、これくらいしかないんです。今回の件、ハルキさんがいなければどうなっていたか……。だから、そのお礼に。お礼と言っても貧相なものですけど、もし、お嫌でなければ」
最後の一歩。もう彼女の顔はすぐ目の前。
その瞳に映るのは、困惑した俺の顔。
「……受け取って、ください」
――そしてぽすんと。彼女の形のいい額が、俺の肩に、触れられる。
パニック。パニックである。
頭が働かない。思考が追い付かない。
なんだこれ? なんだこの状況?
十六歳童貞の俺には難易度高すぎるだろこれこの状況!?
落ち着け。落ち着くんだ山水晴樹。
お前はクールな魔術師だ。師匠譲りの超クールな深呼吸で落ち着け。
……すう、はあ。
よし。考えてみよう。
まずはこの状況分析からだ。
真夜中。男である俺の部屋に。
一人で。女性であるシャルロットさんがやってきて。
服を脱いで。下着姿で。抱いてくれと迫ってきた。
もう、彼女は俺に債務は存在しないというのに。
……あれ? これもう俺の取るべき行動はひとつしかなくね?
いやむしろ、覚悟を決めてきた彼女を抱かないほうが問題だよな?
それいわゆる「女性に恥をかかせる」というやつだよな?
うん。そうだ。それはよくない。
据え膳食わぬはなんとやら、とも言う。
だとしたら。したらですよ?
ここはもう、欲望のままに。一気に。念願の初体験を……。
……唐突に頭に浮かんだ、美しいお姉さんの怒っているお顔。
おいおいおい! 山水晴樹!
お前は約束しただろう! リリス様と!
酷いことはしないと。
彼女の弱みに付け込むようなことはしないと!
冷静になれ。冷静になってさっきの言葉、よく思い出してみろ。
彼女はこう言った。「お礼」だと。そう言っただろ?
だとしたらそれは、やっぱり恋愛感情以外の何かだ。
好きだと言われ、体を預けられたのとは違うのだ。
だとしたら。だとしたら。だとしたら!
――優しく。その実、渾身の精神力を使って、彼女の身を離す。
その時の俺の頭の中には、今度は某三代目名泥棒の姿があった。
元の世界で見た、アニメ劇場版の名シーン。
危険を冒して自分を助けてくれた大泥棒に、少女が抱きつく。
自分も連れて行ってくれと懇願してくる。
悩む大泥棒。わきわきと蠢く指がその心情を最大限に語る。
でも結局、彼は少女を抱き締めないのだ。
そして格好つけて、少女の前から去っていくのだ。
――とんでもないものを。少女の心だけを、盗んで。
あれを初めて見た子供の頃の俺は思ったもんだ。
ヘタレだと。ヘタレだなこいつは、と。
今なら分かる。あの大泥棒の気持ちが。
ヘタレと呼ぶなら呼べ。
ああそうさ。俺はヘタレさ! ヘタレの童貞野郎さ!
報酬の代わりなんて、そんな理由で、俺は彼女を、抱けない。
彼女は本当に好きになった相手に、その身を任せるべきなのだ。
――男には、どうしようもなく、格好つけなきゃいけない時が、ある。
「……貰っては、頂けないのでしょうか?」
「シャルロットさんの、そのお気持ちだけで、俺は十分満足ですよ」
「やはり、わたしみたいな貧相な体じゃ駄目ということでしょうか……?」
「そんなことないです……今にも襲いかかりそうなので、これを」
目をそらしたまま、彼女の体にガウンをかける。
その際、彼女の体の柔らかい部分に触れてしまい、痛烈に後悔する。
ああ。俺はバカだなと。やっちまえばよかったなと。
そう思うことくらいは、許してくれるだろう。リリス様も。
「ちょっとだけ、お話しましょうか。座ってください」
「……はい」
「……好きだと言われて抱きつかれたら、きっと抱いてました」
「……え?」
「『報酬』代わりじゃ、抱けないっす。大事にしてください。自分を」
「……あ」
彼女の顔が「悲しみ」から「理解」に変る。
その表情の変化を見て、俺は思う。
間違ってなかったな、と。
格好つけすぎはしたけれども、とも。
「……お話」
「はい? なんですか? シャルロットさん?」
「ハルキさんのお話、聞かせてください。いろいろと」
「ああ。いいですよ。元の世界の話とか、興味あります?」
「はい! 是非!」
――そのあと俺たちは、いろんなことを話した。月明かりの下で。
元の世界では普通の学生だったこととか。
親父が郵便局員だったこととか。
酔っぱらった親父の口癖が「俺は手紙を運んでいるんじゃない。書いた人の気持ちを運んでいるんだ!」だったこととか。
そんな親父が、実は結構好きだったこととか。
だから俺もこの世界で郵便配達をしているんだとか。
そんなことを。そんなとりとめのない話を。いっぱいした。
俺の肩に頭を預けたシャルロットさんが、眠りにつくまで。
――だから、彼女は、知らない。
彼女が完全に寝付いてしまってから、俺がそっと部屋を抜け出したことを。
そのまま屋敷の外へと、ばれないように走って出て行ったことを。
屋敷の外で無人の広い原っぱを見つけ、転がりまわりつつ叫んだことを。
「ああああああっっっ!! なに!? なんなの俺!? なにカッコつけちゃってんのバカじゃねえの俺!? いやバカだ! バカだろ! 抱けよ! あそこまできたら抱いちゃえよ抱いちゃうべきだろそうしろよ!! うわーーーん!! 惜しかったよう! 惜しかったよう! やっちゃえばよかったよう! リリス様ひどいですあんまりです! こんな仕打ちあんまりです! ぎゃーーっっ!! ああもう今からでも屋敷に戻って『やっぱりさっきの無し!』つったら抱かせてくれるかな彼女!? ああああっっ!! そんなみっともないことできるかーーっっ!!」
――お月様だけが、そんな俺を、静かに優しく、見ていてくれた。
長くなってしまい申し訳ございません。
次回。第一章エピローグです。