プロローグ
……どうしてこんなことに……!
固い鎧に身を固め、大剣を握り締めた男はそう思う。
身を焼くような、痛烈な後悔と共に。
目の前に立ち塞がるは、白色の鱗をもつ竜族順列第四位の風竜。
自分の周囲に倒れているのは、公国騎士団所属の十名の仲間たち。
――男の命は、まさに風前の灯火だった。
× × ×
……きっかけは、公国の首都近隣に位置する、ある村からの通報。
『近所の森に、はぐれ地竜が住み着いてしまったので退治して欲しい』
魔物退治なら、騎士団に依頼するより冒険者ギルドに頼むほうが話が早い。
王国騎士団を動かすには、様々な諸手続きが必要だからである。
ただしそれには、多額の懸賞金がいる。
冒険者はタダ働きなどしてはくれないのだ。
故に、貧しい村の付近で魔物が発生した場合、よほどの緊急でない限り、村は騎士団へ討伐依頼をかける。多少時間がかかっても、そのほうが圧倒的に安く済むからという理由で。
――そして、正式な依頼であれば、騎士団は動かなくてはならない。
騎士団で小隊長を務める彼は、慎重な男だった。
竜族序列第六位、つまり六種類いる竜の中でも最弱である地竜。
一般人から見れば、確かに竜族は恐るべき魔物ではあるが、地竜程度ならきちんと戦闘訓練を受けた者が油断なく攻めれば十分対処できる。A級の冒険者なら五人のパーティーで、凄腕のS級冒険者なら一人での討伐実績もあると聞く。
そんな地竜に対し、討伐の指揮を任された男は、十人編成の小隊で挑んだ。
前衛を務める騎士四名、攻撃を担当する魔術師四名、回復やサポートを担当するプリースト二名という中規模パーティーである。地竜はおろか、竜族順列第五位の水竜を相手にしても、十分戦えるだけの戦力だった。その筈だったのに。
――だが、森の奥深く、彼らの前に現われたのは、白く輝く風竜だったのだ。
竜族序列第四位の風竜。
地竜とは違い魔法を使い、水竜よりも硬い鱗を持つ風竜。
これを倒すのには、この二倍の戦力、つまり二十人の戦士が必要だと言われる。
隊長含め十人のこの小隊では、明らかに戦力不足であった。
驚愕の余り凍りついた騎士団小隊、その一瞬の隙を風竜は見逃さない。
背中についた、巨大な羽を使った中級魔法、『竜巻』。
それに巻き込まれた後衛集団、防御力の弱い魔法使いとプリーストは、その全てが木の葉のように吹き飛ばされ、何もできないままにあっけなく意識を失った。
魔法が呼び起こす轟音のおかげで辛くも自失から立ち直った前衛の騎士たちは、だがしかし、後衛陣が壊滅したことによって恐慌状態に陥り、隊長である男の指示を待たずに、剣を構え自暴自棄とも言える突撃を果たす。
そしてその無謀な行いの代償は、三人まとめて風竜の、逞しい前脚の一撃のもとに叩き伏せられることであった。鋭い爪で抉られなかっただけましではあったが、地に伏せ、ぴくりとも動かない彼らの生死は不明だ。生きていたとしても確実に重症。もう、治癒魔法を受けないことには戦闘継続は不可能だ。
気がつけば、意識あるのは小隊長である男一人。
とっさに岩陰に隠れ、静かに息を殺す男ただ一人。
……男は考える。何故、このような事態に陥ったのかを。
村人は見間違えたのだ。地竜と風竜を。
よく見れば風竜の足元、そこは土に汚れて茶色に染まっている。
恐らく、この森に迷い込んだ際、深い沼に足を踏み入れてしまったのだろう。
泥土で全身が、何より特徴的なその白い鱗が、地竜のような茶色に染まった。
それを目撃した村人が、地竜だと勘違いし村長に報告。……ありそうな話だ。
……男は考える。どうやってこの死地から脱出するかを。
正面突破は不可能だ。
騎士団に所属しているとはいえ、まだ中級剣士である自分に風竜は倒せない。
全てを捨てて逃げ出すか?
重い鎧を身につけたまま全力疾走したところで末路は見えている。
隙だらけの背中に一撃を入れられて、それで終わりだ。
いずれあの巨大な魔物は、自分を見つけるだろう。
そしてこの体を、魂までをも、ズタズタに引き裂くであろう。
死にたくなかった。男には死ねない理由があった。
男には愛する妻と、今年、ようやく五歳になったばかりの娘がいるのだ。
あの二人の為になら死ねるが、あの二人を残しては死ねない。
王宮勤めの小隊長である男は、もう二ヶ月も家に帰っていないのだ。
せめてもう一度、妻と子をこの腕で抱きしめたかった……。
死にたくはなかったが、死を覚悟した男。
全てを諦め、絶望に黒く心を染めた男の耳に、唐突にその声は届いた。
「ああ、やっと見つけた。探しましたよー」
すわ援軍が、と。これで命が助かったと。
そう喜んだ男の顔は、声の主を見て再び暗く蔭る。
年頃は、多分、十代半ばくらい。
身長は高くもなく低くもなく。体格はやや細めで。
良くも悪くもない平凡な顔は、まるで散歩中の老人のように、にこやかで。
魔術師が好んで身につける帽子を被ることもなく。
剣士がその命を預ける剣を身につけてはおらず。
頑丈な鎧で全身を覆うでもなく。
安っぽい黒マントにその身を包んだ軽薄そうな少年。
――ああ。神様。援軍を期待させておいて、この仕打ちはあんまりです。
それは、男が思わず神を恨んでしまうほど、頼りない少年で。
「えーっと。騎士団小隊長のアレクさんですよね? ちょっとご用が」
「馬鹿っ! 下がれ! こっちにくるな!」
男――騎士団小隊長アレク――は、隠れていた岩陰から飛び出す。
剣を構え、少年と風竜の間に立つ。
死の恐怖に脅えてはいたものの、アレクは騎士であり、誇りがあった。
騎士である以上、剣に誓った身である以上、ここで逃げ出す訳にはいかない。
自分の命を犠牲にしても、この少年は助けなくてはならない。
戦って勝てるとは思わない。だが、少しの時間くらいは稼げる。
背後にいる、のんきな少年が逃げ出す時間くらいなら稼いでみせる。
――不退転の覚悟で、風竜と向き合ったアレクが、踏み出そうとしたその瞬間。
ごうっ! という空気を焼く音をたてて、いくつもの火の礫が、風竜の全身を余すことなく叩く。一発一発が途方もなく大きく、そしてそれが連続して着弾する。業火に包まれ、身を捩り、悲痛な叫び声を上げのたうち回る風竜。
あっけにとられたアレクが振り返る。
恐らく火弾の源であろう、細い右手を突き出した少年と目が合う。
「お話の前に、あれ、ちゃっちゃと片づけちゃいますね」
再び放たれる、無数の炎の弾丸。
それが無詠唱で撃ち出されるところを見て、アレクは思った。
――『ああ。これは夢だ』と。
魔法には詠唱が必要。それはどれだけ上級の魔術師になっても変わらない。
それがこの世界の、少なくともアレクが知っている世界の、常識だった。
短縮することはできる。だが無にすることはできない。
魔法を使わないアレクでも、それくらいの知識はあった。
それが今、目の前であっさりと覆されている。
しかも自分の命がかかった、この大事な場面で。
これが夢でなくて何だというのか。
だがしかし、風竜が焼かれる匂いはアレクの鼻に届き。
絶え間ない火弾がもたらす熱波は、離れていてもアレクの肌を焼き。
――そしてついに。
「…………っ!!!!」
声にならない叫びを上げ。
竜族序列第四位の風竜は。
倒すのに最低二十人は必要と言われる強大な魔物は。
――焼け焦げた体を大地に沈め、その動きを完全に、止めた。
× × ×
「あ、ありがとう……。助かった……」
「いえいえ。依頼のついでですから」
少年は、からくも焼失を逃れた風竜の鱗を剥がしつつ、にこやかにそう答える。竜の鱗は堅くキラキラと光り輝き、装飾品の原材料として高く売れるのだ。また、これを特殊な製法で煎じて飲むと、嘘か誠か万病に効くともいわれている。
「依頼……? そう言えば何か、私に用があるとか?」
「そうですそうです。アレクさん、こちらを」
少年が胸ポケットから取り出したものは、一通の封筒。
表には大きな字で『パパへ』。
ひっくり返した裏には『シルフィより』。
「た、確かにシルフィというのは娘の名前だが……? あの子はまだ幼くて、字なんて書けなかった筈だが?」
「アレクさんにお手紙を書くために、奥様から習ったそうですよ? 『お仕事がんばってるパパのために、わたしもがんばって書いたの!』って、元気よくいい笑顔で言ってました。いやあ、可愛いらしいお嬢さんですねえ」
手紙を持つ手が震えた。
アレクは妻によく似た娘の顔を思い出し、涙が零れそうになった。
そして、そこでちょっとした違和感に気付く。
「しかし、それならば騎士団に預けるのが普通だろう? 任務を帯び、討伐の旅に出た私を追ってきてくれたのは何故だ?」
その質問に、少年は何でもないことのように、さらっと答える。
「速達で、と頼まれましたので」
速達という言葉の意味がアレクにはわからなかった。が、しかし、この少年が、自らの危険を顧みずにここまで自分を追いかけ、そして命を救ってくれたらしいというのは理解した。きちんと礼を述べるべきだろう。
「改めて礼を言おう。私はパロス公国騎士団所属、小隊長のアレクだ」
「ご丁寧にありがとうございます。俺はハルキ。【速達】のハルキです」
「速達の……? さっきも言っていたが、それは一体何なんだ?」
「よくぞ聞いてくれました!」
アレクの当然の問いかけに、少年は「待ってました!」と言わんばかりに激烈な反応を返す。ばさっと音をたてて黒マントを翻し、思いっきりドヤ顔で叫ぶ。
「受けた依頼はきっちりこなす! 誰より早く誰より確実!」
「お、おう……?」
「迅速安心がモットー! 世界中のどこへでも、必ずお手紙届けます!」
「おおう……?」
「そんな俺の二つ名は、人呼んで【速達】のハルキ!」
「おおお、おう……?」
「郵送なら【速達】のハルキ! 【速達】のハルキにぜひお任せください!」
「…………おう」
アレクは思った。
肝心の「速達」の内容に一切触れてないじゃないか、とか。
自分で自分の二つ名を誇らしく名乗るってどうなんだ、とか。
助けて貰っておいて何だが、そのドヤ顔は妙にムカつく、とか。
しかし、アレクは大人だった。
それを指摘するのはよそう、と。
気持ちよく決めポーズをしている少年に水を差すのはやめよう、と。
いいじゃないか。少しくらい頭が残念だって。彼は命の恩人なのだから、と。
「そ、そうかい、わかった。手紙を出すときは、君に頼むことにするよ」
「ありがとうございます! これ名刺です!」
「め、名刺?」
またアレクの知らない単語が出た。
少年が懐から取り出し、アレクへと差し出したものは一片の紙だった。
高級そうな厚紙に書かれていた内容は以下の三行。
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【ヤマミズ郵便局長】 ハルキ・ヤマミズ
配達のご用命は、パロス公国南居住区【ヤマミズ郵便局】
(パロス公国南冒険者ギルドでも代行受け付け致します)
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「あ、それ裏面がクーポンになってますから。大事にしてくださいね」
「く、くーぽん……?」
『初回限定! こちらの名刺を持参のお客様は料金10%引き致します!』
裏面にはそう書いてあった。もう意味が分からない。
アレクが茫然としている間に、ハルキと名乗った変な少年はテキパキと動く。剝ぎとった鱗を持参の革袋へとしまい、倒れたままの騎士団の連中一人一人に治癒魔法をかけ、未だ燻っている風竜の亡骸に魔法で生み出した水をかけ消火する。ちなみにその際に使われた魔法は、やはり全て無詠唱だった。
「良かったですね。お仲間は全員、生きてますよ。多分、意識もすぐ戻ります」
「あ、ああ。そうか……」
「では、俺はこれで。またのご利用、お待ちしています」
「その、本当にありがとう! 助かったよ!」
『いえいえー』と、笑顔でそう言い残し、ぺこりと一礼して森の中へと消えていく少年を、言葉もなく見詰めていたアレクは、やがて思い出したように渡された手紙の封を切る。
『パパへ。おしごと、たいへんですか?
シルフィはパパがいなくてさびしいです。
だから、はやくかえってきてね!
ママといっしょにまってます!
だいすきなパパへ。 シルフィより』
――彼は涙を流し、神と、そしてあの変な少年に、心から感謝の祈りを捧げた。