②若き支配者
「さっきの組手はすごかったですね。ダン=ルティムと対等に勝負できるなんて、ちょっと尋常ではないと思います」
食堂にて、向かいの席に座ったアマ=ミンが楽しそうに笑っている。
その正面にいるのは俺で、俺の隣にいるのはアイ=ファだ。
「……何もすごいことはない。けっきょく最後まで決着をつけることはかなわなかった」
「相手は五輪の強化選手だった御方ですよ? ルールも知らずに挑んでその結果なのですから、すごいを通りこして呆れてしまいます」
なかなかストレートな物言いではあるが、可憐な笑顔がそれを好印象へと変換してくれる。レイナ=ルウに劣らぬ礼儀正しさでありながら、年齢に似合わぬ落ち着きと不思議な明朗さもあわせ持ったアマ=ミンであった。
「調理学科の生徒はあまり部活動に参加していませんが、あなただったら色々なところから勧誘があったのではないですか、アイ=ファ?」
「うむ。いくつか声はかけられたな」
と、アイ=ファが指を折り始める。
「陸上部とばすけ部とばれー部とそふとぼーる部とてにす部と水泳部とばどみんとん部とさっかー部と弓道部とらくろす部と卓球部とはんどぼーる部とぼくしんぐ部と空手部と柔道部と――たしかそれぐらいであったと記憶している」
「つまり体育会系のほとんどすべてということですね」
「あ。えむえむえー愛好会というのもあった。えむえむえーとは如何なる競技なのであろう」
「MMA、ミックスド・マーシャル・アーツ。総合格闘技のことですね」
どこまでもバラエティにとんでいるのだ。
しかもそれらのすべてに女子部があるというのが、またとんでもない。
斯様に、私立森ノ辺学園はスポーツにも力を入れている学校なのである。
ルド=ルウとダルム=ルウはそのスポーツ科の特待生で、専門は剣道であったが空手や柔道も黒帯の腕前であるはずだった。
「それで、アイ=ファはどこかに入部しないのですか?」
「そのような時間はない。学校の後は、ちゅるみ屋の仕事を手伝わねばならぬからな」
無表情に答えながら、アイ=ファはスプーンを手に取った。
アイ=ファはハンバーグで、俺はカツカレー、アマ=ミンは豚肉と茄子の味噌炒めである。
さすがに調理学科の存在する学園の食堂だけあって、料理の質はなかなかのものだ。メニューの豊富さもちょっとしたレストランなみであろう。すべてのセットに立派なサラダと汁物がついており、栄養価にも気が使われている。
「それは残念ですね。アイ=ファだったらどの競技でも素晴らしい結果を残せるのでしょうけども。……競技によっては、それでプロ選手を目指すことだって可能なのではないでしょうか?」
食事を開始しつつ、アマ=ミンはまだその話題を続けたい様子だった。
しかし、アイ=ファのほうはあまり関心がなさそうだ。
「身体を動かすのは性にあっているし得手でもあるが、それを生業にしようと思ったことはない。私は将来、父と同じ仕事につきたいと願っているのだ」
「へえ、アイ=ファのお父様は何の仕事をなされているのですか?」
「……貿易商?」
と、アイ=ファは子猫のように首を傾げる。
「貿易商なのですか? 発音が半疑問形であるようでしたが」
「よくわからん。しかし素晴らしい仕事なのだろうとは思っている」
それはひょっとして仕事の内容ではなく父親そのものに対する憧憬なのではなかろうかと、俺のほうもこっそり首を傾げさせていただいた。
「でも、貿易商でしたら調理学科ではなく普通科や経済科に編入するべきだったのではないでしょうか? そちらであれば大学部への進学もスムーズであるはずですよ?」
「別に私は何でもかまわぬのだ。どうせしばらくすれば、またこの国を離れることになるのだろうからな」
「え? 親父さんの仕事が一段落したら、しばらくは日本で過ごすんじゃなかったのか?」
俺が尋ねると、アイ=ファは口にしたハンバーグを飲み込んでから答えてくれた。
「そのような予定にはなっているが、父のことだから1年ともつはずがない。仕事とは関係なく、ひとところに留まれぬ性分であるのだ」
それはなかなかに困った親父さんだなあと俺は嘆息する。
するとアイ=ファは、スプーンで切り分けたパテのかけらを見つめながら唇をとがらせた。
「それよりも、アスタよ。このはんばーぐは以前お前に分けてもらったはんばーぐとはずいぶん味が異なるようだ。それは何故なのであろう?」
「うん? それは使っている肉が違うんだよ。この前のハンバーグはポーク100パーセントだけど、ここのは合挽きだったはずだ」
「ぽーくひゃくぱーせんと……」
「全部豚肉ってことさ。ここのは豚と牛の合挽き肉。普通ハンバーグってのは牛のみか合挽きで作られるものなんだ」
「そうなのか」と、アイ=ファは不満げな面持ちである。
カウンターでこのメニューを発見したときはずいぶん嬉しそうに瞳を輝かせていたのに、あんまりお口に合わなかったのだろうか。
「あー、いたいた」と、そこで何者かに呼びかけられた。
「捜したよ、アスタ。調理学科の転入生ってのは、その娘だね?」
それはレイナ=ルウの妹であるララ=ルウだった。
驚くなかれ、ルウ家は7人兄妹なのである。この娘さんは、たしか三姉だ。
年齢は13歳。中等部の2年生。ポニーテールのよく似合う、ちょいと気難しいが活発で可愛らしい女の子である。
そのほっそりとした身体を包むブレザーの色はベージュで、スカートはグリーンが基調のグレンチェック、リボンの色は明るいブルーだ。高等部と混同しないよう、まるきり異なる配色となっている。
「ジザ兄が、その娘を理事長室に連れてこいって言ってたよ。まったくさー、貴重な昼休みに使いっ走りなんてさせないでほしいよねー」
不満そうに言いながら、その手に持っていたチョココロネにかじりつく。
「理事長室に? アイ=ファをかい? いったい何の用事なんだろう?」
「知らないよ。でも、あんまり機嫌はよさそうじゃなかったから覚悟しといたほうがいいかもね」
「おいおい勘弁してくれよ。何も説教されるような理由はないはずだぞ。……たぶん」
アイ=ファのほうを見てみたが、そちらは黙々とハンバーグを口に運んでいた。
何につけ目に立つアイ=ファであるが、学園の風紀を乱してはいないはずだ。
「とにかく伝えたからね。じゃあ、ばいばい」
「うん、ありがとう。……あ、そうだ、今日の放課後ルド=ルウたちがうちの店に来るらしいんだよ。よかったらララ=ルウも一緒にどうかな?」
「えー? そういう話は早く言ってよ! 予定を入れちゃったじゃん!」
「あ、シン=ルウと?」
おもいっきり後頭部をひっぱたかれた。
シン=ルウは彼女の従兄弟であり、ルド=ルウと同級生の物静かな少年である。
「ふん!」と顔を赤くしたララ=ルウは立ち去っていき、アイ=ファはきょとんとした目で俺を見ている。
「すいぶん気性の激しい娘であるようだな」
「あいててて。……うん、あれはララ=ルウっていって、クラスメートのレイナ=ルウの妹なんだよ」
「なるほど」
普段はあんまり人見知りをしないレイナ=ルウであるが、アイ=ファとはあまり相性がよくないらしく、1週間が経過した現在も交流は深まっていない。ゆえに、アイ=ファの反応も薄かった。
「しかしそういえば、私はこの学園の長とまだ顔を合わせたことがなかった。ようやく挨拶の機会が得られるのだろうか」
「いや、理事長様は忙しい身で、あんまり学園には顔を出さないんだよ。だから、その息子さんが理事長代理として学園を取り仕切っているんだ」
「ふむ。しかしあの娘はそれを兄と呼んでいたようだが?」
「そう、だからララ=ルウもレイナ=ルウもみんなこの学園の創設者の血筋ってわけさ」
それにしても、その長男たる理事長代理などは、7兄弟の中でもっとも扱いにくい御仁であるのだ。彼に比べれば、目つきの悪い次男坊だって可愛いものだと思う。
「いったい理事長代理がアイ=ファに何の用事なのでしょうね?」
アマ=ミンも少し心配そうにしている。
そんな中、アイ=ファは素知らぬ表情でハンバーグをぱくぱく食べ続けていた。
◇
「昼休みに呼び出してしまって申し訳なかったね。午後には理事会を控えているので、その前に話しておきたかったのだ」
革張りの椅子に腰かけた理事長代理が、沈着な口調でそのように述べた。
ルウ家の長兄、ジザ=ルウである。
大柄な体躯をダークカラーの三つ揃いに包んだ、若き理事長代理様だ。
いつもにこにこと微笑んでいるような顔つきをしているが、糸のように細い目をしているためか、内心は読みにくい。
そして大学を飛び級で卒業できるぐらいの学力を有していながら、スポーツの方面でも弟たち以上の成績を残している、文武両道のエリートでもある御仁だ。
「では、さっそく本題に入らせてもらおう。高等部の調理学科2年1組のアイ=ファ。貴方が編入してからまだ1週間しか経過していないが――今からでも普通科かスポーツ科に編入しなおす気はないかね?」
「ない」と即答してから、アイ=ファはいぶかしそうに目を細める。
「まさかそのような用件であるとは思っていなかった。わずか1週間で私は調理学科に所属する資格なしとの烙印を押されてしまったのであろうか?」
「そのようなことはない。ただ、貴方のような成績を修めていればそのように勧められるのが当然なのではないのかな」
悠揚せまらず、ジザ=ルウはそう言った。
「学業とスポーツにおける貴方の成績は見事なものだ。どちらの学科に移っても、貴方は十分以上の結果を残すことができるだろう。反して、調理学科の授業では思うように力を出せていないと聞き及んでいる。この成績で調理学科に固執する理由はないように思えるのだが、如何なものかな?」
「なるほど。しかし、私は不得意ならばこそ調理の腕を磨くべきと考えている」
理事長代理を相手にしても、アイ=ファはいつものアイ=ファであった。
いくぶん冷や冷やしながら見守っていると、ジザ=ルウは「ふむ」と逞しい下顎を撫ですさった。
「もちろん進むべき道を定めるのは貴方自身だ。しかし、このままの成績では次の学年に進級することさえ困難であるように思えるのだが」
「困難な道を避けることが正しいとは限らないし、また、私も現在の状態に甘んじるつもりもない」
「そうか。貴方がそういった心持ちであるならば、このような忠言も要らぬ差し出口であったのだろう」
ジザ=ルウは黒檀の大きな卓に両方の肘をつき、いっそうにこやかにそう述べた。
「ただし、貴方ほど優秀な人間を落第させるのは偲びない。調理学科の進級試験において十分な成績を残せなかった場合は、もう1度自分からの提案を考慮してもらえるかな、アイ=ファよ」
「うむ。ならばそのようにぶざまな結果にならぬよう、これまで以上に励みたいと思う」
それでアイ=ファとジザ=ルウの短い会見は終了した。
時間にしてみればわずか数分だが、横で拝聴していただけの俺のほうが、どっと疲れてしまった。
「それでは失礼します」
アイ=ファと肩を並べて理事長室を出る。
あとはもう調理学科の教室までの道のりをたどるだけで、昼休みは終了してしまいそうだった。
「アスタよ、ひとつ確認しておきたいのだが」
と、廊下を歩きながらアイ=ファが語りかけてきた。
相変わらずのクールな面持ちであるが、何やら真剣な目つきである。
「私は現状、進級もままならぬほどの腕前であるのだろうか」
「ああ、うん……現状だと、ちょっと厳しいかもしれないな」
何が厳しいといえば、それを自覚できていないところが厳しすぎる。
我が1組はプロの料理人を目指すクラスであるのだ。「熱を通せば危険はない」ぐらいの意識しか持ち合わせていないアイ=ファでは、まあ厳しいだろう。
「では、これまで以上の修練が必要であるということだな」
視線を真っ直ぐ正面に据えたまま、決意みなぎる声でアイ=ファはそう述べた。
「うん、だけど、アイ=ファは親父さんの言いつけを守っているだけで、調理そのものには興味もないんだろう? だったら、もういっぺん親父さんと進路について話し合ってみるっていうのもひとつの道なんじゃないのかな?」
得意分野を磨くことは、不得意分野を伸ばすことと同じぐらい意義のある行為であるはずだ。
そう思ってそのように進言してみたのだが、アイ=ファには横目でにらまれてしまった。
「この学校に入る前であったのなら、その意見を是としたかもしれん。しかし私も、今では自分の意志で調理の腕を磨きたいと思っているのだ」
「え、そうなのか?」
「うむ。食事に美味いだの不味いだのと区別をつけるのは私の性分に合わなかったのだが、今はその考えも改めさせられている」
「そうか。たった1週間でずいぶんな心境の変化だな」
何の気もなしにそのように答えてしまうと、アイ=ファはちょっと怒った表情で顔を赤く染め、「……誰のせいだと思っているのだ」と低い声で言い捨てた。