①武道場にて
アイ=ファが津留見家の居候となり、あっという間に1週間が経過した。
その1週間で、俺を含む森ノ辺学園のクラスメートたちは大体この奇妙な女の子の生態を解明することに成功できていた。
まず、やっぱりアイ=ファはスポーツのみならず学業においても並々ならぬ才覚を有していることが判明した。
英語のヒアリングなどは完璧であるし、海外育ちであるにも拘わらず現国も古文も日本史も十全で、理数系にも穴はない。来月の中間考査の結果が今から恐ろしいほどだ。
で、運動神経のほうはもう転入初日に明かされた通りである。
週明けの月曜日、2度目の体育の授業では陸上競技が執り行われたため、アイ=ファはそこでもとんでもない記録を次から次へと叩き出していったのだった。
特に見事であったのは走り高跳びで、アイ=ファは自分の身長よりも遥かに高いバーを背面跳びで綺麗にクリアーしていた。
女子選手の日本記録がどうのとエキサイトしている連中がいたような気がするが、さすがにそれは何かの間違いであってほしいと願う俺である。
ともあれ、才色兼備の権化のごときアイ=ファであった。
クラス内の人気はもううなぎのぼりである。
俺が世話などを焼く必要もなく、男子生徒も女子生徒もクラスメートは軒並みその1週間でアイ=ファの虜となってしまっていた。
しかし、アイ=ファが騒がしさを嫌うということもすぐに知れたので、あんまり露骨に擦り寄ろうとする者はいない。
男子連中などは高嶺の花を眺める格好であるし、女子連中も節度のある距離を保ちつつ和やかな関係性を結んでいる。
ただ――俺の勘違いでなければ、女子の内の半数ぐらいは白馬に乗る王子様でも見るような目つきでうっとりとアイ=ファを遠巻きに見つめているような気がしてならなかった。
何にせよ、人気者の座を獲得せしめたアイ=ファである。
その人気の最大の秘訣は、もしかしたらアイ=ファが調理の授業で見せる姿にあったのかもしれない。
これもまた転入初日で知れた通り、アイ=ファには唯一料理の才覚というものだけが備わっていなかったのだ。
聞いてみると、アイ=ファはこれまでまともに学校に通ってはいなかったらしい。
父親の都合で世界中を転々としていたので、1年以上同じ学校に通ったことがなく、その土地その土地で断片的な教育を受けるぐらいの機会しかなかったのだそうだ。
そんな環境であったにも拘わらず、アイ=ファはどのような教科にも対応できている。日本の学校と足並みを合わせるために2ヶ月がかりで自主勉強はしてきたと述べていたが、それで現在の学力を手に入れたというのだからこれはもう才能としか言いようがない。
然して、アイ=ファに料理の才覚はなかった。
勉強やスポーツとは異なり、家ではずっと炊事をまかされていたという経歴を有した上でコレなのだから、残念ながらそのように評するしかないだろう。
優れた容姿と、清廉な性格と、勉強の才能と、運動の才能――天はアイ=ファに二物も三物も四物も与えていたのに、何故かその一点だけは意地悪く人並み以下の腕前しか与えなかったようなのである。
で――調理学科に編入しておきながら、ただひとつ調理の腕だけはふるわないというその有り様が、奇妙にクラスメートたちの興味やら好奇心やら庇護欲やらをかきたててしまったらしかった。
「いわゆるギャップ萌えってやつだね!」と玲奈は評していたが、その表現が当たっているのか俺にはわからない。
とにかくアイ=ファは勉強もスポーツも人並み以上にこなすことができ、容姿は端麗で、気性はクールで、そうかと思えば優しい一面も持っており、誠実で、公正で、そして料理の才能だけはひとかけらも有していないという、どうやらそういう存在であるようだった。
◇
「おーい、次の体育は男子も女子も武道場に集合だからなー」
体育委員の男子生徒がそのように告げてきたのは、1時限目の数学の授業を終えた直後だった。
武道場かよーと、俺は思わず机に突っ伏してしまう。
「どうしたのだ。具合いでも悪いのか、アスタよ」
俺の左隣、窓際の席に姿勢よく座ったアイ=ファが無表情に問うてくる。
「別に身体は何ともないよ。ただ武道場に集合と聞いて気分が滅入っちまっただけさ」
「ふむ。調理ではなく体育の授業であるのだな? 私も何故そのような場所に集合するのか、少し不思議に思っていたところだ」
「うん?」
「ぶどう場」
「ああ、うん、山の中には葡萄畑もあるらしいけどな。そうじゃなくって、武道だよ。わからないかな、柔道とか剣道とか」
「ふむ。聞き覚えがなくもない。それはこの国に伝わる武術の競技であったかな」
そういえばこの娘さんはバスケットボールのルールさえ知らなかったのだ。
本当に、どんな国を転々としていたのだろう。
「なかなかに興味深い。……それで、アスタは何故そのように浮かぬ顔をしているのだ?」
「俺はあんまりそういう類いの競技は得意じゃなくてなー。しかも武道の授業を仕切っている先生は――何というか、ちょっとばっかり個性的に過ぎるんだよ」
アイ=ファはけげんそうにしていたが、百聞は一見にしかずであろう。あの御仁を的確に表現する言葉を、俺は持っていない。
別に悪い人間ではないんだけどなあと、俺は更衣室に向かう前に溜息をついておくことにした。
◇
「わはははは! 欠席者はいないようだな! 大いに結構なことだ!」
武道場に、豪快な笑い声がこだまする。
武道の授業を取り仕切る体育教師ダン=ルティムが柔道着姿で俺たちの前に立ちはだかっていた。
「ふむ、お前さんが噂の転入生だな? たいそうな評判を聞かされていたので、顔を合わせるのを心待ちにしていたぞ!」
「アイ=ファだ。よろしくご指導をお願いしたい」
純白の柔道着に純白の帯をしめたアイ=ファが目礼をする。
この武道の授業だけは男女合同で執り行われるのである。
しかしもちろん授業が始まってしまえばスペースは分けられてしまうので、それを喜ぶ男子生徒はいない。
ちなみにこの武道場は通常の体育館と同じぐらいの広さがあるため、1クラス40名の調理学科の面々だけでは少しばかり持て余すほどだった。
ただし、半面ではスポーツ科の生徒たちが剣道の鍛錬に励んでいたので、それほど物寂しくなることもなかった。
「よし! それでは柔軟体操と受け身の稽古からだ! 各自、怪我などしないように気をつけるのだぞ!」
かくして柔道の授業が開始された。
調理学科において体育の授業は週に2回しか存在しないというのに、どうしてそこに武道の授業などがねじこまれているのだろう。このように過酷な競技はスポーツ科にまかせておけばいいのにな、と思う。
だいたい俺は、この柔道という競技が苦手なのである。
運動神経はぼちぼちのつもりであるけれども、あまり体格に恵まれているほうではないし、そもそも人と取っ組み合うというのが性に合わない。野蛮などと言ってしまったらこの競技に打ち込んでいる人々に申し訳が立たないが、人間には向き不向きというものが存在するはずだ。
そんなわけで、まあ投げられた。
小気味いいぐらい、ポンポンと投げられた。
投げられ上手という不名誉な二つ名を頂戴したこともある俺なのである。そのぶん受け身は得意になってしまったので、そうそう痛い思いをすることはない。
かといって、ひたすら投げられるだけの授業が面白いと思えるはずもない。
しまいには自分よりもずいぶん小柄な相手にも巴投げで投げられてしまい、俺は大の字でひっくり返ることになった。
「相変わらずアスタは弱えなー。足腰の鍛錬が足りてねーんじゃん?」
陽気な声をかけられて、大の字のままそちらに顔を向ける。
剣道着姿の小柄な少年が悪戯小僧っぽく笑いながら畳の上に立っていた。
レイナ=ルウの弟、中等部3年のルド=ルウだ。
「やあルド=ルウ、ちょっとひさびさだね。……ってことは、やっぱりそっちは授業じゃなくて部活だったのかな?」
「ああ。高等部との合同稽古さ。週末には練習試合が控えてっからさ」
防具の面だけを外した物々しい姿である。
しかし、細身で中性的な顔立ちをしているためか、黄褐色の頭に手ぬぐいを巻き、純白の剣道着と紺袴、使いこまれた漆黒の防具を纏ったその姿は、若武者のように涼やかで凛々しくもあった。
「あー、アスタの顔を見てたら腹が減ってきちまったな。なあなあ、今日の夜、アスタの店に行ってもいいか?」
「ご来店を断る理由はないさ。ルド=ルウはひとりで3人前は食べてくれるしねえ」
「だって、アスタの料理も親父さんの料理も死ぬほど美味いんだもんよ」
そんなことを言いながら、ルド=ルウはにっと白い歯を見せた。
何とも魅力的な笑顔である。
中等部ではさぞかしモテているに違いない。
「……ルド、休憩するにはまだ早いぞ」
と、新たな人影が寄ってくる。
上から下まで漆黒の武者姿。すらりと背が高く、面の向こうには狼のような目が光っている。
ルド=ルウの兄、高等部3年のダルム=ルウだ。
あんまりこの兄君が得意でない俺は、慌てて居住まいを正す。
「……《つるみ屋》の小せがれか」
その狼みたいな目が非友好的な光をたたえて俺を見下ろしてくる。
小せがれと言われても年齢は1歳しか変わらないのだが、あえて反論はしないでおく。あんまり迂闊なことを言うと、ところかまわず胸ぐらをひっつかんできたりするのだ、この兄君様は。
「アスタって、弱っちーくせに物怖じしないじゃん? だからダルム兄もついついムキになっちまうんだよ」
と、ルド=ルウに評されたこともあるが、俺としては相応に気を使っているつもりなのである。だからたぶん、相性が悪いのだろう。同じ血を分けたルド=ルウやレイナ=ルウとはそこそこ以上に仲良くさせていただいている俺なのだ。
「なあ、ダルム兄、放課後の稽古が終わったら《つるみ屋》に行こうぜ! ひさびさにリミとかも連れてさ」
「そんな話は、稽古の後にしろ。だいたいお前は中等部の主将になったくせに――」
というダルム=ルウの不機嫌そうな声が、途中でかき消された。
「ぬおわああぁぁぁっ!」という野太い雄叫びが、武道場に響きわたったのである。
数瞬遅れて、地響きのような振動が足もとを揺らす。
驚いて振り返ると、ダン=ルティムが畳の上にひっくり返っていた。
そのすぐかたわらに立ちはだかっているのは――なんと、アイ=ファだ。
「ううむ、見事だった! ……しかしな、アイ=ファよ、払い腰をかけてきた相手の軸足を刈ることは反則とされているのだ!」
むくりと巨体を起こしたダン=ルティムがそう述べると、アイ=ファは道着の乱れを直しながら「それは申し訳なかった」と頭を下げた。
「いや、事前に説明をしなかったのだから俺の責任であろう! まさかそのような説明が必要になるなどとは思っていなかったのだ! では、あらためてもう1本!」
「うむ」
ヒグマのごとき巨体のダン=ルティムが、山猫みたいにしなやかな身体つきをしたアイ=ファにつかみかかる。
その恐ろしげな光景に、俺は唖然としてしまった。
「すげーな。あいつ、ダン=ルティムを投げたのかよ? なんか反則らしかったけど」
ルド=ルウが感心したような声をあげる。
その間も、取っ組み合ったアイ=ファとダン=ルティムは、相手の襟もとをつかんだまま右に左にと揺さぶりをかけ、たがいにローキックのごとき足技を繰り出していた。
「な、な、何でアイ=ファがダン=ルティムと組手をしてるんだ!? あの人、柔道五段だろ!?」
「あー、いちおう五輪の強化選手だったしな。食中毒で倒れてなかったら確実に出場してたんだろうし」
で、練習試合でも公式試合でもダン=ルティムに勝てたことのない選手が代表に選ばれたあげく金メダルを獲得した、という逸話はこの学園でも語り草になっている。
そんな化け物と、どうしてアイ=ファが取っ組み合っているのだ!
「あいつ、アイ=ファってのか? 見ない顔だな。すっげー美人じゃん」
「そ、そんな呑気なことを言ってる場合じゃないだろ? 早く止めないと!」
「ダン=ルティムが白帯相手に危険な指導などをするものか」
ダルム=ルウが、不機嫌そうに言う。
その瞬間、再びダン=ルティムの咆哮が響きわたった。
「ふぬおおおぉぉぉっ!」
ダン=ルティムの太い左足が、アイ=ファの細い右足を内側から刈ろうとする。
大内刈だ。
ダン=ルティムの突進力に負けて、アイ=ファの身体が後方に倒れ込む――かに見えたが、アイ=ファは右足を刈られたまま左足だけでステップを踏み、ダン=ルティムの左手側に回り込んだ。
そうして身体を大きく開き、右手は相手の背中側に回し、腰に腰をのせようとする。
そうはさせじと、ダン=ルティムも突進を急停止させ、後方にのけぞった。
すると今度はそのタイミングに合わせて、アイ=ファは身体を開いたままダン=ルティムに体重をあびせかける。
ほとんど横並びのような体勢で、もろとも後方に倒れかかる格好だ。
ダン=ルティムは、両足で踏ん張ろうとする。
しかし、その左足にはまだアイ=ファの右足がかかっている。
そして――アイ=ファの右足がダン=ルティムの左膝にからみつき、その自由を奪う。
均衡を失ったダン=ルティムは、背中から畳に叩きつけられた。
「うわ、綺麗に倒されてんじゃん!」
ルド=ルウが興奮気味の声をあげる。
それに、ダン=ルティムの笑い声がかぶさった。
「うわははは! どこまで器用に動けるのだお前さんは! ……しかし、今の倒し方は河津掛けといって、やっぱり反則技なのだ!」
「そうなのか。存外にややこしい競技であるのだな」
ともに倒れこんでいたアイ=ファが身を起こす。
それを見つめるダン=ルティムの瞳は、無垢なる赤ん坊のようにきらめいていた。
「しかし! 1日に2度も畳に背中をつけさせられたのは10年ぶりぐらいかもしれん! お前さんの力量は大したものだぞ、アイ=ファよ!」
「……それでも反則では意味がなかろう」
「その通りだな! ではもう1本だ!」
「うむ」
どうやらこの死闘は授業終了のチャイムが鳴るまで継続されるようだった。
呆れたあまり声も出ない俺のかたわらで、ルド=ルウは「すげーすげー!」と、はしゃいでいる。
そしてその向こう側では、いつのまにやら防具の面を外していたダルム=ルウが険しい目つきでアイ=ファたちの姿をにらみすえていた。