③アイ=ファINつるみ屋
2015.5/22 タイトルを修正
夜である。
正確には、夕方の5時。そこから午後の10時までが《つるみ屋》の夕の部の営業時間となっていた。
「とりあえず、今日のところは配膳をお願いするよ。まずは店の雰囲気になれてくれ」
コンロの前に置いた背の高い椅子に陣取った親父がカウンターごしに呼びかけると、アイ=ファは「了承した」と、うなずき返した。
基本的に、《つるみ屋》は親父と俺の2人で切り盛りしている。たまに玲奈が手伝ってくれるぐらいで、それ以外の従業員を雇ったことはない。
ゆえに、配膳係にはユニフォームなども存在しないので、アイ=ファは自前の衣服にエプロンをつけただけの格好と相成った。
本日は無地のTシャツであったが、足もとはやっぱりショートパンツなので季節感ゼロのいでたちだ。
こちらとしては、海の家にでもまぎれこんでしまったような心地である。
それにまあ、スポーティな装いなので嫌味はないが――すらりとした健康的な足のラインが、ひたすら目にまぶしい。
「……昨日からずっと気になってたんだけどさ。まだ4月なのにそんな格好で寒くないのか?」
「大事ない。ビーバー村に比べれば暑いぐらいだ」
そんな村は、寡聞にして耳にしたこともなかった。
ともあれ、今は仕事に集中だ。
「ご覧の通り、親父の足があの有り様だからさ。ここ最近は俺の負担が半端じゃなかったんだよ。配膳だけでも受け持ってくれればだいぶん助かるから、よろしく頼むな」
「うむ。世話になる分の恩義はこの仕事で返す心づもりだ」
俺たちの父親の間で金銭的なやり取りは一切生じていないらしい。
つまりはこの労働こそが宿泊費の代価となるので、思うぞんぶん働いていただこうと思う。
「ガラの悪いお客さんはそんなにいないけどさ。週末とかは酔っ払いも増えるから、もめごとだけは起こさないように気をつけてくれよな」
「うむ。腕に覚えはあるので問題ない」
「腕を使ったら駄目なんだってば! 笑顔でにっこり受け流してくれよ!」
「…………それだけはどうにも難しい」
と、アイ=ファは口をへの字にしてしまう。
「しかし、客人の立場を重んじるべしという理屈はわかる。要は、礼を失することがなければよいのであろう? それならば大丈夫だ」
本当に大丈夫なのかなあと俺は嘆息することになった。
しかし、結論としては全然大丈夫だったのである。
まったくにこりともしないアイ=ファであるが、性格はけっこう今時の若者には珍しいぐらいに生真面目かつ実直であるのだ。そういう内面が涼やかな空気として発散されているのか、態度も口調も接客業の水準には達していないにも拘わらず、てきぱきと働くアイ=ファに文句をつけるお客さんなどは、閉店までにひとりとして存在しなかった。
それにアイ=ファは、驚くぐらいに物覚えも良かった。
やはり頭の出来栄えが違うのだろうか。営業を開始して2時間後にはもう注文聞きとレジ打ちの仕事までまかせられるようになり、その合間には皿洗いの仕事もやっつけてくれたので、俺も調理の作業に専念することができてしまっていた。
真面目で、物覚えもいい上に、それは無尽蔵の体力と集中力に裏打ちされていたのである。
正直に言って、これほど能力の高い人間を目にしたのは生まれて初めてかもしれない。
しかも容姿まで人並み以上に優れているのだから、完璧すぎるぐらい完璧だ。これで調理の技術まで手に入れてしまったら、本当に非の打ちどころがなくなってしまうのではないだろうか。
「まったく大したもんだなあ。玲奈ちゃんにも負けない働きっぷりじゃないか」
親父もすっかりご満悦である。
「これならお前の苦労も半減だろう? アイ=ファちゃんに感謝するんだぞ、明日太」
「ああ、はいはい。どこかの誰かさんが車にひかれたりしなければ俺が苦労することもなかったんだけどな」
かくして、その日の営業は無事に幕を閉じることになった。
親父はレジの中身を手にひょこひょこと居間に引っ込んでいき、俺はアイ=ファとともに調理器具の洗浄作業に取りかかる。
「……私は少しはアスタたちの力になれたのだろうか?」
フライパンを洗いながらアイ=ファがそのように尋ねてきたので、俺は「もちろん」とうなずいてみせた。
「さっきの親父の言葉を聞いてただろ? 十分以上の働きっぷりだったよ」
「そうか。ならばアスタも私がこの店に居座ることを許してくれるのだろうか?」
「許すも許さないも、この店の主人は親父だからな。俺には拒否権なんてないんだよ」
「その権利があれば行使していたということか」
振り返ると、アイ=ファは無表情なままフライパンを水で濯いでいた。
「別に俺は、お前を預かるのが嫌だったわけじゃないよ。ただ、年頃の娘さんと同じ屋根の下で暮らすってのは、ちょっとばっかりアレだろう?」
「アレの意味がわからん」
「アレはアレだよ。学校の連中だって、俺たちをおかしな目で見ていたじゃないか?」
「余人にどう思われようが、肝要なのは自分の気持ちであろう」
水道の水を止め、アイ=ファが俺を振り返る。
「この家の家人であるアスタが望まぬなら、私はやはり自分でねぐらを探そうと思う。……私がこの店に居座ることは、アスタにとって迷惑か?」
この直截さは異国仕込みなのか、それともアイ=ファのもともとの気性なのか。
俺は数秒間ばかり考えこむふりをしてから「迷惑ではないよ」と答えてみせた。
するとアイ=ファは「そうか」とつぶやき――いきなり、にこりと口もとをほころばせた。
「存外にこの仕事は楽しいと思えたので、滞在を許してもらえるのならば私も嬉しい。お前に感謝の言葉を捧げさせてもらう」
こんなのは、完璧に不意打ちだった。
いきなりこんな無防備な笑顔を見せつけられてしまったら、リアクションの取りようがないではないか。
そうして俺の胸中をかき乱すことに成功せしめたアイ=ファは、残りの仕事を片付けるためにまたてきぱきと働き始めたのだった。
◇
(……何だかよくわからない疲れ方をした1日だったなあ)
午後の11時15分。温かい布団にくるまりながら、俺はそのように考えていた。
アイ=ファが尊敬と信頼に足る人物であるということは、わずか1日で理解することができた。仕事の面でもあれほどの力を発揮してくれたのだから申し分ない。
それでもやっぱり同年代の娘さんとの同居生活というのはどこかで無理が生じてしまいそうだったし、なおかつ行動パターンの読みづらいアイ=ファと接するのはいささかならず精神力を摩耗させられた。
(まあ、そんなのは相殺できるぐらい魅力的な人間ではあるんだけど……何を考えてるのかわからないってのが、ちょっとばっかり悩みどころだな)
おかげさまで、いい感じに疲弊しているのになかなか睡魔が訪れてくれない。俺は布団の上で半身を起こし、新しい空気でも入れてみようかと窓のほうに手を伸ばした。
すると、思いも寄らぬ姿がそこに見えた。
アイ=ファだ。
アイ=ファが庭で、ぼんやりとたたずんでいる。
庭といっても、猫の額がごときささやかな空間である。母の生前は茄子だのミニトマトだのが育てられていたその小さな草むらから、アイ=ファはじっと夜の空を見つめているようだった。
居間を除く居住空間は、すべて2階に割りふられている。足を痛めた親父は階下の居間で眠るようになっていたが、俺やアイ=ファの部屋は2階だ。だから俺は、金褐色にきらめくその髪とほっそりとした立ち姿を上から見下ろす格好になっていた。
アイ=ファは何も気づかずに、俺から見て右手の方向に視線を据えている。
その方角には、青白く光る月があった。
南米とは、日本のほぼ裏側に位置する国であったはずだ。
だからアイ=ファの父親は、今ごろ眩い太陽の下で自分の仕事に取り組んでいるのだろうと思われる。
しかしそれでも、俺はアイ=ファが青白い月を見上げながら異国の父親へと思いを馳せているような気がしてならなかった。
(俺と同じ年齢で親と引き離されて、ロクな身寄りもない国で暮らすことになって――本当は、不安だったり寂しかったりもするんだろうなあ)
だけどアイ=ファには、それに耐える力がある。そんな風に考えて、アイ=ファの父親も大事な一人娘を俺の親父なんかに預ける決断を下せたのだろう。
その判断に文句をつける気はないが――半年後だか1年後だかにまた一緒に暮らせるようになったら存分に甘えさせてやれよ、と思わずにはいられなかった。
(あんまり人づきあいは得意そうじゃないから、明日はもうちょっと気を使ってやるか。アマ=ミンあたりに協力してもらえれば、まあ大丈夫だろう)
そんなことを考えながら、俺は窓を開けぬまま布団に戻った。
明日も朝は早いのだ。眠らなくては、こちらのほうがまいってしまう。
そうして俺がようやくウトウトしかけると、古い階段がキシッ、キシッと軋む音色が聞こえてきた。
ようやくアイ=ファも布団に入る気持ちになれたらしい。
今夜は部屋を間違えるなよ、と俺は半覚醒の頭でこっそり苦笑した。
そこに今度は、キイッ……とドアの開けられる音が聞こえてくる。
この音は、俺の部屋のドアの音ではないだろうか?
かつての母親の部屋――現在のアイ=ファの部屋は和室なので、ドアではなくフスマなのだ。
そして、しばらくの沈黙。
やっぱり寝ぼけて、俺の部屋のドアを開けてしまったのだろうか。
それとも俺に何か用事でもあったのだろうか。
何となく不自然な感じの間であったので、後者であったのかもしれない。
だけど俺も、ようやく訪れた睡魔を手放す気にはなれなかった。何か話があるなら明日の朝に聞かせておくれ、と目は開けずにおく。
しばらくすると、また同じ音をたててドアが閉められた。
おやすみアイ=ファ、と心で念じておくことにする。
すると――抜き足差し足で床を踏むような音が聞こえた気がした。
そうして何者かが息を殺しながら俺のかたわらに膝をつき、そろそろと身を横たえる気配がして――毛布のかかった背中に、ひかえめな重みが委ねられてくる。
そこまでが、限界だった。
俺は身体を反転させて、背中側の侵入者を振り返る。
自分の腕を枕にしてゆったりと身を横たえたアイ=ファと、真正面からばっちりと目が合った。
「……起きていたのか、アスタよ」
「な、な、な、何をしてるんだ、お前は!?」
「大きな声を出すな。……寝ぼけて部屋を間違えただけだ」
「そんな理路整然とした寝ぼけ方があるか! おもいっきり足音を忍ばせてたじゃないか!」
「……それに気づいた上で眠ったふりをしていたというのならば、お前はずいぶん人が悪いのだな」
と、アイ=ファは不満そうに唇をとがらせる。
その愛くるしい表情も、鼻先15センチの至近距離だ。
「それじゃあ昨日も寝ぼけてたわけじゃないのか? どうして自分の部屋で寝ないんだよ!」
「大きな声を出すなというのに。……眠る部屋に他の人間がいないという環境になれていないだけだ。これぐらいは目こぼししてくれてもよかろう」
「いいはずあるか! 公序良俗という言葉を知らないのか!?」
「知らん」と言いながら、アイ=ファはまぶたを閉ざした。
「お前たちのことは家族同然に考えてよい、という話だったではないか。ならば何も誹謗される筋合いはない。騒いでおらずに、お前も眠れ」
「眠れるか、この状況で!」
「眠れぬのか。お前もお前で世話のかかる人間だな」
そんなことを言いながら、アイ=ファはぽん、と俺の頭の上に手を置いてきた。
「ならば、こうしておいてやる。寝床を拝借するせめてもの礼だ」
いったいアイ=ファの父親は娘にどういう教育をしてきたのだろうか。
アイ=ファはまるで子供をあやすような仕草で俺の頭をゆっくり撫で始め、ちょっと満足そうに口もとをほころばせたかと思うと――そのまま、ころりと自分のほうが寝入ってしまった。
今日の朝方にも見た通りの、とても安らがな寝顔である。
ふざけるなー! と、俺は心の中で絶叫することになった。
そうしてアイ=ファとともに過ごした長い1日は、ようやく終わりを告げたのだった。