②猛撃の転入生
調理学科の授業は、かなり特殊な編成になっている。
ざっくり説明するならば、単位の半分は通常の学業、残りの半分が調理の授業にあてられている感じだ。
たとえば木曜日の今日などは、1、2時限目が通常科目で残りはすべて調理の授業となっており、明日の金曜日はこの時間割が逆転する。
俺としては一から十まで調理の授業であったほうが望ましいぐらいであったのだが、専門職を目指すとしても一般教養をおざなりにしてはならじ、というのがこの学園の方針であるらしい。
で――1時限目は数学であり、2時限目は体育であったわけだが。わずかその2時間で俺たちはアイ=ファの凡庸ならざる才覚を見せつけられることになったわけである。
勉強もスポーツも得意そうだという俺の印象は当たっていた。当たりすぎていた。まさかここまでとは予想できていなかったので、そういう意味では大ハズレであったかもしれない。端的に言って、それは「得意そう」などという生易しい言葉にあてはまるレベルのお話ではなかったのだった。
特に、スポーツだ。
その日の体育は、男子がサッカーで女子がバスケだった。
まず、アイ=ファは授業の開始時に「ルールを知らない」と、のたまわっていたそうだ。
その10分後には、豪快なダンクショットをぶちかましていた。
また、バックロールターンやロッカーモーションを駆使するアイ=ファの猛攻を制止できる女子生徒はひとりとして存在しなかった。
それはまるで水を得た魚というか、わずらわしいスカートから体操着にフォームチェンジできたことがすこぶる嬉しそうな様子で、アイ=ファは縦横無尽にコートの上を駆け回っていた。
そちらに比べれば瑣末ではあるものの、数学の授業でも活躍がなかったわけではない。教師に指定された問題にはすらすらと澱みなく答えていたし、授業の最後の小テストでは誰よりも早く筆記用具を置き、後はぼんやり窓の外を眺めていた。
その小テストの結果が満点であったとしても、俺は驚かなかっただろう。それぐらいアイ=ファは最初から最後までいっぺんも迷いを見せることなく、あらかじめ書かれている文字をなぞるかのようななめらかさで筆先を走らせていたのである。
そんなわけで、3時限目の授業が始まる頃には、アイ=ファに向けられる視線には多分に憧憬の眼差しも含まれることになった。
人間とは、あまりに非凡な存在に出会ってしまうと、ひがむことすら忘れてしまうものなのだろうか。
それともそれは、アイ=ファの秀麗な容貌とクールなたたずまいがもたらす必然的な結果であったのだろうか。
ともあれ、アイ=ファの魅力と吸引力がクラスを制圧するのは時間の問題であるように思われた。
そんな中、3時限目の調理の授業は至極粛々と開始されたわけである。
「今日の授業、豚肉、調理です」
特別講師のシュミラルが、調理室の教壇でそのように発表した。
異国生まれで少し言葉はたどたどしいものの、腕は確かな料理人である。
実習の際は、このように外部から名のある料理人が招かれることも珍しくはなかった。
「前回の授業、参考に、好きな料理、作製してください。それが、あなたたち、昼食なります」
本日は、自由調理の授業であった。
豚肉をメインに据えれば献立は自由という、シュミラル講師らしい大らかな内容だ。
「転入生、アイ=ファ。あなた、前回の授業、受けていませんね。指導、必要ですか?」
返答は「否」であった。
「献立が自由であるならば問題はない。私は幼き頃から炊事の仕事をまかされていた」
「それなら、安心です。食材、調理器具、好きなもの、使ってください」
「うむ」
調理室には、業務用の馬鹿でかい冷蔵庫が何台も並んでいた。
冷蔵庫と逆側の壁には鉄鍋やフライパンや調理刀といった調理器具の収納された棚があり、どれでも使い放題である。40名からの生徒たちが好きなだけ腕がふるえるように、作業台も大きく作られている。
総生徒数は普通科の3分の1ていどであるのに校舎をまるまるひとつ専有している理由は、この設備の豪華さにあった。地下のフロアには燻製室や解体室もあり、屋外にはちょっとした野菜畑や養豚場まで併設されているのだから驚きである。
「アスタは何を作るのですか?」
と、隣の作業台に陣取ったレイナ=ルウが笑顔で問うてきた。
どうやら体調はだいぶん回復してきたようである。玲奈と同じぐらい小柄で、なおかつ玲奈とは比較にもならぬほど女性的な起伏にとんだ身体に、白い調理着がとてもよく似合っている。
「俺はハンバーグを作る予定だよ。100パーセント豚肉のポーク・ハンバーグだ。そっちは?」
「わたしはスープにしようと考えています。醤油を使った和風スープですね」
「ふーん? けんちん汁ではなく和風スープ?」
「はい。和風だしだけではなくブイヨンなども配合して、和洋折衷の味に仕立てたいのです。具材のほうも、豚肉はスモークチップで炙ってベーコン風に仕上げて、野菜はタマネギやジャガイモと、それに芽キャベツやパプリカなども使ってみる予定です」
「へー、美味そうだね。でも、パンやライスが支給されるっていっても、スープだけだと物足りなくないかな?」
「……でしたら、おたがいに多めに作ってシェアしませんか?」
調理着のすそを握ってもじもじとするレイナ=ルウである。
「乗った」と俺は即答した。
その瞬間――俺たちの背後から、悲鳴とも歓呼ともつかぬ声があがった。
振り返ると、とんでもない情景がそこに現出していた。
すなわち、天をも焦がさんばかりに噴きあがった炎と、その炎を前に敢然と立ちはだかったアイ=ファの後ろ姿である。
「馬鹿、お前、何やってんだよ! 危ないだろ!」
どうやらフライパンの中身にコンロの火が移ったらしい。周りの連中が騒ぐばかりで硬直してしまっているので、俺はまずアイ=ファの脇の下から手を伸ばしてガスの火を止め、それからフライパンを奪い取った。
アイ=ファが無表情で俺を振り返る。
「この液体を投入したら火が燃え移ってしまったのだ。私も驚いている」
「ちっとも驚いてるようには見えないけどな! いったい何を入れたんだよ?」
炎上するフライパンを手にした俺の鼻先に、半分ほど量の減ったオリーブオイルの瓶が突きつけられる。
オリーブオイルが発火するだなんて、いったいどれほどの熱でフライパンを蹂躙していたのだろうか。
「危険を感じたので水をかけたら、さらに炎が大きくなった。この国の水は、燃えるのか?」
「危ねえなあ! 燃えた油に水をかけるやつがあるか! いいから、そこのフタをよこせ!」
フライパンをコンロに戻し、ゆらゆらと揺れる炎の動きを見計らいつつ、アイ=ファから受け取った鉄のフタを素早くかぶせる。
何とかスプリンクラーが反応する前に炎を消し去ることができた。
おおーっと気の抜けた声があがり、クラスメートの何人かがぱちぱち手を打ち鳴らす。
「見事です。アスタ、怪我、ありませんか?」
振り返ると、シュミラル講師が静かな面持ちで消火器をかまえていた。
「大丈夫です」と答えてから、俺はそろそろとフタを外してみる。
フライパンには、かつて豚のブロック肉であったと思われる物体が暗黒のケシズミと化してくすぶっていた。
「もったいないなあ。お前はいったい何を作ろうとしてたんだよ?」
「食事だ」
「いや、そうじゃなくって。ブロック肉をまるごと焼いてオリーブオイルをぶっかけるって、そいつはいったいどういう料理なんだ?」
「……言葉の意味がよくわからん。肉だけでは栄養が足りぬと思い、この液体を入れたのだ。これは野菜の汁なのだろう?」
「そりゃまあ確かに植物由来ではあるけどさ。イタリア人だってそんな豪快な使い方はしないと思うぞ?」
「やはり、手馴れた鍋物にするべきであったか。料理の授業ということで、私も少し気負っていたのかもしれん」
あくまでも無表情に言いながら、アイ=ファは静かに頭を下げる。
「手間をかけさせてしまい申し訳なかった。お前も自分の修練に戻るがいい、アスタよ」
本当に大丈夫なのだろうかと危ぶみながら、俺は自分の作業台に戻る。
そちらでは、レイナ=ルウが死ぬほどやきもきしながら待ち受けていた。
「大丈夫ですか? アスタが怪我をしてしまうのではないかと思い、心臓が止まりそうになってしまいました」
「オーバーだな。ああいうときは落ち着いて対処すればいいんだよ」
「あの状況で落ち着いていられたのはアスタとシュミラル講師だけだったと思います。……いえ、アイ=ファ自身も慌ててはいなかったようですが……」
「本当にな。落ち着き払って最悪の手順をチョイスするんだからおっかないよ」
そのアイ=ファは、鍋で水を煮立てながら、汚してしまったフライパンをせっせと洗っていた。
あちらも白い調理着姿がきりりと似合っていたのだが――何だか、放っておけない感じだ。
「まあいいや。こっちも作業に取りかかろう。昼食を食いっぱぐれたら大変だからな」
「そうですね」
俺はタマネギのみじん切り、レイナ=ルウはスモークの準備に取りかかる。
それからしばらくして背後の様子をうかがってみると、アイ=ファは煮立てた鍋の中に小麦粉をどばどば投入していた。
で、その後は手に取ったタマネギをじっと見つめていたかと思うと、乾燥した表皮をばりばり剥いて、それもそのまま鍋に放りこんでしまう。
俺は溜息を噛み殺しながら、豚肉を挽くために牛刀を取りあげた。
◇
「皆さん、手際、中々でした。午後の授業、レポート、提出してもらうので、しっかり味わってください」
調理室の隣にある食堂で、授業の一環であるランチが開始される。
食べる前に全員分の料理を見て回る取り決めになっていたので、俺も存分に目と鼻を楽しませていただいた。
本日はなかなかバラエティにとんだラインナップであるようだ。
角煮や肉じゃがといった王道のメニューから、柚子あんかけのロースのソテー、四川風の回鍋肉、パルメザンチーズの芳しいミラノ風カツレツ、りんごソースのポークピカタなど、ぞんぶんに趣向が凝らされている。これこそが、自由課題の醍醐味であろう。
「アスタはハンバーグですか。とても美味しそうですね」
通りすぎざま、アマ=ミンがそのように言ってくれた。
そのクラス委員長殿の献立は、香ばしく焼きあげられたスペアリブだった。
そして――問題の転入生である。
アイ=ファの席には、クリームシチューのような料理が置かれていた。
だからべつだん誰の目も特別には引いていなかったが、俺の鼻はごまかせない。その料理からは、おもに小麦粉の香りしか感じられなかった。
「では、いただきましょう」
シュミラル講師の合図とともに、俺たちは箸やフォークを取る。
せっかくの調理実習で、自分の料理だけを食べるのでは面白くない。俺やレイナ=ルウばかりでなく、大半の人間が料理を多めに作って、それを仲の良い友人らと分け合う光景があちこちで見受けられた。
「どうぞ、召し上がってください」
と、ここでも隣の席を確保したレイナ=ルウが白い小皿に分けた和風スープを差し出してくる。
チップで炙った豚肉の香りがとても食欲をそそられる。淡い色合いをしたスープにはうっすらと油の膜が張っており、その向こう側にジャガイモやパプリカなどの姿が透けていて、ビジュアル的にも申し分ない。
お返しに、俺も自分の料理を取り分けてみせた。
こちらはトマト煮込みのポーク・バーグである。
トマトソースにはブラックペッパーとバジルとニンニクをきかせており、添え物はタマネギとエリンギのソテーだ。
「ああ、豚肉だけでもこんなに美味しいハンバーグが作れるのですね」
レイナ=ルウは、笑顔でそのように評してくれた。
「このスープも美味いよ。示し合わせたわけでもないのに、何かセットの料理みたいだな」
レイナ=ルウの作った和風スープとやらは実に柔らかい味わいをしており、肉汁たっぷりのポーク・バーグとの相性も抜群であるように感じられた。
レイナ=ルウも、嬉しそうに微笑んでいる。
さて――
そんな俺たちの向かいの席では、アイ=ファが無表情に自分の料理をすすっていた。
銀のスプーンを一定の速度で上下させて、美味いのやら不味いのやら、そのクールな面持ちからはまったくもって内心をうかがうことができない。
また、調理中のバースト事件でみんな少し怖れをなしてしまったのか、ちらちらと視線を送っている人間は多数いるのに、誰もアイ=ファに近づこうとはしない。
俺は自分の料理を三口ほど味わってから、心を定めて声をかけてみた。
「なあ、アイ=ファ、俺の料理も食べてみないか?」
アイ=ファは、静かに面を上げる。
「ありがたい申し出だが、過度な栄養摂取は身体の害になる。今日はあまり身体を動かしていないので、私はこれで十分だ」
「そんなことないだろ。体育の授業ではすっげー活躍だったじゃん」
「……男衆は建物の外で修練に励んでいたのではなかったのか?」
みんな教師の目を盗んでお前の活躍を観賞していたんだよ、などという説明は省略させていただく。
「それなら、お前の料理も半分わけてくれよ。他の人間の料理を食べるのも、この授業では大事なことなんだぞ?」
アイ=ファは無表情に首を傾げて「そうなのか」とつぶやいた。
クールだが、意外に素直な面もあるらしい。アイ=ファはテーブルにあった小皿を取り上げて、そこにクリーム色の謎のスープをなみなみと注いでくれた。
「ありがとうな。それじゃあ、こいつをどうぞ」
俺も鍋に残っていた最後のパテをすくいあげて献上してみせる。
まあ要するに、俺も最初から3人前の料理を仕上げていたわけである。
皿に盛られたポーク・バーグを、アイ=ファはけげんそうにじろじろと検分した。
「おかしな形だな。肉なのに、丸い」
「ハンバーグだよ。お前の育った国にはなかったのか?」
「はんばーぐ……」
不思議そうにしているアイ=ファを横目に、俺はスプーンで謎のスープをすくってみた。
質感も、クリームシチューのようにとろりとしている。
しかし、小麦粉と豚肉、それにタマネギとペッパーの匂いしかしない。
それ相応の覚悟をもって、そいつを口に入れてみると――やはり、小麦粉と豚肉とタマネギとペッパーの味しかしなかった。
何もおかしな食材は使っていないのに、調和のちょの字も感じられない。音楽でたとえるなら、ボンゴとギターと木琴とトランペットがてんでバラバラの曲を演奏しているような味わいであった。
「不味い!」と叫ばずに済んだのは、最初に覚悟を固めていたおかげだ。
レイナ=ルウは、とても心配そうに俺の様子をうかがってくれている。
「うーん、独特の味わいだな……こいつはお前の得意料理なのか? たしか、炊事の仕事はまかされていたとか言っていたよな?」
「父は仕事が忙しかったので私が受け持っていただけだ。食材に火を通すのに得意もへったくれもなかろう」
「……基本的な疑問が生じてきたぞ。どうしてお前は調理科なんかに編入してきたんだ、アイ=ファ?」
「知らん。そのように取り決めたのは父であるからな」
それじゃあもしかしたらその親父さんは、娘の不得意分野を伸ばすためにこそ、この学科を選択したのだろうか。
いちおうここは、プロの料理人および栄養士などを志す生徒が集まる学科であるはずなのだが……
「お前は料理が得意なのだな、アスタ。朝にいただいた食事も、なかなかに美味だった」
「うーん、あれは塩ジャケを焼いただけだけどな。まあ、よかったらそいつも食べてみてくれよ」
「うむ」とアイ=ファはようやくスプーンを手に取った。
フォークに持ち替えるのが面倒であったのか、それでパテを切り分けて、口に運ぶ。
すると――アイ=ファは機能停止した。
「どうした? 口に合わなかったか?」
心配になって声をかけると、上目づかいでにらまれてしまう。
その後はせっせとスプーンを動かして、アイ=ファは200グラムのポーク・バーグをあっという間にたいらげてしまった。
「どうだったかな? 俺としてはまあまあ自信作だったんだけど」
アイ=ファはうつむき、金褐色の前髪で表情を隠した。
「……だった」
「え?」
「美味だった、と言っている」
よく日に焼けた褐色の頬が、うっすら赤く染まっている気がする。
よくわからないリアクションであったが、俺の胸にはそこはかとない満足感がじんわり満ちてきた。