③宴の終わり
2015.8/14 更新分 1/1
今回の更新分はここまでです。
そうしてゆるゆると時間は過ぎていき、宴もたけなわという頃合いで、レイナ=ルウが俺たちに近づいてきた。
「あの、アスタ、ちょっとご相談したいことがあるのですが……」
「うん? 何だい?」
俺たちは、シン=ルウ、ララ=ルウ、リミ=ルウの3名を相手に親睦を深めている最中であった。
料理も一通り賞味し終えて、胃袋の張り具合も9割ていどに達している。
「ええと……ちょっと、静かなところでお話できませんか?」
レイナ=ルウは、恥ずかしそうにもじもじしながら、上目づかいで俺を見つめてくる。
いったい何だろう、とウーロン茶のグラスをテーブルに置いたところで、今度は別方向から「おい」と低い声を投げかけられた。
「アイ=ファとかいったな。お前に少し話したいことがある」
何とそれは、次兄のダルム=ルウであった。
普段以上に不機嫌そうな目つきで、眉のあたりに不穏なしわを寄せている。
アイ=ファもまたグラスを置き、冷たく冴えわたった面持ちでそちらに向きなおった。
「アスタ、私も少し席を外させてもらう」
「う、うん」
アイ=ファとダルム=ルウが、連れ立ってテラスの隅のほうに歩み去っていく。
その背中を見送りながら、「なーんか機嫌が悪そうだったね、ダルム兄」とララ=ルウが小首を傾げた。
「それに、ダルム兄が自分から女の子に声をかけるのって、すっごく珍しい気がするなあ。あのふたりって、交流あったの?」
「いや、《つるみ屋》でいっぺん顔を合わせたぐらいで、あとは会話らしい会話すらしたことはないはずなんだけど……」
「そっか。まあ、機嫌が悪くても女の子に乱暴な真似をするようなことはないから、心配はいらないよ」
シン=ルウやリミ=ルウも、少し不思議そうな顔をしてはいたが、べつだん心配そうな様子ではなかった。
彼らほどダルム=ルウの内面を知らない俺としては大いに心配であったのだが、お腹を空かせた子犬のように切なげな目つきをしているレイナ=ルウを無下にもできない。
腹の底にもやもやとした不安感を抱えこんだまま、俺もレイナ=ルウとともに人気の少ないスペースへと移動するしかなかった。
「あの……突然このような申し出をするのは、ぶしつけだと思うのですが……怒らないで聞いていただけますか?」
と、2人きりになるとレイナ=ルウはまたもじもじとし始めた。
調理中はもっと活動的な格好をしていたのだが、いつの間にやら着替えていたらしい。フリルの可愛らしいふわふわのキャミソールに、七分袖の淡いオレンジ色をしたカーディガンを羽織っており、足もとは白いスカートとエスニックなサンダルだ。
幼馴染の玲奈同様、華美すぎず地味すぎずの女の子らしい装いである。
背丈は低いがプロポーションは抜群なので、魅力的なこと、この上ない。クラス内の男子の人気は、文句なしにナンバーワンのレイナ=ルウであるのだ――アイ=ファが転入してくるまでは、だが。
「別に怒ったりはしないけど、でも、いったい何の話なのかな?」
俺がうながすと、思い切ったようにレイナ=ルウは面を上げた。
「あの――アスタはゴールデンウィークに、何か予定は入っていますか?」
「ゴールデンウィーク? いや、カレンダー通りに《つるみ屋》も休みを取る予定だけど」
「そうですか」とレイナ=ルウは瞳を輝かせる。
「ルウ家では毎年、ゴールデンウィークは別荘で過ごすことになっているのです。それで――あの……今年は、アスタもご一緒できないかと思って……」
「俺が? どうして?」
もちろん俺には、寝耳に水の話であった。
ルウ家とは親しくさせていただいている俺ではあるが、家族水いらずの旅行に出張るなんてのは、そんなに当たり前の話とも思えない。
レイナ=ルウは、ちょっと懇願するような面持ちになりながら、ぐっと身体を寄せてきた。
「わたしはアスタのように、もっともっと料理の腕を上げたいのです。ですが、学校ではアスタも自らが学ぶ立場ですし、それを邪魔するわけにもいきません。……でも、ゴールデンウィークの間だけでも、アスタとともに厨房に立つことができれば、わたしはとても多くのことが学べると思うのです」
「いやあ、俺だって修行中の身だしねえ。レイナ=ルウほど立派な腕前を持ってる相手に料理の手ほどきだなんて、そんな大それた真似はできないよ」
慌てて手を振りながら後ずさりつつ、「それに――」と俺はつけ加える。
「店が休みの間は、アイ=ファの面倒を見る約束をしてるんだよね。だからちょっと、家族旅行にご一緒するのは難しいかなあ」
「……アイ=ファには、料理の手ほどきをしているのですよね」
レイナ=ルウは、とても切なげに身をよじる。
「その話を聞いて、わたしはとても羨ましくなってしまったのです。……クラスでも一番の腕前を持つアスタに手ほどきしてもらえれば、どれほど豊かな時間を過ごせるだろう、と……」
「いや、だけど、レイナ=ルウの腕前だって大したものじゃないか。学校の授業以外は独学でそれほどの技術を身につけられたんだから、それはすごいことだと思うよ?」
「……それでも、アスタにはとうてい及びません」
レイナ=ルウの目に、じんわり涙が浮かんでしまっている。
こと調理技術の向上に関しては、誰よりもひたむきで一途なレイナ=ルウなのである。
「アイ=ファへの手ほどきが必要なのでしたら、わたしも協力いたします。決しておふたりの時間を無駄にはさせません。何だかジバ婆もおふたりのことはとても気に入っている様子ですし……どうか、ご同行をお願いできないでしょうか?」
ジバ婆さんも、参加するのか。
アイ=ファのほうも、俺に劣らずあの魅力的なご老人には心を引かれている様子であった。
そして、アイ=ファになついているリミ=ルウの存在もある。
俺は、「うーん」と考えこむことになった。
「それじゃあ……アイ=ファと親父に聞いてみてからお返事をするってことでいいかなあ? いちおう親父も不自由な身体だからさ。心配でないこともないような気がしなくもないし」
「はい! ありがとうございます!」
一転して、レイナ=ルウは輝かんばかりの笑顔になった。
このあたりは、弟や妹たち同様、素直なレイナ=ルウなのだ。
もしもこの期待を裏切ることになったら、とてつもない罪悪感を抱え込むことになりそうであったが、まあそれは俺の裁量で何とかするしかないだろう。
「それじゃあ、向こうに戻ろうか。ダルム=ルウのことがちょっと心配だし」
「はい」と笑顔でレイナ=ルウがうなずく。
そうしてもといたテーブルのほうに戻ってみたが、アイ=ファたちはまだ不在だった。
俺はレイナ=ルウを妹たちのもとに残し、ふたりの姿を探索する。
アイ=ファとダルム=ルウは、テラスの外の暗がりにいた。
中庭の端に立つ大きな樹木の陰で、何やら言葉を交わしている。その横顔の距離が、異様に近かった。
知らず内、鼓動が速くなってしまう。
「おい、アイ=ファ」
呼びかけると、アイ=ファだけが俺のほうを向いた。
アイ=ファに顔を寄せていたダルム=ルウは、かがめていた腰をのばす。
「すみません。ちょっとアイ=ファに用事ができてしまったんですけど、まだお話の最中でしたか?」
ダルム=ルウは、答えなかった。
さらに近づくと、その端整な横顔は、さきほどアイ=ファを連れ去ったときよりもいっそう不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「……よく考えておけ。お前にとっても、それが最善の道であるはずだ」
そんな言葉を言い捨てて、ダルム=ルウが木の下を離れる。
そうしてテラスのほうに戻りながら、ダルム=ルウは俺のほうを見ようとはしなかった。
「おい、いったい何の話だったんだ?」
小走りでアイ=ファのもとに寄っていくと、「べつだん大した話ではない」とアイ=ファは肩をすくめた。
「それよりも、私に用事とは何なのだ? そろそろ家に戻るか?」
「ああ、もうすぐ8時半か。ぼちぼち帰り支度を始めてもいいかもな。……なあ、ダルム=ルウとは何の話だったんだよ?」
「大した話ではないと言っている。わざわざお前の耳に入れるほどのことではない」
「何だよ、気になるなあ。……まあ、話したくないなら無理に聞きほじることはできないけどさ」
さきほどまでダルム=ルウが立っていた場所に立ち、俺はアイ=ファの顔を覗きこむ。
アイ=ファは――
不思議そうに、きょとんとしていた。
「それほど気になるならば、話して聞かせよう。あの次兄めは長兄と同じように、すぽーつ科への編入を勧めてきたのだ」
「え? それだけか?」
「うむ。何やらすぽーつ科のほうでは人手の足りていない部活動が多数存在するらしい。それであのシン=ルウやラウ=レイといった者たちも、ふたつの部活動を盛り立てる役をこなさなくてはならないのだそうだ」
アイ=ファは淡々と言葉を重ねていく。
「なおかつ、あの次兄めは体育の授業で何度か私の姿を見かけたらしいな。長兄めと同じ論法ですぽーつ科への編入を勧められたが、私には同じ言葉を返すことしかできなかった」
「ああ、そういうことだったのか……」
俺は、おもいきり息をつかせていただいた。
それを見て、ますますアイ=ファはけげんそうな顔をする。
「いったいどうしたというのだ? いささか強引な気性はしているようであったが、それほど粗暴な男ではないようであったぞ?」
「うん、いや、ちょっと見当外れの心配をしちまっただけだよ」
「見当外れの心配とは?」
不思議そうに、アイ=ファが首を傾げる。
人混みを離れて少し気がゆるんでいるのか、子猫のようにあどけない仕草である。
暗がりで、青い瞳に真っ直ぐ見つめられて、俺はまた何だか鼓動が速くなってきてしまった。
「……さすがにこんな場所で愛を語らうほど、ダルムはふてぶてしくはないと思うわよぉ……?」
と――ものすごく柔らかい物体が、いきなり後方からのしかかってくる。
熱い指先に咽喉もとをからめ取られつつ、「うひゃあ!」と俺は悲鳴をあげることになった。
「ヴィ、ヴィ、ヴィナ=ルウ? いったいどこから湧いて出たんですか!?」
「失礼ねぇ……わたしは最初から、ずっとこの木の後ろにいたわよぉ……?」
その肉体に劣らず熱い吐息が、耳の内部に吹きこまれる。
ぞくぞくと、恐怖心にも似た感覚が背筋を走り抜けていった。
「ちょっとお酒が過ぎちゃったから、ひとりで酔いざましをしていたのよぉ……ダルムは気づいてなかったみたいだけど、アイ=ファは気づいていたんでしょぉ……?」
「うむ。べつだん気配を殺している様子でもなかったからな」
「……まるで猫みたいに敏感なのねぇ……」
そんな呑気な会話を交わしつつ、ヴィナ=ルウの熱い身体は俺の背中に張りついたままだった。
確かに酔っているらしい。アルコールの甘い香りが、俺の鼻腔にぐいぐいと侵入してくる。
「あ、あのですね! ちょっとスキンシップの度が過ぎているように感じられてしまうのですけれども!」
「うん、ごめんねぇ……まだちょっと足もとがおぼつかないみたいなのぉ……」
「飲みすぎですよ! ていうか、ヴィナ=ルウはまだ19歳じゃありませんでしたっけ!?」
「……女性に年齢の話をしないでぇ……」
意外にヴィナ=ルウは怪力で、そのなよかな指先を振りほどくのはなかなかに困難であった。
背中全体に押しつけられた柔らかい感触が、いい具合に俺を混乱させていく。
「で、私に用事とは何であったのだ?」
そんな狂態は歯牙にもかけず、アイ=ファが冷静に問うてくる。
いや――まぶたを半眼にしてじっと俺たちを見つめているその表情は、冷静を通りこして冷徹にすら見えた。
ついさきほどまでは子猫のように可愛らしかったのに、野生の山猫のように眼光が鋭くなってしまっている。
「いや、ちょっと、あんまり今はまともに会話をできる状態でもないんだけど……」
「それしきのことで取り乱すな。いいから、話してみよ」
心なしか、口調も冷たい。
俺としては、前門の虎に後門の狼といったところであろうか。
狼というよりは、アナコンダか何かに飲みこまれかけているような心境であるのだが。
「ヴィナ=ルウ、いったいどうなされたのですか?」
そこに2名の救世主が現れた。
ガズラン=ルティムとアマ=ミンである。
「あらぁ、アマ=ミン、おひさしぶりねぇ……」
と、ヴィナ=ルウはほとんど倒れかかるような勢いでアマ=ミンへと宿主を移してくれた。
全身をうっすらと上気させたヴィナ=ルウに頬ずりされながら、アマ=ミンは困ったように微笑する。
「またお酒が過ぎたのですね。ヴィナ=ルウは父上ほどお酒は強くないのですから、自制が必要だと思いますよ?」
「ドンダ父さんにつきあっていたら、それこそ足腰が立たなくなっちゃうわよぉ……」
ヴィナ=ルウはうっとりと目を閉じながら、アマ=ミンにしなだれかかっている。
本当に、フェロモンの権化のごときお姉さまである。
それに軽く手をそえて支えてあげながら、アマ=ミンは穏やかに俺とアイ=ファに笑いかけてきた。
「アスタたちはこのような場所でどうされたのですか? そろそろ料理も底をついてしまいそうですよ?」
「ああ、いや、ぼちぼちおいとましようかと思ってね。今日はこんな盛大なパーティにお招きされて楽しかったよ」
まったく質問の答えになっていないし、同じ招待客のアマ=ミンにこのようなことを告げるのもいささか見当違いである。
どうやら俺のほうはまだ冷静さを取り戻せていないらしい。
しかしアマ=ミンは、「そうですか」と普段通り冷静に受け流してくれた。
「お帰りになるのでしたら、私が車でお送りしましょうか? 私は不調法で、酒類は口にしていないのです」
と、やはり沈着かつ穏やかな様子でガズラン=ルティムがそのように言ってくれた。
「いえいえ、そこまでお世話になるのは申し訳ないです。……おふたりもそろそろお帰りの頃合いですか?」
「いえ。父ダンは最後の酒瓶が空になるまで動こうとはしないでしょうから、まだまだ帰りは遅くなりそうです」
そんな風に言ってから、ガズラン=ルティムは少し心配そうに婚約者の姿を見下ろした。
「だけど、アマ=ミンは明日も朝から授業なのに大変だね。本当に大丈夫なのか?」
「ええ。わたしはけっこうな宵っ張りですので、心配には及びません」
「そうか。眠くなったら、車の中で眠ってもいいからね」
「……婚儀を控えた身で、そのようにはしたない姿を見せることはできません」
「大丈夫だよ。父ダンはきっと座席に転がりこむなり眠ってしまうだろうから」
アマ=ミンはちょっと頬を赤らめつつ婚約者の顔をにらみつけてから、「……眠りません」と静かに答えた。
「そうか」とうなずいてから、ガズラン=ルティムは俺たちに向きなおった。
「それではアスタにアイ=ファ、お元気で。またどこかでお会いできる日を楽しみにしています」
「はい。おふたりの結婚式には是非参席させてくださいね」
「……婚儀までにはまだ2年近くありますよ」と、俺までアマ=ミンに赤いお顔でにらまれてしまった。
どうにも野暮天な男がそろうと、若い娘さんが割を食うことになってしまうようだ。
そんな弊害とも無縁なヴィナ=ルウが「もう帰っちゃうのぉ……?」と不満げな声をあげる。
「何だったら、みんな泊まっていけばいいのにぃ……宴の後って、何だか物悲しい気分になっちゃうのよねぇ……」
「いやぁ、俺たちも明日は学校ですので。それに、朝方は仕込みの仕事もありますからね」
「そっかぁ……またアスタの料理を食べさせてねぇ……?」
「はい。そういうお話なら喜んで。今日は本当にお招きくださってありがとうございました」
そうして俺たちはご当主の一家にも一通り挨拶をしてから、ルウ家を退去することになった。
「また《つるみ屋》にも行くからね!」とぶんぶん手を振るリミ=ルウに見送られつつ、門を出る。
ルウ家の敷地を一歩離れれば、そこは鬱蒼とした森の中の道だ。
街灯なんてのはえらく間遠にしか存在しないので、道はひたすら暗い。
しかし、帰りの挨拶をした際に、俺たちはミーア・レイ母さんから防犯ブザーのようなものを手渡されることになった。
これにはGPSが内蔵されており、作動させれば、学園とルウ家を守っている私設の警備員がすみやかに駆けつけるのだという。徒歩でルウ家を行き来するなら、それはずっと身につけておいてほしいとミーア・レイ母さんはそのように提案してくれた。
「またいつでも好きなときに遊びに来ておくれよね」
で、料理のお礼だと言ってすごく上等そうな葡萄酒と葡萄ジュースのセットまで手渡されてしまったので、俺としては恐縮することしきりであった。
ともあれ、帰還である。
青白い月に見下ろされながら、俺はアイ=ファとともに暗い林道をてくてく歩いた。
本当に山の奥深くなのではないかと錯覚してしまうような物寂しい道であるが、10分ばかりも歩くとすぐに視界は開けて駅の前に出るので、それまでの辛抱だ。
「……というわけでな、ゴールデンウィークの家族旅行にまでお招きされてしまったんだけど、アイ=ファはどう思う?」
その暗い道を歩きながら俺が問いかけると、アイ=ファは「ふむ……」と難しい顔で考えこんだ。
「レイナ=ルウがアスタの力を欲しているというのならば、私ばかりがアスタの身を独占してしまうのは忍びない。私のことなどはかまわずに、アスタだけがその集いに参加すれば八方丸くおさまるのではないか?」
「ちっとも丸くはおさまっていないな。休日に料理の勉強をするっていう約束はアイ=ファのほうと先に交わしていたんだから」
「しかし、すべての休日を私の修練にあてるなど、アスタの負担が大きすぎるではないか」
「そんなの何の負担でもないよ。もともと休日だって、やることがなければ厨房に入ってるからな」
「……休日でも、お前は自身の鍛錬に励んでいたということか」
言いながら、アイ=ファはまた少し物思わしげな目つきになってしまう。
「アスタ、やっぱり私の存在は――」
「全然負担にはなってないってば。俺だって、アイ=ファが他の学科に移ったり進級試験で落ちたりするのは嫌だからな。余計なことに気は回さず、アイ=ファは料理の勉強を頑張ってくれよ」
「……お前とて、当初は進路を考えなおすのもひとつの道であると言っていたではないか。そうであるにも拘わらず、私がすぽーつ科に移るのは、嫌なのか?」
真正面から問われてしまい、俺は頭をかくことになった。
「そりゃあお前がそこまで料理の勉強に意欲を燃やしているってことを知る前の話だろ。俺だって、せっかく同じクラスになれたんだから、一緒に進級して一緒に卒業したいとは思っていたよ。……もちろんアイ=ファが自分の意思で他の学科に移りたいって考えたんなら、それを応援するけどさ」
「……私は調理学科で自分の至らぬ面を磨きたいと考えている」
「だったら一緒に頑張っていこう。ゴールデンウィークに関しては、それじゃあ親父の返事次第ってことでいいかな?」
「うむ」
それでようやくこの段階での話はまとまった。
あとは親父次第であるが、まあ大型連休でも家でゴロゴロばかりしているだけの親父であるから、返事などは聞く前からわかっている。俺とアイ=ファが家を明ければ、誰の目をはばかることもなく思うぞんぶん自堕落な生活を営めるだろう。
ドンダ=ルウやジザ=ルウとご一緒の家族旅行なんて、なかなか想像を絶したイベントであるが、アイ=ファがリミ=ルウやジバ婆さんたちと親睦を深められるなら、それも有意義だ。
それに、レイナ=ルウであれば俺とは違った視点からアイ=ファに何かを授けてくれるかもしれない。
そんなことを考えながら、夜道をてくてく歩いていると――いきなり背後から何者かに身体を抱きすくめられてしまった。
何者というか、まあアイ=ファである。
「ア、アイ=ファ? いきなりどうしたんだよ!?」
「うむ。……さきほどの長姉のふるまいが、いささか心に引っかかってしまっていたのでな」
そのようなことを述べながら、ぎゅうっと俺の身体を羽交い絞めにしてくる。
当然のこと、俺はさきほど以上に混乱することになった。
「ヴィ、ヴィナ=ルウがどうしたって? あのお人は酔っ払ってただけなんだぞ?」
「理由などはどうでもよい。ただ、私にとってアスタは血族同然の存在であるのだ。そうであるにも拘わらず、家人ならぬ他者が私以上に親密そうなふるまいに出るなど、腹立たしいではないか?」
「よくわからない! 家族で抱擁し合う風習なんてこの国には存在しないぞ!?」
「この国の風習は、この際関係がない」
実に冷静な声で述べながら、アイ=ファは背後からそのなめらかな頬を俺の頬にひたりと当ててきた。
「私はお前に出会えて幸福だ、アスタ」
「こちらこそ!」とわめきながら、俺は何とかこの蠱惑的な拘束から脱しようとあがいたが、ヴィナ=ルウ以上に怪力のアイ=ファが相手ではそれも詮無きことであった。
そうしてジバ婆さんの傘寿のお祝いの日は、ささやかなる惑乱の内に幕を閉ざしたのだった。